同二十日(慶長2年(1597年)8月)、南門をお立ちになり、赤国(全羅道)府中(全州)にお着きになった。
府中の城は説得して開城した。
府中に五日間ご滞留され、その後、府中をお立ちになり押し進まれると、奥にもチャント中城(機張?)がある。
これも説得して開城した。
また、その奥にハマンという城(咸安城?)がある。これも説得して開城した。
さて、相良家臣の中に小田又兵衛という優れた者がいました。
彼は城普請が得意で、人吉城の谷の清水石垣は彼の縄張り(設計)によるものです。
そんな又兵衛さんの朝鮮の役エピが以下の部分です^-^
それより(上記のハマンという城の)奥に大きな穴がある。
軍勢たちは様子がわからないので、その穴の口へ行こうとしたら、半弓で射られてしまい、負傷・死人が多数でてしまった。
高麗の通事(通訳)を呼び寄せて大将達が尋ねられたところ、だいたい一国分程の人数が籠もっており、男女二万人ばかりいるそうである。
兵糧と輸送馬を置き、伊東殿・秋月殿・島津殿・高橋殿・森殿・相良頼房公たちの軍勢が集まって、いかがすべきかと評議していたところ、当家(相良家)より小田又兵衛が進み出て言った。
「我々は生まれ故郷で狩猟をしますが、狸が穴に引きこもってしまったとき、焼草で穴を燻すと、煙たさに耐え難く、狸は穴の口に出てきます。また、出てこないときは、穴の奥を燻して殺します。どうかこの穴を燻してみては。」
と言ったところ、軍勢はみな「そうしよう」と手に手に焼草を調達し、穴口に山ほどに積み立て、それに火をつけてしばらく燻したところ、三町離れた山の上に煙が見えた。
そこで、また違う穴口があるということで、上に材木を引き渡して焼草を積み上げて火をつけると、穴の中はとても動転していた。
それより一日一夜燻すと、穴の中から叫び声を挙げたように聞こえた。
さては煙たさに耐え難くて息絶えるときに、一気に呻く声だということだ。
さて、火を消して一日過ぎてから穴の口の中に入って見たところ、中々の煙たさで耐え難かったために軍勢は退き、また三日過ぎた頃に穴の中に入ってみると,死人たちは算木を乱したように無秩序に散らばっていた。
馬も人も、精々強いものにはまだ息を通わせているものもいた。
日本人の肺に取り付き、だんだん一町ばかり入ったところで皆逃げ出してしまい、それより奥には入らなかった。
何千人死んだかもついにわからなかった。
二万人も隠れられる穴というと、鍾乳洞かな?^^
伊東祐兵・秋月種長・島津豊久・高橋元種・毛利勝信・相良頼房・・・管理人的ドリームチーム~ウットリ(人´∀`).☆.。.:*・
(伊東氏と島津の交戦関係を想うと、どうにも「親友」の二文字に吹いてしまうwww)
で、この年の年末から正月にかけて、蔚山で加藤清正や浅野幸長が籠城戦で死ぬ思いをするのだが、管理人的ドリームチームは、これには直接は関わっていない。
彼らは泗川から蔚山へ援軍に向かってるんですが、着いた時には敵兵は引き上げた後だったんです。
んで、することが無い~~ってことで釜山に戻ってます^-^
ちなみに蔚山には例の深水頼蔵が参加して討死し、コアなとこでは阿蘇惟善も従軍してます。
阿蘇惟善は阿蘇氏の生き残りでして、まだこの頃は浪人として加藤清正の軍に参加です^-^
あ~~~~~~~~~~~~大名としての阿蘇氏の最期を書くの忘れてたぁぁぁ!!!!

(ロン様作成:阿蘇家紋ロゴ)
遅ればせながら伏線回収~~~~~~~~ アタヽ(´Д`ヽ ミ ノ´Д`)ノフタ
甲斐宗運の死後、阿蘇当主は惟将が死亡、その跡を継いだ惟種までが死亡と喪中のズンドコ。
家督を継いだのは、惟種の子で僅か2歳の惟光ちゃま。
惟光ちゃま&生母は、豊臣秀吉に保護を求めて僅かながらの領地を与えられ、阿蘇神社宮司としての地位も認められたが、大名としての特権は全て剥奪された。
さらに「肥後国人一揆」で、亡き甲斐宗運の息子が一揆に加担し敗れて死に、阿蘇氏筆頭家老の甲斐家も滅亡。
秀吉は肥後人に影響力のある阿蘇大宮司を潰すチャンスを狙っていたのだと思う。
1592年の「梅北一揆」で、阿蘇惟光が加担していたとして処刑(斬首)したんです。
惟光ちゃんは数え12歳の若さで、自力で旧家臣を扇動したとは思えません。
むしろ惟光が成長し、自我に目覚めて「何事かを為す」前に、その芽を摘み取ったとみるべきでしょう。
これにより阿蘇氏嫡流は断絶しました・・・・が、一人だけ生き残った子がいたんです。
それが殺された惟光クンの弟・惟善クンです。
阿蘇兄弟は、おそらく年子だと思うので、朝鮮の役の頃なら惟善は数え16歳くらいかな。
初陣が「蔚山の戦い」とはヘビーすぎる~(((((( ;゚Д゚)))))ガクガクブルブル
でもって意外なことに阿蘇惟善は雑兵3000も率いてます。
若年&浪人が自力でそれほど集められたかチト疑問なので、加藤清正から預かった兵かもです。
預かるとすれば阿蘇氏と所縁のある肥後人だろうから、やはり阿蘇大宮司オーラの残光は侮れませんね^^
惟善も異国の戦場で相当苦労したと思われますが、阿蘇氏御家再興の夢は叶いませんでした。
その代わりといってはなんですが、関ヶ原の戦いの後に阿蘇惟善は加藤清正から所領を与えられ「神職・阿蘇大宮司」として復活するんです。
現在の阿蘇大宮司は、この惟善からの系譜です^-^
でも秀吉が往年の英気を失わず存命だったとしても、阿蘇氏の旧領復活は無理だったでしょう。
全ての宗教勢力を武装解除し、神社系武家を潰すのが秀吉の本音だからです。
阿蘇大宮司職を諦め、四国か東北あたりの領地・2~3万石程度で手を打って、家康を通じて交渉すれば上手くいけば何とか・・・ってとこでしょうか。
それでも転封の引っ越しなんかで、ウッカリ旧家臣を集めたりしたらヤバイと思う。
九州とか小田原等々で没落⇒関ヶ原で没落orリベンジ化⇒大坂の陣でリベンジいけちゃう?
・・・という流れからは欠落してますが「朝鮮の役」でリベンジ「御家再興」の夢を追った若者もいたということです^-^
相良の朝鮮の役も幕を閉じようとしています。それは またの話^-^