南藤曼綿録より
赤国(全羅道)を攻める前に、太閤秀吉が高麗人を討ち取った手柄を示すために鼻をそいで差し出すように命令した。
諸大名はそれぞれ鼻を納め、相良家からも千八百の鼻を納めた。
太閤秀吉は納められた鼻の数を帳面に付け、京都東山の大仏殿の楼門の前に鼻を埋め、その上に五輪の石塔を立てた。
現在、鼻塚と呼んでいるのがそれである【※】
【※】京都市東山区の豊国神社門前にある史跡で、耳塚という呼称が一般的。
古墳状の盛り土をした上に五輪塔が建てられ周囲は石柵で囲まれている
慶長三年(一五九八)正月から組中の諸大名はそれぞれ古仙(固城)という所に陣を構えた。
そこへ又、広南人が大勢で攻めて来た。
組中のどの大名も激しく戦って広南人を防御した。手痛い合戦で、日本勢は数百人討死にした。
相良家も六十人以上が討死にした。
このようであったが、広南人が負けて後退したので、その後は古仙(固城)の城代を柳川(立花宗茂)殿へ任せて、その他の諸大名は釜山海へ帰陣した。
「文禄の役」の時は、組リーダーの清正がガンガン進軍したので、相良兵も明国との国境あたりまで進軍していた。
(激戦だったので清正に「頼房が討死した」と早トチリされた)
「慶長の役」の時は、基本として釜山海の防備で、要請があると援軍として派兵されるようなスタイルだったようだ。
通算7年間の出陣に於ける相良勢の討ち死には47人、病死は13人、討ち取った鼻は1,800です。

幸麿さま作画:相良頼房公~イメージ画
文禄年間には人吉の城下町の整備が行われたらしい。
で、他家同様に相良家でも朝鮮から連れてきた者たちを「唐人町エリア」に住まわせた。
戦後に捕虜返還があるのだが、相良にいた朝鮮人が全て帰国できたのか管理人には判らん^^;
ただ、捕虜返還時に母国へ帰らず頼房の元に残った者もおり、頼房が死去した時に殉死している。
1598年8月18日に秀吉が死去した事が知らされると、頼房ら諸大名は帰国することになる。
そして過去記事にあるように、帰国後に相良頼房と秋月竜子が結婚する^-^♪
大好きな武家同士が縁組によって結ばれるのは、ファンとしては非常に嬉しい^^♪
頼房には武家当主の常として側室はいるのだが、嫡男の生母は竜子なんで自分的には満足^^♪
これで相良家の「朝鮮の役」は終わった。
でもって次は「相良家にとっての関ヶ原の役」に入ります^^
全部読む奇特な人がいるか分からないが相良の関ヶ原はネタばれしてて、それがカテゴリ「関ヶ原大垣城編」。
関ヶ原以降の相良は「人吉藩初代藩主編」になります。
相良から見た南九州は、これで終わります。
ありがとうございました^-^