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Channel: 九州戦国ブログ~室町末期から江戸初期まで~
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【ふぉ~えばぁ~少弐・後篇】龍造寺隆信「覇」の巻29

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油断していた(勢福寺)城兵は取り乱し、江上武種は降伏し、城を出て筑後へ逃れた。
残された冬尚は成す術無く、同月11日に自害した。享年33。
少弐冬尚の年齢には異説があって、自分も異説支持なんですが、とりあえず北肥戦誌の記述通りで。
この時、江上武種は龍造寺隆信に内通してたとも言われますが、真相不明です。
また、冬尚も江上と共に城を忍び出て、有馬仙岩父子を頼み藤津へ逃れ、七浦にて病死したとも言われている。
少弐冬尚のじぶとさを考えると、こっちも有りな気がする^^;

http://blog-imgs-49.fc2.com/s/i/o/siori20120901/blog_import_5042c7a602686.jpeg

とにかく少弐氏は、今度こそ、やっと、遂に、滅亡しました。
いや~長っかったっす・・・il||li _| ̄|○ il||l
まさか、ここまで少弐が肥前戦国史に絡むとは、リサーチ前は甘く見てました^^;
実は少弐冬尚には弟がいまして、その弟を擁しての御家再興運動があるんです。
が、龍造寺隆信という英雄が肥前に台頭した以上、少弐の御家再興は二度とありませんでした。
さて、冬尚落居を知り千葉胤連(西千葉)は、不仲である冬尚の実弟・千葉胤頼(東千葉)の晴気城を攻めるべく龍造寺家に助勢を頼み、差し向けられた1,500と共に牛尾城を出陣する。
これに胤頼は、城を出て東の山路で戦うも、家人12人、又者(陪臣)4人と共に討ち取られた。享年28。
肥前千葉の西と東の経緯は、複雑なんで書ききれません^^過去記事にアップ済~
とにかく100年ほど端折ると、東千葉の家督は少弐冬尚によって乗っ取られてました。
冬尚実弟の千葉胤頼は、当時10代前半の少年だったので、冬尚の思い通りに出来たでしょう。

この実弟は、兄である少弐冬尚を良く支えてました。
牛尾城だって、元々は東の千葉胤頼が、兄が晴気城に入った場合に備えとして築城した城だったんです。
ですが、この頃には牛尾城も西千葉に落とされ、晴気城だけが孤立している状態だったみたいです。

兄・少弐冬尚の為に生きてきた弟・千葉胤頼は、降伏することなく戦場で散りました・・・ショボーン..._φ(・ω・` )
兄の冬尚ですが、この時に晴気城にいて、晴気城から勢福寺城に逃げて江上に自害を勧められ、激昂した少弐冬尚は割腹し己の臓物を江上に投げつけ「七代祟りをなすべし」と呪詛したともあります。
江上氏の終わりを考えると、呪詛通りのような、そうでないような~微妙。
尚、胤頼には男子が一人あり、胤頼討ち死にの後に、上佐嘉川窪へ赴き神代家を頼った。
後に千葉(屋形)胤誠と名乗る。
保護された時に胤誠は、千葉氏重代の家宝を神代勝利に託したそうです。
千葉氏系図と刀などです。
胤誠には娘しかいなかった為、東千葉氏の系図は神代家が引き継ぎます。

佐賀藩士として残った神代家の本姓は、引き継いだので千葉と同じ平氏。
家紋は千葉氏の月星紋で通字も千葉氏で用いていた「常」を使ってます。
東千葉家最後の姫君は、神代家当主に「姉君」と呼ばれ大切に保護され、東千葉旧臣も神代家に仕えたそうです。

http://blog-imgs-49.fc2.com/s/i/o/siori20120901/blog_import_5042c7aeeae86.jpeg

(肥前千葉正統嫡家当主⇒)千葉胤連は以後、龍造寺に属し小城一郡を領した

この時を持って、戦国大名・龍造寺氏の誕生です


肥前・・特に東肥前の国人たちには、かつて主君が二人いました。
一人が太宰少弐・往時は肥前守護だった少弐氏。
いま一人が往時は肥前国主と尊崇された鎌倉以来の東国御家人系領主・肥前千葉氏。

この「二つの主家」が肥前戦国史を複雑怪奇にしてた最大の要因です。
国人たちの多くは、元々は肥前千葉氏配下で、肥前千葉が衰退(少弐に吸収)すると少弐配下へと流れていました。

従って東肥前を制覇する者には、少弐氏と千葉氏の両方を屈服させる必要が生じます。
どちらかが超然と残れば、かつての「御屋形様」として担ぎ出される可能性が無いとは言えない。
新たな東肥前の覇者の正当性が、脅かされるんです。

幾度となく御家再興を成功させてきたアンテッド少弐は、少弐冬尚の自害により永久の眠りにつきました。
かつての肥前国主・御屋形様千葉氏は、小城郡高田を本拠として龍造寺幕下に入りました。

二つの主家を下克上するという難題を、龍造寺氏は一族滅亡のピンチを乗り越え、見事クリアしたのです



(和艶・姫画像提供&フラッシュ加工は南洲さまです♪ヽ(*´∀`)ノ)

国人領主から戦国大名へ、蛹が蝶になるように成長した龍造寺氏。
勢力拡大を続ける龍造寺氏の前に立ちはだかるのは、全盛期を迎えんとするキングオブ九州・大友義鎮(宗麟)なのだが、それは・またの話 by^-^sio

「覇」の巻、これにて完結~またリサーチのため間空きます^^/

北肥戦誌【少弐アレコレ】

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永禄四年の頃、前太宰少弐冬尚の舎弟に御曹司元盛という人があった。
父の資元が天文の初めに多久にて生害されたときは未だ幼く、妹君と共に少弐の旧領・佐賀郡川副の江上村福満寺に些か所縁があって忍び居たのであるが、譜代の家臣≪今泉朝覚≫が資元の遺言により撫育し、永禄四年に元盛は既に27歳になったと聞こえた。

この朝覚、まだ若かりし頃に少弐衰亡を嘆き、如何にしても朝廷に会って当家を再興すべしと思い立ち、出家に姿を変え播磨坊朝覚と名をやつすと、まず六十六箇国を廻って諸家へも心を合わた上で上洛を遂げ、竹苑柳房を初め公家方に縁を求めた。中でも柳原大納言資定卿の元へ常に近づき奉った。

然るに朝覚在京のとき、頃は大永元年に東山祇園社に参詣し、
「南無帰名頂礼牛頭天王、願わくば和光の憐を垂れ、朝覚が心中の願いを成就なさしめたまえ」
と臥して頼み、新たに宮殿を修造し、その社の辺りに杉と松とを多く植え置いた。

だが神官らは、朝覚の礼を訝しく思いこれを逐一報告していた。
奈良院は朝覚を法橋上人に補任の上で、
「上人、辺鄙の身として在京し祇園造営したこと、どのような仔細あってのものか」と問うた。

朝覚が申すには
「愚僧は元来、太宰少弐譜代の家人・今泉朝覚と申す者です。私自身のことには何ら願いは御座いません。しかしながら主の少弐は、九代を貫いた主なれども、近年鎮西の輩に威を奪われ、政資父子兄弟は明応年中に所々にて討たれ、その後に家は衰微して政資の末子資元一人のみ残ったものの、当時は浪々の身にて肥前国藤津という田舎の山中に罷り在りました。名家の民間に下がりしこと、その家人として某はこれを憂い、此度の上洛のついでに牛頭天王の擁護を頼み申した。願わくば聞き届けられ、廃れたる少弐家を御立て給わりたい」
と泣く泣く答えた。

その旨は悉く奏聞され、公卿は詮議の上で追って綸言すると下されたが、朝覚は力及ばずそのときはとりあえず帰って行った。

しかし、天文七年に上洛したときに再びこれを訴えると、少弐再興の事を鎮西の武士どもへ綸旨下されるべしと伝奏の者から朝覚へ言い渡される。
朝覚は大いに喜び、この勅書を帯びて天文九年に筑紫へ下向、大内義隆・渋川尹繁を初め鎮西の諸将へこれを披露したが、皆勅命に従わなかった。
朝覚は力及ばずして年月を送っていたが、この永禄四年に上洛し少弐再興を以前の様に訴え出た。

このとき下された綸言は、
「朝覚上人が度々訴え出たため少弐再興を九州の武家へ勅定したが、彼の少弐という者は将軍家に対し度々弓を引き世を乱した者であるから皆が勅命に従わないのである。強いてまたこれを立てんとすれば、勅裁を恨む者が現れ国家の乱れとなる。故に天意が及ばないのである。。この上はせめて少弐の末葉そのまま安穏に差し置くようにと、肥前の龍造寺に綸言を下される」
と伝奏の者から伝えられた。

朝覚は元盛の居る肥前川副庄へ下向した。
隔して龍造寺へも右の勅命が下れば隆信はこれを了承し、自ら川副の福満寺へ赴き元盛と対面、懇ろに言葉を添えそのまま元盛をこの寺へ差し置くとした。

朝覚はその後、元盛へ言うのは
「多年心を砕き、公を世に立てんと思い京よ田舎よと奔走いたしけれども、時至らざれば力なし。所詮、今の様に有るか否かの有様です。賎家の塵に穢れられるよりは、今は仏門に入られ、無上菩提を求められませ」
と涙ながらに述べれば、元盛も袂を濡らし、兎も角もよきに計らうべしと主従連れだって高野山に登り、元盛は真福院にて髪を剃り、明くる永禄五年に密乗の法水を請けて灌頂職位を得て大納言式部卿法印に任じ、下国してのち朝誉と名を改めて福満寺に住んだ。

然るに朝誉法印に幼少より付き従う家人三人があった。
その中の一人は今泉朝覚、ならびに窪・平原である。

法印はこの三人の従者を召して申すのは、
「我は往日は一度少弐の名跡を継ぎ、汝らを股肱として生前の恩を報じようと思ったが、ついに本懐を遂げず仏門へと入り忍従の法衣を纏った。誠に前業の感ずるところ悔いるべきにあらず。君臣、三世の宿縁あって主従の契りを結ぶと聞く。然るに汝ら、今まで我に付き従い撫育せい忠心の程、思えば海よりも深く山よりも高い。だが今となっては付き添っても詮無きことである。三人共に急ぎ禄を求め、どこぞの主にでも仕えよ」と述べた。

そして、名残も今は是までと、家に伝わる懐刀と名筆の八代集を今泉に与え、また少弐の文書と錦の旗一流・太刀一振とを窪と平原に下賜した。三人とも言葉もなく、むせび泣きながら退出した。

隔して今泉朝覚は天正八年正月二十日、齢八十にして大往生を遂げ、元盛法印は同十四年四月二十四日、齢五十二にて福満寺にて遷化した。



北肥戦誌原文の順番としては1561年(永禄4)の於安が嫁いだウンヌンの後に記述が続いてます^^;
ちょっと(?)前後しますが、少弐関連ということで、強引に間に挟めるより、単独でアップしました。
現段階でリサーチは1559年1月までなので、それ以降の内容に関する質問は今は未だ御勘弁下さい。


ん~~~考察っすか?
というか、記事に呟かないと脳内整理出来ないドンくさいシオなんで、まったりやらせて下さい^^

個人的には、少弐冬尚自害~今山合戦あたりで、龍造寺は戦国大名として「質的変化(かなり劇的)」が起きてると考えてます。
これまで敵方だったものが、あらかた整理され滅ぼしたり配下にと淘汰されるから。
「敵方」の定義も、初期は東肥前国人だったのが、有馬関連が一気に増えます。

この成長・拡張スピードの猛速さも龍造寺と織田家は似てます。
そして次世代継承前に、失速したのも・・・

信長死後の織田家臣団で豊臣秀吉と柴田勝家が混ざったような立ち位置にいるのが、我が殿・鍋島直茂になります 川* ̄д ̄*川ポッ 
決定的な違いは、龍造寺は仇敵として因縁のある家同士が直接雇用されてる事です^^;

織田さんとこは世帯が大きいからネー(*´・д・)(・д・`*)ネー
甲斐国出身の失業者は、徳川カンパニーが引き受けてくれたでしょ~
保証問題とかが「織田家⇒旧織田家臣」から責任の所在が離れてるのよネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

殿(鍋島直茂)の気苦労は、普通の人なら過労死・労災認定のレベル・・・il||li _| ̄|○ il||l
龍造寺が内包する矛盾は「少弐冬尚自害~今山合戦」の頃がキーになるんで、


つまり、これからの年代をリサーチしてからでないと、「まだ、よく判んない~~」なのです^^;
あと11年分ですな・・・( ゚Д゚)y─┛~~精進すべし

【コメ11000&11111HIT御礼】(* ̄ヽ ̄)ナゲキッスヽ(* ̄・ ̄)ノ^☆チュッ♪

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めでたく11000とゾロ目HITしました~
これも偏に皆様のお蔭です(* ̄ヽ ̄)ナゲキッスヽ(* ̄・ ̄)ノ^☆チュッ♪

11000HITは政宗さま

ブログ「日本の武将」
http://blogs.yahoo.co.jp/rowmoment_boy/32379749.html?vitality

11111HITは清水しゅーまい様

ブログ「時々史記 酒記 にゃんこの記“幸あれ…!!”清水しゅーまい」
http://blogs.yahoo.co.jp/stakamatsus

御二方、ゲットおめでとうございます^-^
http://img5.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/cb/40/tokino_siori/folder/360567/img_360567_3214393_11?1377004107

前回HITは5月、その前までは月1で1000HITという超ハイペースだったんですが、
やはり事故後は体調が思わしくなく、3ケ月くらい間が空きました。

てか今までが異常な速さ  il||li _| ̄|○ il||l
今後も無理ないように体調と相談しながら、楽しくブログライフを続けたいと思います。

素人のマイナー歴史考察オタ記事を、温かく見守り応援して下さるファン様には心から御礼申し上げます。
まだまだ未熟者ですが、コツコツと精進してまいりますので、今後とも宜しくお願い致します^-^

和艶ようこそフラッシュは南洲様提供でお送りしました(*´pq`)
http://blogs.yahoo.co.jp/yuewannwann

◎『神崎櫛田宮の由来(附)執行本告の事』

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北肥戦誌には、ときおり各家の由来が出てきます。

記述の順番としては、いろいろ前後しちゃうんですが、話の流れとは別の閑話休題的なものなので、由来は由来で別にUPします。

まぁ北肥戦誌外伝?的な?,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

http://img5.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/cb/40/tokino_siori/folder/360567/img_360567_3214393_1?1377004107

《執行越前守伴朝臣種兼》の先祖は元来、下関の神崎櫛田宮の執行職である。

この櫛田というのは、忝くも聖王の勅願に異国の賊船退散のため、往古から三社の大明神を肥前国神崎郡に崇め奉る社で、所謂、櫛田・白角折・高志社とこれらは稲田姫を祀るところの九州最大の大社である。

その神領は、北は山内・藤原を限り、南は海際崎村まで、東は米田原、西は尾崎村まで分量数千町、これを名付けて神崎の御庄という。

年中の神事は。古は13度であったが、中頃になると鎮西は大いに乱れ、山賊・海賊が満ち満ちて、祭礼の勅使が下向することが叶い難かった。これにより略され年中3度とした。

さて今の執行種兼の先祖は、天忍日命の苗裔である伴國道12世の孫・伴兼資と号し、人皇84代順徳院の治世である健暦年中に当社の執行別当職に補せられ初めて下向し、健暦3年12月19日の午の刻、修造上棟のときにこの職を勤める。その子息・伴太郎兼篤朝臣は変わらず父の職を受けて、肥前に在国し当社の司職であった。

人皇90代後宇多院の治世である弘安の頃には、蒙古の数千艘が筑前国博多へ襲来し天下の騒ぎとなったため、公家・武家の執政により櫛田から東田手村に蒙古御祈祷所として七堂伽藍を建立した。また、東妙寺南西大寺の唯圓上人を以てこの寺に居住してより、東妙寺を櫛田宮の修理別当と定められる。

その後、東山殿義政将軍の康正3年7月29日の修造上棟のとき、《本告資景》を以て宮柱とした。

この御社、その後は公家・武家の崇敬も失われて神領も減少し、3度の神事すら絶えていった。

隔して、近代の執行は江上に招かれ竹原に在城し、本告は牟田に居城を取り構えた。

そして、今の越前守の祖父・兼貞のとき初めて苗字を称し執行と号す。

その子が執行直明、その子が越前守である。

(元々は元亀3年、執行が活躍し筑紫貞治が実は綾部の本城にいたとの記述の後に続いてました)

◎『後藤家由来の事』

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北肥戦誌より抜粋

史料整理の為、しばらくディープな記事が続きます^^;
コメント欄は開けてますが、無理しないでね~
シオも未だ脳に浸透してません~~てかっ ,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

http://img5.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/cb/40/tokino_siori/folder/360567/img_360567_3214393_0?1377004107

後藤というのは元祖は如何なる者かと尋ね聞くに、大織冠の末裔・左近将監、兼武蔵守藤原利仁将軍の子孫である。

利仁6代の孫を後藤内則経という。

源頼信に仕えて、或る時は越前の盗賊を征伐し、或る時は市原野の猿童を誅す。

その子を後藤内章明と号す。北面にあって昇殿を免じられた故に雲上後藤内と称し、また河内国坂戸を知行したことにより坂戸判官ともいう。

これも源頼義朝臣に仕えて八幡殿の乳母子となる。

義家一年のとき、奥州の安部貞任を攻め、七箇年の在陣で大功を立て、義家朝臣が僅か七騎になったときも格別の軍労があった。それを七騎武者と称す。

その七騎とは、鎌倉権五郎景政・三浦平太郎為次・忍三郎季茂・加藤加賀介景通・首藤権守助通・後藤内章明に大将の義家を加えた七人である。

この章明の子である後藤太資茂も相次いで義家朝臣に仕えて、清原武衡追討のとき出羽国に於いて軍功があった。

その後、義家の子息・六条判官為義の天仁2年に伯父・義綱を江州甲賀に討ったときも相従った。

隔して、この資茂のとき初めて肥前国杵島郡塚崎庄の領地へ下向した。

それ以来、その子・後藤資明が塚崎の城に居住して、人皇76代近衛院のとき仁平年中に、八郎為朝が鎮西在国の中、黒髪山の大蛇を射たとき、専らその評定の人数であった。

この資明26代の孫を《後藤純明》と号した。

この純明には男子がなく、《大村純前》の次男・又八郎純を養い一人娘に娶せて、中頃は後藤左衛門尉と号し、後には伯耆守と改めた。今の貴明がこれである。

初めての室は早世したため、それ以後は伊佐早の伊福氏の女を迎えた。

この貴明、武勇あくまで優れ、近年は後藤領の他に他郡を多く切り取り、門前に馬を繋ぐ血判の侍は既に400余人という。

(原文では、天正3年の龍造寺家・後藤家和睦の「天正11年8月2日に卒去している。」の記述の後に続いてました)

◎『黒木河崎星野由来(附)侍宵侍従の事』

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筑後国人で同族三氏の由来です^^/
シオが筑後で一番好きなのが星野氏^^b

黒木氏の城を天正年間に攻撃して落とすのが、道雪と紹運の筑前最強コンビです(^ -)---☆Wink

http://img5.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/cb/40/tokino_siori/folder/360567/img_360567_3214393_9?1377004107

筑後国の住人である黒木・河崎・星野というのは元来一姓で、世に稀な調姓である。

その由緒を尋ね聞くに、中頃、上妻郡河崎の庄は黒木山の城に、蔵人源助善という者があった。
その先祖は薩摩の根占に住んでいたため”根占の蔵人”ともいった。
歌読みであり笛の上手でもあった。

この蔵人、頃は人皇80代は高倉院の時代、嘉応年中に大番勤めのため上洛して内裏に仕えた。

そんなある日、管弦の遊座が催される際に俄かに笛の役が欠けたのであるが、そのときに徳大寺左大臣実定卿がこの助善の笛の器量を予てより聞き知っていて、そのように奏聞があったときに、ならば助善を殿上へ召すべしと勅定があって縁に参じて笛を吹くと、堂上の笛の音よりもなお澄みやかにその調べをたたえて御遊びは無事に終わった。

主上は甚だ感じ入って、助善に調子の「調」の字を姓に下賜し、更に従五位下に補任して蔵人大夫調助善と名乗らせた。
蔵人のときの面目である。

この蔵人が在京の間は徳大寺殿から懇意にされ、雨の夜・宵(雪か?)の朝・月花の遊宴にも常に昵近された。

或る深夜のこと、徳大寺殿が助善を伴い、知り合いの女の元へ立ち入ろうとした際、女は待ちわびて
”待つ宵に 更け行く鐘の こえ聞けば あかぬ別れの 鳥はものかは”
と詠み、稀に逢う夜の恨み言も尽きなくて、その朝に実定が帰る際、あまりに別れが惜しまれて、助善を女の元へ返して尽きない名残を託したのであるが、助善は女に向かい一首の歌を詠んだ。

”物かはと 君がいいけむ 鳥の音の 今朝しも如何に 恋しかるらん”
これより助善は異名を”物かはの蔵人”と称され、女は”待宵の侍従”といわれた。

この女、元は阿波局という高倉院の官女であった。
あるとき、悩みがあるときに歌を詠んで叡慮(天皇の御心)に叶い、供御を上ってその侍従とされた。
父は八幡の別当法印武内光晴、母は健春門院の小大進である。

隔して蔵人、大番を勤め終えて帰国する際に、徳大寺殿がこの年月のことを思い、この待宵の侍従を蔵人へ下された。

蔵人は身に余る面目と、この女を伴い帰国した


しかし、黒木山にいた本妻がこれを聞き付け大いに腹を立て、

(# ゚Д゚)・;'.「その京上め、何故にここに来るのか。片時も此処に置くなどできない」

と、下人共と語らい城の麓の大河を境として、これを入れないように防がせる。

しかし蔵人大夫はこれを打ち破って待宵と共に本城へ入った。
本妻は息巻いたが聞き入れられず、境の黒木川の深淵に身を投げて死んだ。
その骸の寄った所にこれを埋め祠を立てた。これを今の世まで築地御前という。

侍従はすぐさま懐妊し、程無く男子を生んだが、これは実定卿の子であるため「定」の字を実名に用いて《黒木四郎調定善》と号した。
この子孫は代々、黒木山猫尾城に居住した。

その後、侍従はまた男子を産んだ。
この蔵人の子の子孫は星野・河崎と号し、星野は生葉郡星野妙見城に代々居住し、河崎は上妻郡川崎伊駒野の城に居住した。

しかし、彼の築地御前が侍従腹の子孫に怨を遺して根をなす

これによって、黒木の子孫からその霊魂を祀るようになった。
その祭りには年に一度、彼の女の忌日に身を投げた淵に”粋(すい)”という器に化粧の道具を入れて水上より流すのであるが、その場所へ至ると忽ち沈んで見えなくなるという。黒木の子孫は今は築河にある。

また、待宵侍従が下向した際、所願あって高野山に一寺を建立し”講坊”と号した。これは調姓の菩提所である。

別説として、蔵人助善は元来高倉院北面の侍であり、六位を歴任した歌人で、異名として蔵人という(或は助能)。
この蔵人の子孫が今に徳大寺に仕えて苗字を”物加波(ものかは)”と号した。

黒木河内に於いて古人が語るには、黒木・河崎・星野の三人は腹違いで、黒木は待宵腹の高倉院の子で総領を継ぎ、後は本妻の子だという。

また、黒木の家は27代で、蔵人助善から兵庫助実久に至り、天正の末に大友家のために衰亡したという。
待宵侍従は後に帰京したのであるが、墓は八幡にある。

(元々の記述は、天正7年の龍造寺家が河崎鎮堯を攻めた後、黒木実久らが8月に人質を出した後に続いてました)

別説では黒木氏は御落胤~( ゚д゚)ンマッ!!

◎『渋江家由来の事』

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う~ん、このあたりになると全く判らんちん~,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

東肥前は少弐が絡む事もあって、猛勉強したんですが、
その反面?反動?というか、西肥前は未知との遭遇~~~じぇじぇじぇ!(゚ロ゚屮)屮
それで、新章に入る前の史料整理に時間かかってました^^;

もっとも取り急ぎアップしてるだけで、個々の史料精査は手つかずという恐ろしさ (((((( ;゚Д゚)))))ガクガクブルブル

この渋江由来の事は、元々北肥戦誌1563年に挿入されていたのを、抜粋したものです。
http://blogs.yahoo.co.jp/tokino_siori/5275131.html

直接、龍造寺に絡まない部分が記述されてる上に時系列にヽ(。_゜)ノ へっ?な部分があり、
関連性がサパーリ判らんちん~,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

1563年の北肥戦誌では、大友宗麟がボロクソに言われてるんで、興味ある方はURLどぞ~後半部分です

http://img5.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/cb/40/tokino_siori/folder/360567/img_360567_3214393_9?1337252024

この盬見城主渋江氏の祖先は何かと尋ねるに、人王31代敏達天皇の5代の孫・井手左大臣橘諸兄公の末葉である。

この諸兄、才知の誉れ世に高く、聖武天皇の頃には、既に政道の補佐をしていた。

その孫子・従四位下兵部大輔島田丸は尚も朝廷に仕えていた。

しかし神護慶雲の頃、春日の社を常陸国鹿島より今の三笠山に移らせたとき、島田丸は匠工の奉行を勤めたのであるが、内匠頭何某が99の人形を作り匠道の秘密を以て加持していた。

この人形に忽ち火が燃え移り風が舞って童の形に変化したのを、ある時は水底に入れ、ある時は山上に倒れて神力を発揮し、召しつかわれている間、思いの外に大功をなし早速に成就するに至った。

隔して御社造営が成就したあと、この人形を川中に全て捨てた のであるが、変わらず動き続け、人馬6頭を侵して甚だ世の禍となった。

今の河童とはこれである


このことを聞き及んだ称徳天皇は、そのときの奉行である島田丸に急ぎこの禍を鎮めるよう詔を下した。

島田丸がその勅命を奉じ、その赴きを川中水辺に説いて回れば以後は河童の禍はなくなった。

これよりこの河童を兵主部と名付ける。元より兵主部を橘氏の眷属とはいっていった。

島田丸六代の孫・大納言好古のときの天慶4年、朱雀院より征西将軍の勅号を賜り逆臣・藤原純友を討って伊予国を賜ったのであるが、子孫九代の間はこの国に住まわなかった。

その九代の嫡孫を橘次公葉といい、鎌倉頼経将軍の近習となって薩摩守を受領した者である。

この公葉のとき、先祖累代の領地・伊予国宇和郡を禁裏が常陸井関白へ下賜したのであるが、その替地として、公葉へは豊前国副田庄・肥後国久米郷・大隅国種子島・肥前国長島庄が与えられ、嘉禎3年はじめて伊予から肥前へ入り、長島庄に移って盬見山に城郭を構えて居住した。

公葉には6代の孫・橘薩摩弥次郎公継、その子・公経、同じく弥五郎以下、建武・暦応の合戦で将軍方に属して勲功を重ねて恩賞に預かった。

今の豊後守公師は公葉から16代の後胤である。

『渋江家三氏、牛島・中村・中橋の事』前篇

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今回は北肥戦誌からの抜粋ではなく、渋江を調べている内に芋づる式に出てきたデータです^^
脳内整理のためと備忘録?忘備録?どっちが正解なんだ~!!!(# ゚Д゚)・;'.
・・・コホン、とにかく記録として残すために記事にします^^




さて前回の橘姓渋江氏には三氏の分家がありました。
要するに島津みたいに4兄弟だったわけです^^b
長男・渋江総領家
次男・牛島家
三男・中村家
四男・中橋家
ちなみに渋江家の諱に共通する字は「公」です^-^
渋江家では、勅使を迎える為の行事を嫡男のみに伝え、それをもって総領家の特権事項としたそうです。

ちなみのちなみに、牛島姓の由来は「橘姓渋江氏分家・牛島氏」からだと言われています^-^
全国だと自信ないけど、少なくとも肥前、肥後、筑後在住・牛島さんの御先祖は、橘姓渋江氏分家・牛島氏がルーツなのネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

細かくは調べてないんですが(知識不足で挫折)渋江氏と次男家・牛島氏は「骨肉の争い」があったとか。
色々揉めてる内に衰微するのは良くあるパターン。
没落した渋江氏の一部は、龍造寺剛忠(家兼)を頼って佐嘉郡与賀郷に亡命してました。

戦国最終的に渋江氏は独立した勢力として残れなかったんですが、
後藤家と縁戚関係だった事と後藤家の勢力拡大で渋江家が衰退した事などから、分家である牛島氏と中村氏が後藤家臣として吸収されたんです。

肥前で著名な後藤と言えば「武雄後藤」で、後の龍造寺四家「武雄龍造寺(鍋島)家」ですがな~

龍造寺隆信の三男・家信が武雄後藤へ養子として入りました。
その息子・後藤で龍造寺で鍋島の茂綱が、シオブロ書庫「江上・八院合戦」で登場し、鍋島軍第二陣大将(=^・ω・^=)v ブイ

【公方栗毛】江上表・八院合戦編5
http://blogs.yahoo.co.jp/tokino_siori/5534368.html?type=folderlist
【リアルも】立花VS鍋島【応援】~江上・八院合戦編10
http://blogs.yahoo.co.jp/tokino_siori/5761351.html
この戦いで活躍した「柳川七騎」メンバーの中に、茂綱家臣として牛島監物の名が上がってます^-^
が、こちらの牛嶋さんは、橘姓牛島氏とは別系統のようですヽ(。_゜)ノ アララ~

末っ子分家・中橋氏の記録はシオレベルでは辿れませんでした(_´Д`)アイーン

問題は|三男分家・中村氏|_ ̄)じぃー
この中村家・・・・どうも乱を呼びたがる家らしく、主家で宗家である渋江氏を凌ぐ勢力を保持してました。

中村の起こした波乱とは、巡り廻って「肥前の歴史」そのものに関わるほどの騒動だったのだが、それは・またの話 by^-^sio


一話だと超長文になりそうなんで、そうそうに前後編で手を打ちました,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

『渋江家三氏、牛島・中村・中橋の事』中篇

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基礎データ

長男・渋江総領家
次男・牛島家
三男・中村家
四男・中橋家

本姓:橘氏、諱の通字:公
渋江氏本貫地、武雄市橘町大字永島、本城:潮見城、関連神社:潮見神社(武雄市橘町大字永島)




総領家渋江氏と次男家牛島氏が争っている間に、シッカリ者の三男家中村氏が勢力拡大。
やがて中村氏は、今を時めく小城郡・肥前千葉氏7代目当主・千葉胤鎮に仕えました。

年代でいうと1400年代で、どっぷり室町期( ̄ω ̄A;アセアセ
ちなみに地元の総領家の頭越しに、守護大名とか有力家に仕える事は無問題。
室町期~戦国期にかけての主君と家臣は、江戸期の家臣と違って「被官(ひかん)」として仕えてました。
被官は家臣のような縛りがないため、地元主君の他に幕府の御家人等になるのも自由だったんです。
(そもそも実力がある国人領主でないと、どこかと両属する事自体無理ですけどね^^)

で、ここからが謎の人事なんですが、他家からの新参者でありながら中村氏は千葉家老に抜擢されたんです

それが橘姓渋江系中村氏の最盛期当主・中村胤信で、元の諱は公廉

肥前千葉氏はカテゴリ作って連載してたんですが、渋江氏を調べる前だったので、中村胤信の事は完全に盲点でした il||li _| ̄|○ il||l

http://blog-imgs-49.fc2.com/s/i/o/siori20120901/blog_import_5042c7aeeae86.jpeg 肥前千葉家紋ロゴ

譜代家臣ゴボウ抜き人事に、チラリンと腐女子的発想が脳裏を過ぎったけど即没。
千葉胤鎮は千葉氏最盛期を築いた当主。断じて暗君ではありません。
そもそも衆道的情実人事なら、任命の時点で譜代家臣が黙ってないはずです。

どうも肥前千葉氏(7代目胤鎮に限らず)にとって、渋江系中村氏の存在が(胤信=元廉に限らず)何らかの利用価値があったようです。
勝手に推測するなら、肥前千葉氏は藤津の方へ勢力を伸ばそうとしてました(結局、統治にまでは至らず)
その関連で、中村氏の情報やコネクションが便利だったのかな~~~と。
それだけにしては、かなりの依怙贔屓なのネー(*´・д・)(・д・`*)ネー てことで謎は謎です。

で、新参ながら重用されてた中村胤信(公廉)が、大内に内通し千葉胤鎮をo( ̄Д ̄θ★ケリッ!追い出した!

時の大内当主は、大内持世

大内の後ろ盾で中村胤信(公廉)は、7代目胤鎮の弟・胤紹を肥前千葉氏当主に据えます

少弐と大内の争いの中で、家督に介入され千葉氏自体の不幸(嫡男なしで当主死亡)が重なり、衰退していく肥前千葉氏。

最初に介入したのは大内氏で、その発端を作ったのが渋江系中村氏なんです


西国のドン・大内氏の力で、室町幕府が家督簒奪者であるはずの胤紹当主の正統性を認めました。
そのため肥前千葉家は、兄・胤鎮系と弟・胤紹系の二つの嫡流が出来ちゃった ガビ━━━(゚ロ゚;)━━ン!!

http://blog-imgs-49.fc2.com/s/i/o/siori20120901/blog_import_5042c9aeb5c01.jpeg

7代目胤鎮に幸いしたのは、嘉吉の乱(1441年)で時の将軍・義教と大内持世が死んだ事です。
千葉胤鎮は、新参者・中村胤信に猛反発した千葉氏譜代衆を集め、リベンジに成功し胤紹と嫡男と中村は討たれました。
(室町幕府が認めた胤紹は正式に8代目としてカウントされてます)

胤鎮の死後、9代目元胤の代で、謀反者・中村胤信(公廉)の息子が再び家宰(家老)として復活してます。
その間、僅か10数年しか経過してないので、肥前千葉氏と中村氏の間に、何かしらの利害関係があったんじゃないでしょうか。

さんざん記事にしたんで詳細省いて、肥前千葉が西と東に別れた時。
元々大内に内通した黒歴史がある中村氏は、大内の後ろ盾がある東千葉に仕えました。
西と東、両千葉氏の争いの中で、一時は渋江家を凌いでいた中村家も衰微したようです。

没落してた渋江氏も一時は本貫地を取り戻したのですが、やっぱり衰退。
前回記事にしたように、中村氏は武雄龍造寺(鍋島)に仕えます。所領は当時家中で最大だったとか。
それが災いしたのか、江戸期に入って中村氏は、主家である武雄龍造寺からの独立を目論み失敗。
一族離散という羽目になり武家としては残らなかったそうです。

さて、渋江一族のなかで現在、もっとも知名度があるのは次男家牛島氏なのだが、それは・またの話 by^-^sio

『渋江家三氏、牛島・中村・中橋の事』後篇

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一話というと前後編になり、前後編というと前中後編と、予告より必ず伸びるのがシオ記事です(爆

基礎データ

長男・渋江総領家
次男・牛島家
三男・中村家
四男・中橋家

本姓:橘氏、諱の通字:公
渋江氏本貫地、武雄市橘町大字永島、本城:潮見城、関連神社:潮見神社(武雄市橘町大字永島)




さて、基礎データの渋江一族のなか、現代において圧倒的に知名度ありが「牛島さんだ~」
と書いたけど、素人が個々に系譜を辿れるわけでもない。

正確な表現だと、単純に「牛島姓」が著名だということです。
牛島姓にはルーツが幾つかあるらしいのですが、北肥戦誌などに登場する殆どが橘姓渋江氏系です。

佐賀市にある牛嶋神社は、渋江系牛島氏とは無関係で、こちらは平姓牛島氏。
が、平姓牛島氏の詳細は不明です。
肥前各地に散らばった牛島さん全てのルーツは判りませんが、武家としてより違う方向で成功したために「牛島氏」の知名度があるんです。

牛島さんの中には財を成した方がいたらしく、佐賀市歴史民俗館で公開されている屋敷には「旧牛島家」があります。
有名なのは屋敷ではなく、こっち⇒⇒それは久光製薬の前身である「田代売薬」と関わりがあります。

北海道在住のシオは全く知らなかった^^;
北海道で「薬売りの行商」というと圧倒的に富山なんでもので( ̄ω ̄A;アセアセ

佐賀県鳥栖市にあった田代宿は製薬・売薬行商の宿場として大変栄えたそうです。
で、牛島家の関わりは~というと製薬の方。

薬種として黒子丸・竜虎円・送上引下げ・妙振出・人参香・下虫丸・感応丸を提供^^
何が、どう効くかサッパリ判らん^^;
下虫丸あたりは、まんま虫下しっぽいな・・・・・|壁|_ ̄)じぃー


鳥栖市には中冨記念くすり博物館(鳥栖市神辺町288-1)があります。
http://www.hisamitsu.co.jp/syakai/kusuri/index.htm
こちらには田代売薬の歴史だけでなく、当時の薬に関する道具類の展示などありシオ的にはツボ^^
御近所なら行きたかった~~~機会がありましたら是非どうぞ(^ -)---☆Wink





なんだか前中後編の記事構成のバランスが悪くすいません^^;
三男家・中村氏が濃すぎで四男家・中橋氏が薄すぎです,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

お蔭さまで室町中期~戦国初期あたりまで、渋江一族と東肥前の関わりは理解できました。
西肥前がミステリーゾーンなのは変わってないし、寧ろここから先が肝心&必要な件・・・ il||li _| ̄|○ il||l

まぁ何時もの通り北肥戦誌を元に___φ(.. ) メモメモと地道にリサーチします^-^
本編・新章再開まで、もう少しお時間下さい。宜しくお願い致しますm(__)m

◎『有馬家由来の事』

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念の為・・・・「沖田畷の戦い」で龍造寺隆信が討ち取られたのは、

島津と有馬の「連合軍」です(`・ω・´)キリッ


有馬さん・・・・・実は、けっこう、かなり、好キィ━━━━ヽ(´ω` *)ノ━━━━ッ★

の割に、ちゃんと調べた事が無くて興味のある部分だけしか知らなかったりです。
肥前~~~東の横綱が龍造寺なら、西の横綱は有馬氏。

さて、北肥戦誌に記されてた由来はコチラ^^/




肥前国高来島志自岐原(今の原城)城主・《有馬越前入道随意斎仙岩》というのは、大織冠鎌足公の苗裔・伊予権守純友の嫡流で、有馬肥前守貴純は孫子・左衛門尉尚鑑の子である。

童名は軍童丸、中頃修理大夫に任じ、公方義晴公の諱を賜り清純と号し、その後また義の一字を賜って越前守義貞と改めた。

この仙岩、当時その威、強勢の大将であり、先帝後奈良院のとき天文13年11月に京都へ吹挙し、勅使・日野中納言晴光卿を自らは領地に居ながらに申下し、自領の濱の松丘祇園社へ出迎えて宣命を拝し奉り修理大夫に任じられ、すぐさま勅使晴光卿を岩崎へ迎え請け、種々の饗応で持て成し、数えきれないほどの様々の引き出物を献じた。

昔のことは判らないが、近代に於いて田舎の武士が官途を得るときに、領地に居ながら勅使を申下し宣命を受けるなど稀代の珍事である。

この仙岩の曩祖・伊予権守藤原純友のことを伝え聞くに、昔、天慶の初めに武蔵権守平将門と心を合わせ世の乱れたとき、両人約したのは、此度、天下を奪い取って、将門は王孫であるから帝王となるべし。

純友は大織冠の末裔であるから関白になるべしと談じ、将門は関東に在って自らを平親王と称し、東百官と名付けて勝手に官職を立てて百官を召し使った。

そして下総国猿島郡石井郷に於いて旗を揚げ、純友は任国予州に下って共に逆意を企て天下を暗闇になさんとする。

しかし、将門は俵藤太秀郷のために承平2年2月13日に関東に於いて梟首され、純友は六孫王源経基・大納言好古・民部少輔藤原伊伝・大蔵朝臣春実・越智朝臣好方以下に攻められ、天慶4年5月3日に誅伐される。

然るに純友の子・遠江守直澄が予州より没落し、その子孫が肥前国高来島に漂着して、永く有馬に居住した。

斯かる朝敵の末裔であるから終に上洛なりがたく、年久しく辺境の奴子となり果てていたところに、いつしか有馬浦を知行してその在名を称して威を振るい、近年は高来・彼杵・杵島・藤津の四箇郡のうちを押領し、高来の原・日江・藤津の松丘・鷲巣これらの諸城を堅固に持ち、安富・安徳・島原・多比良・千々岩・神代・志自岐、そのほか多久・松浦・平井・馬渡・伊福・西郷・永田・宇礼志野・白石・上瀧原以下の城持ち共を属下にし、既に兵馬二万余騎の大名となった。

また往古・将門・純友と父子の契約をなして平氏を援けたゆえ、中頃の有馬家は平姓であった。
今の仙岩入道は純友28代の孫という。

(元々は、永禄6年、龍造寺勢が横武鎮貞の城の抑えにと馬場鑑周と横岳頼続を置いたとの記述の後から、渋江家由来の次に続いてました)

【二つの犬塚・筑後編】

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史料整理してると、アチコチ気になる武家が出てしまい、それらを調べてて本編再開が遅れてます。

あ、でも全く別方向に走ってる訳でなく、後々に龍造寺と絡む関連性がある武家ですけどね^^

で、渋江さんの次は犬塚くんにハマってました,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

あまり興味を持つ方がいないと思うのですが、他県人には非常に判りづらい犬塚氏。

というのも、犬塚氏には筑後と肥前の2家があるからです


系図が2パターン(筑後バージョンと肥前バージョン)あるのですが、時系列からみて二つは同族・別系統のようです。

サイト武家家伝の系図を見比べてたら、デジャヴュな諱ばっかでクラクラした,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

同族~~というのは筑後・肥前・・・どっちの犬塚氏も、筑後最大の国人・蒲池氏の庶流だからです


で、北九州で筑後と肥前とくれば、必ず絡むのが少弐。
少弐配下だった犬塚氏は、少弐の栄枯盛衰に巻き込まれていきます。

http://img5.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/cb/40/tokino_siori/folder/360567/img_360567_4549205_6?1346077595 少弐家紋ロゴ

で、今回は犬塚氏・筑後バージョン~

そもそも蒲池氏の庶流である犬塚氏は、蒲池氏と同じく筑後の国人でした。

それがグダグダになってくるのは、目立たない九州探題・渋川氏が筑後へ勢力を伸ばした事から始まってます。
で、筑後・犬塚城の築城主は犬塚氏・・・ではなくて、渋川教直が築城したと言われています。

つまり筑後犬塚に棲んでた犬塚氏は本貫地に、城を建てられてしまった事になるわけです ガチョ━━━(゚ロ゚;)━━ン!!


それだけでも居心地がイマイチな所に、最盛期が短い渋川氏は未だ元気溌剌だった頃の少弐にo( ̄Д ̄θ★ケリッ!
豊後・大友も少弐とタッグを組んで渋川をo( ̄Д ̄θ★ケリッ!
地味九州探題・渋川さんは衰退~・゜・(PД`q。)・゜・タスケテ~と西国のドン・大内を頼る事になる。

肥前バージョンの犬塚氏が筑後から肥前神埼へと移住したのが、明応年間。
明らかに「渋川VS少弐+大友」のグダグダに巻き込まれたが故の移転でしょう。

犬塚城主だった渋川政実が死んだ為、筑後犬塚城(福岡県久留米市三潴町玉満字原巳)は空城。

そこで時の大友当主・大友政親は犬塚城を筑後一五城の旗頭といわれた蒲池繁久に預けた

蒲池繁久は弟の刑部大輔家久を城番とした


これは蒲池氏が下蒲池と上蒲池に別れる前の話でして。
蒲池繁久というのは、筑後に亡命した龍造寺を援けた蒲池宗雪の祖父の、そのまた祖父にあたる人。

犬塚城に入った蒲池家久は、大友から偏諱を受けて諱を繁貞と改め、姓も「犬塚」を称しました

これは筑後バージョン・犬塚氏です


肥前に移住した元々の犬塚も、筑後犬塚城に入った犬塚繁貞も、元を質せば、どちらも蒲池一族。
系図が筑後バージョンと肥前バージョンがあるために、判りづらいんです^^;

筑後・犬塚繁貞は後に出家し大薮村に円照寺を開基したそうです。
で、犬塚城ですが、少弐が滅亡したために筑後・犬塚氏(犬塚繁貞の子供?)は肥前へと移住し、犬塚城は廃城になったとか。

年代だと1567年だと伝えられてますが、少弐冬尚の自害は1559年。
なので、冬尚自害後におけるアンチ龍造寺派の抵抗が終息した頃に移住した・・・らしい^^;

筑後犬塚氏の消息がハッキリしてないのですが、肥前神埼に移住するにあたっては、同族で元祖・肥前犬塚氏を頼ったんじゃないでしょうか。

ふぁ~眠くなってきた・・・
筑後バージョンの脳内整理が終わったところで、肥前~それは・またの話 by^-^sio

【犬塚ふぁいぶ!~二つの犬塚・肥前編1】

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肥前の犬塚ふぁいぶ・・・(._+ )☆\(-.-メ)息子が5人!!
東犬塚)崎村城主、長男・家直⇒鑑直⇒鎮直⇒家広(以下略
三男・家種~長男を補佐^-^

西犬塚)蒲田江城主、次男・家重⇒元重⇒尚重⇒信尚(以下略

直鳥)直鳥城主、四男・家久⇒家清⇒尚家⇒鎮尚(以下略

東古賀館主、五男・家喜⇒(以下略
名前に犬とあると里見八犬士的妄想したくなるが、筑後にある某ワンコ伝説と犬塚家は無関係です。
ザッと系図見ると、基本としての通字は「家」みたいですね。

肥前犬塚家は筑後バージョンで説明したように、元々は筑後の国人・蒲池氏の庶流です。
ちなみに蒲池氏は「藤原北家宇都宮氏流」
三瀦郡犬塚に棲んでいた事から犬塚姓を称しました。

年代不明ながら犬塚氏は本貫地を離れ、肥前佐嘉郡川副に移住し、明応年間に同じく肥前神埼郡に移住した。
個人的な推測では「渋川VS少弐+大友」の争いに巻き込まれ、本貫地がカオスになった為の移転と思われます。
神埼に移転したのは、犬塚氏が少弐配下だったからだと思います。

で、犬塚家には5人の男子があり、そのうちの三人が城持ち主で、それぞれ東犬塚・西犬塚・直鳥犬塚・・合わせて「三犬塚氏」と呼ばれていました。
総領家は当然、嫡男系統である東犬塚です(=^・ω・^=)v ブイ

永禄3年(1560)北肥戦誌より抜粋

犬塚尚重が隆信により、領地・蒲田江から追われる


自分が犬塚氏を調べなきゃ~~と感じたのは、北肥戦誌にある簡素な一文が原因です。
前後がサッパリワカラン・・・というより「隆信が追い出した」に違和感があったんです。

というのも実は犬塚氏では、東(総領家)と西(次男家)で骨肉の争いが起きてました。
おそらく総領家の座を巡る争いだと思います。
その頃、既に少弐氏は滅び犬塚一族は龍造寺配下となってました。

つまり龍造寺隆信は犬塚氏の争いを治める立場にあったわけです。
北肥戦誌の一文だけだと、龍造寺隆信が悪巧みしたみたいだ,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

てことでジックリ行きましょ~~~ゎーィ♪ヽ(*´∀`)ノ

【両属の矛盾・・・二つの犬塚・肥前編2】

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犬塚氏5兄弟の基礎データ(名前の前に★マークがある人物は養子です)
(東犬塚)
崎村城主、長男・家直⇒★鑑直⇒鎮直⇒家広(以下略
三男・家種~長男を補佐^-^
(西犬塚)
蒲田江城主、次男・家重⇒元重⇒尚重⇒信尚(以下略
(直鳥)
直鳥城主、四男・家久⇒家清⇒尚家⇒鎮尚(以下略
【小松城主、家清の子で尚家弟・鎮家】

東古賀館主、五男・家喜⇒(以下略




前回、総領の座を巡る争い・・と書きましたが、あくまでも自分の推測でして、あからさまに家督ウンヌンで揉めた訳ではありません。

ただ総領家・東犬塚と次男家・西犬塚は、一族の外交方針で決定的な対立をしました。
で、根底に|総領の座|_ ̄)じぃ。。。って気持ちがあった?かも?と思ったんです。
というのも総領家では男子に恵まれず養子で繋いでたからです。

それが東犬塚で★マークついてる鑑直。
どこから迎えた養子かは調べきれませんでしたが、以後は養子の血統が東犬塚を継承します。

泰平の世ならともかく、戦国期に総領家当主が養子・・・
っていうのは、出番がなかった次男にとってモヤモヤの元です( ̄ω ̄A;アセアセ

養子の立場を補完するために東犬塚家では、大友家の偏諱を受けたのでしょう。
これは東犬塚家だけでなく、犬塚一族全体が大友配下となった事を意味します。

http://blog-imgs-49.fc2.com/s/i/o/siori20120901/blog_import_5042c81e7a834.jpeg 大友家紋ロゴ

もちろん少弐配下であるのは継続中~
国人にとって、より大きな勢力の後ろ盾を得る事は生き残る為に必須。
何回も言うように、主君二股は道義的には無問題(主君の方でモヤモヤするかもは別の話)

ちなみに肥前国人にとって「(少弐)より大きな勢力=大友家」です。
大内チョイスは、基本としてアウトオブ眼中。
一時期、肥前国人の殆どが少弐配下でしたので、少弐の敵である大内に靡くのは寝返りになっちゃいます。

とはいえ、大友の支配を毛嫌いし、中国地方のドンから後ろ盾を欲しがる筑前国人たちとは真逆なのが面白い。
これは文化交流の密度の違いから来るのかな~と感じてます。

神代しかり、犬塚しかり、筑後国人が新天地ヤポー♪ヽ(*´∀`)ノと土着するのが肥前なら、
肥前国人(代表例・龍造寺)がヤバくなったら亡命するのは筑後なんです。
その筑後は鎌倉の頃より大友支配下にあるのだから「寄らば大樹」の樹は大友・・・と言うのが自然の流れ。

肥前国人が筑前へ亡命したり、大内の後ろ盾を得る時・・・
それは大友ブランドが売約済で他に頼る相手がいない時です。
下手うってガチで大友と揉めちゃったり、自立したくて謀反した時などなどですね^^

余談はさておき

犬塚一族で最も知名度があり、キーマンとなるのが犬塚鎮家

犬塚鎮家は直鳥犬塚家・家祖の孫にあたります。
1558年、龍造寺による勢福寺攻めにおいて「北肥戦誌」曰く、
蓮池の小田政光、蒲田(江)・崎村の犬塚鎮家・犬塚左馬大夫も出陣する。
多分、これ北肥戦誌の誤記です。
犬塚鎮家は、この当時は小松城主でして蒲田江に入るのは後年の事です。
1558年だったら西犬塚の蒲田江は元重か尚重の代。
崎村の犬塚左馬大夫も?ダレ?ヽ(。_゜)ノ左馬大輔鎮直の事じゃないでしょうか^^;

少弐配下だった犬塚一族は、龍造寺が台頭するにつれ少弐から龍造寺へとシフトチェンジしました。
自然・時代の流れで少弐が泣いても喚いても、どうにもなりません。
ここで問題になるのは、

犬塚一族が大友配下の状態をキープしたままで、龍造寺配下になった事です

読んで下さる皆様・・・揉める予感がしませんか?それは・またの話 by^-^sio

イメージ 1

ウサ画像は南洲さまから頂きました(二次配布禁止です)

【命運・・・二つの犬塚・肥前編3】

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肥前犬塚氏5兄弟の基礎データ(名前の前に★マークがある人物は養子です)

(東犬塚)
崎村城主、長男・家直⇒★鑑直⇒鎮直⇒家広(←読みは「いえしげ」)(以下略
三男・家種~長男を補佐^-^
(西犬塚)
蒲田江城主、次男・家重⇒元重⇒尚重⇒信尚(以下略
(直鳥)
直鳥城主、四男・家久⇒家清⇒尚家⇒鎮尚(以下略
【小松城主、家清の子で尚家弟・鎮家】

東古賀館主、五男・家喜⇒(以下略




肥前犬塚氏の推移は、キーマンである犬塚鎮家の経歴を辿ると判りやすいです。
個人的に「肥前の出世魚」と呼ばせてもらいます,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

さて「少弐配下にして大友配下」だった犬塚一族は、少弐の衰退・滅亡で「龍造寺配下にして大友配下」になりました

県議員と国会議員、それぞれの後援会入りみたいなもんですな( ゚Д゚)y─┛~~献金の代わりに軍役があるぉ

ただし肥前犬塚一族全てが龍造寺配下になった訳でなく、直鳥犬塚家は大友配下オンリーでした


年代としては、おそらく1559年(筑紫がハチャけた年)の事になると思います。
直鳥家の家清と尚家は大友宗麟の命により筑紫惟門を攻めたのですが、共に戦死してしまいます。
そのため小松城主で尚家の実弟・鎮家が直鳥家の家督を継ぎました。

系図を見ると戦死した尚家には男子がいたのですが、鎮家が継いだところを見るに未だ幼少だったのでしょう。
小松城は・・・もしかしての廃城・・・今となっては位置も定かではありません。

ちなみに直鳥城は佐賀県独特のクリークを利用した城でした。
濠があり小島のようになってて、各曲輪へは小舟で移動してたと思われます^-^

東西犬塚家に決定的な事が起きたのは1569年

大友軍が龍造寺討伐に動いたからです

大友オンリーだった直鳥家と違って、東西犬塚家は「龍造寺配下にして大友配下」でした。
東西犬塚家は龍造寺か大友か・・・という究極の選択を迫られます。



東犬塚は龍造寺を選び、西犬塚は大友を選んだ。
元々が大友派の直鳥・犬塚鎮家は西犬塚を支持。

どちらが勝っても生き残るため・・・という関ヶ原の真田家的選択ではありません。
東西犬塚家はガチで対立。
西犬塚尚重は、東犬塚鎮直を謀殺。西犬塚尚重は自身も返り討ちにあって死亡しました。

西犬塚尚重の長男は龍造寺(実は手を下したのは鍋島直茂)に殺され、次男(実は生母が隆信妹)のみ助命されました。
龍造寺に攻撃された西犬塚の蒲田江城は、この時に一度落城します。
直鳥・犬塚鎮家は筑後に亡命。

ここからが犬塚鎮家の出世魚~~実は彼は物凄い武勇の持ち主でして「有馬との戦いに彼奴の武勇が必要な件」
て、ことで召致され筑後から肥前へ帰還~かつて西犬塚の居城・蒲田江城に入ります。
先陣として活躍した犬塚鎮家は、両弾二島(龍造寺氏配下の武勇優れた4人)の一人に数えられたんです。

その功績により犬塚鎮家には森岳城(後の島原城)が与えられ、蒲田江城は廃城になりました。
現在、蒲田江城本丸跡には鎮西出雲大社が鎮座しています。

一方、崎村城ですが、謀殺された鎮直の跡を息子の家広(いえしげ)が継ぎました。
1572年に龍造寺隆信の命で、三根郡(現みやき町)中津隈城へ引っ越した為に、崎村城も廃城になってます。

江戸期に入って鍋島に仕えた東犬塚さん~今度は小城の方へと移動したんで中津隈城の短い歴史は終わり。
ちなみに中津隈城跡には、中津隈宝満神社の社殿が建ってるんで遺構殆どなし^^;

江上・八院合戦の佐嘉勢第十二陣に犬塚三郎右衛門茂虎の名があります。
名乗り(三郎右衛門の部分)と経緯から推測するに、東犬塚氏だと思います。
5男系(古賀館主・家喜の子孫)直鳥系・西犬塚系の江戸期以降の詳細はシオレベルでは辿れませんでした( ̄ω ̄A;アセアセ

こんな感じで肥前犬塚一族は、バラバラで各地を転々としたために、現代佐賀県のアチコチに「犬塚さん」がいる・・・という訳です。
(1569年には筑後犬塚さんが肥前に引っ越してきた事になってるし)
ここまでバラバラだと、現代佐賀県の犬塚さんは「先祖が、どの犬塚」なのか辿るのは至難の業じゃないでしょうか^^;

一部ネタバレしちゃいましたが詳細は本編の中で(*´pq`)
大物の争いに翻弄された犬塚家の運命を盛り込みたいと思います。
それは・またの話 by^-^sio

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日新公伊呂波歌

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後に薩摩藩の郷中教育の元となった、島津中興の祖・日新斎公の有り難い歌(-人-)☆彡




◎「い」:いにしへの 道を聞きても唱へても 我が行ひに せずばかひなし
(昔の偉い人の教えを幾ら聞いても口で唱えても、行動に起こさないと意味がない)

◎「ろ」:楼の上も はにふの小屋も住む人の 心にころは たかきいやしき
(立派な家に住んでいても、みすぼらしい家に住んでいても、人間の尊さや卑しさとは関係がない。
 心掛けが立派であればその人は尊敬されるのである)

◎「は」:はかなくも 明日の命を頼むかな 今日も今日もと 学びをばせで
(今日できることを明日に延ばし、更に後日に延ばし、明日を頼みとすると結局は何もできない。
 今日できることは今日すべきである)

◎「に」:似たるこそ 友としよけれ交わらば われにます人 おとなしき人
(自分と同程度の人と友達になろうとするものだが、なるべくなら自分より才能や学問に優れた徳の高い人を選んだ方がよい)

◎「ほ」:仏神 他にましまさず人よりも こころに恥ぢよ 天地よく知る
(人の心には神仏が住んでいるものであるから、良心に恥じ入ることなく正しい行いをしなさい。誰も見ていないようであるが、天地は必ず見ている)

◎「へ」:下手ぞとて 我とゆるすな稽古だに つもらばちりも 山とことの葉
(幾ら下手でも稽古を疎かにしてはいけない。毎日積み重ねれば必ず上達する)

◎「と」:科ありて 人を斬るとも軽くすな いかす刀も ただ一つなり
(罪人であっても軽々しく処罰してはいけない。
 殺すことも生かすことも君主の旨ひとつであれば、機微を洞察して臨機応変に処すべし)

◎「ち」:知恵能は 身につきぬれど荷にならず 人はおもんじ はづるものなり
(知恵や能力は幾ら身につけても決して邪魔にならない。
 人は沢山の能力を身に着けた人を尊び、自分の無知を恥じるものだから、たゆまず身につけなさい)

◎「り」:理も法も 立たぬ世ぞとてひきやすき こころの駒の 行くにまかすな
(乱れた世であっても身勝手な振る舞いに走ってはならない。
 世間がどうであれ、自分自身は正義人道に則り流されるべきではない)

◎「ぬ」:ぬす人は 余所より入ると思ふかや 耳目の門に 戸ざしよくせよ
(盗人は余所から侵入すると思いがちであるが、真の盗人は耳や目から入ってくる。
 心の戸締りをしっかりすることが肝要である)

◎「る」:流通すと 貴人や君が物語り はじめて聞ける 顔もちぞよき
(既に熟知していることでも、目上の人からの話は初めて聞くような振る舞いをした方がよい。
 知っているからと横着な態度を顔に表してはいけない)

◎「を」小車の わが悪業にひかれてや つとむる道を うしと見るらん
(人は欲望に引かれてしまうものである。
 そして何ともなかった筈の仕事すら辛く感じ、遂には悪行に走ってしまう。
 自分の成すべきを聢と成すべきである)

◎「わ」:私を捨てて 君にしむかはねば うらみも起り 述懐もあり
(君主に仕えるには私心を捨てるべきである。私心があるからこそ恨みや不平不満が生じるのである)

◎「か」:学問は あしたの潮のひるまにも なみのよるこそ なほ静かなれ
(学問をする上で時を選ぶ必要はないが、できるなら夜の方が静かなので適している)

◎「よ」:善きあしき 人の上にて身を磨け 友はかがみと なるものぞがし
(人様の善いことは見習い、悪しきことは自分はやるまいと諌め、自分自身を磨きなさい。
 友達の行いは反面教師となるので、自らの手本としなさい)

◎「た」:種子となる 心の水にまかせずば 道より外に 名も流れまじ
(煩悩の種に支配されずに行いをすれば、道に外れることもなく名聞も道より流れ出はしないだろう)

◎「れ」:礼するは 人にするかは人をまた さぐるは人を 下ぐるものかな
(人に礼を尽くすことは己に礼を尽くすに等しい。
 また、人を卑下することは己を卑下することに異ならない)

◎「そ」:そしるにも 二つあるべし大方は 主人のために なるものと知れ
(臣が主人を謗るのには二通りある。
 大概は主人の為になるものと、主人は心得るべきである)

◎「つ」:つらしとて 恨みかへすな我れ人に 報ひ報ひて はてしなき世ぞ
(人から辛い目にあわされても、恨みを返してはいけない。
 仕返しをなせば報いに報いを重ねる果てしない世となる)

◎「ね」:ねがはずば 隔てもあらじいつはりの 世にまことある 伊勢の神垣
(伊勢の神様は、此方が無謀な望みを起こさなければお守り下さる。
 非望を起こすから隔ても生じるのである)

◎「な」:名を今に 残しおきける人も人 こころもこころ 何かおとらん
(後世に名を遺した人も、人であることに変わりなく、心とて心であることに違いはない。
 同様の心を以てすればその地位に至ることも可能であり、決して劣るものではない)

◎「ら」:楽も苦も 時過ぎぬれば跡もなし 世に残る名を ただ思ふべし
(苦楽はそのとき限りのもので、時が過ぎれば跡形もなくなる。
 だが名前は、身を粉にして世に尽くせば残る。それを心掛けるべし)

◎「む」:昔より 道ならずして驕る身の 天のせめにし あはざるはなし
(古来より、無道をした者が天の責めに遭わぬということはないと知るべし)

◎「う」:憂かりける 今の世こそは先の世と おもへばいまぞ 後の世ならん
(現世の辛いことは前世の因果の為であると思えば、今の世を正しく生きれば来世は良い人生となるだろう)

◎「ゐ」:亥に臥して 寅には起くと夕露の 身を徒に あらせじがため
(夜は十時に寝て、四時に起きなさい。露のように儚い人生を無駄としないために)

◎「の」:遁るまじ 所をかねて思ひきれ 時に至りて 涼しかるべし
(逃れ難いときには、命を捨てる覚悟で思い切って決断すべきである。
 その覚悟があれば、まさかの時に至って涼やかでいられるものである)

◎「お」:思ほへず 違ふものなり身の上の 欲をはなれて 義をまもれひと
(正義の人であっても、ひとたび私欲の念が生じれば知らず道を外れてしまうものである。
 欲を捨てて正義を守るのが肝要である)

◎「く」:苦しくと すぐ道を行け九曲折の 末は鞍馬の さかさまの世ぞ
(どんなに苦しくとも、まっすぐ道を進みなさい。
 九十九折の様に曲がった道を行けば、末は真っ暗闇で逆さまに引っくり返ってしまうぞ)

◎「や」:やはらぐと 怒るをいはば弓と筆 鳥に二つの つばさとを知れ
(寛大に過ぎれば侮られ、厳格に過ぎれば陰口を叩かれる。
 寛大と厳格、この二つを例えるならば文と武である。鳥に翼が二つ必要なように、一方だけでは用をなさ ないと知りなさい)

◎「ま」:萬能も 一心とあり事ふる(つかうる)に 身ばし頼むな 思案堪忍
(いかに万能であっても、心が邪であれば取るに足らないものである。
 才能を頼みと要らぬ自慢などせず、よく思案し慎重に仕えたほうがよい)

◎「け」:賢不肖 用い捨つるといふ人も 必ずならば 殊勝なるべし
(賢者を用いて、そうでない人を用いないと言ったとしても、その通りにできるならば本当に感心である。 部下が真に優れているか否か、見極めるなどは難しいものである)

◎「ふ」:不勢とて 敵を侮ることなかれ 多勢を見ても 恐るべからず
(小勢だからといって敵を侮ってはいけない。
 また、敵が多勢だからといって恐れる必要はない)

◎「こ」:心こそ 軍さ(いくさ)する身の命なれ そろゆれば生き 揃はねば死す
(皆の心が一致団結すれば軍勢は勝利する。
 しなければ敗北する。)

◎「え」:回向(えこう)には 我と人とを隔つなよ 看経(かんきん)はよし してもせずとも
(供養する際は、敵味方を区別せず冥福を祈りなさい。
 但し、読経はしてもしなくてもよい)

◎「て」:敵となる 人こそはわが師匠ぞと 思ひかへして 身をも嗜め
(敵とは忌むべき存在のようだが、考えようによっては自分を嗜める師匠のようなものと思い返して、敵に 対しても苛酷残忍の取り扱いをしてはならない)

◎「あ」:あきらけき 目も呉竹の此世より 迷はばいかに 後のやみぢは
(目にも明らかな現世で迷えば、暗がりの死後の世界は一層迷うことだろう。
 目先のことに捕らわれず邁進すべきである)

◎「さ」:酒も水 ながれも酒となるぞかし ただ情けあれ 君が言の葉
(酒も水のように思い、また河の流れも酒のように有難く受けるものである。
 そのように情け深くあれば、厳しい言葉でも部下の心には沁みるものである)

◎「き」:聞くことも 又見ることも心がら みな迷ひなり みなさとりなり
(聞くことも見ることも、受け手の心掛け一つで迷いとも悟りともなる。
 何事も謙虚に受け止めるべきである)

◎「ゆ」:弓を得て 失ふことも大将の こころ一つの 手をば離れず
(大将の心一つで、士気を上げることも衰えさせることもある。
 よく心を配るべきである)

◎「め」:めぐりては 我身にこそは事へ(つかえ)けれ 先祖のまつり 忠孝の道
(先祖をよく供養すれば、自分も子孫より供養されるものである。
 主君に忠をなせば臣下が忠をなし、父母に考をなせば我が子に考を尽くされるものである)

◎「み」:道にただ 身をば捨てんと思ひとれ かならず天の たすけあるべし
(道義を前に身を捨ててかかれば、必ずや天からの助けがある)

◎「し」:舌だにも 歯のこはきをば知るものを 人は心の なからましやは
(舌でさえ歯が固いのを知っている。況して人には心がある。
 人様には虚飾を排して接し、また他人の正邪を察して、互いに害さぬよう心掛けるべきである)

◎「ゑ」:酔へる世を さましもやらで盃に 無明の酒を かさぬるはうし
(辛い世の中だからと、酒浸りになっても虚しいだけである。
 このようなときこそ、己を見つめ返すときである)

◎「ひ」:ひとり身を あはれと思へ物毎に 民にはゆるす 心あるべし
(頼る者のない身は寂しいものである。だから民には仁徳を以て寛大であるべし。)

◎「も」:もろもろの 国や所の政道は 人にまづよく 教へならはせ
(色々な国や所の法令は、民によく教えておかなければならない。
 それを知らない民を、これが国法であるからと刑罰に処するのは仁徳に欠く行為である)

◎「せ」:善に移り あやまれるをば改めよ 義不義は生れ つかぬものなり
(義も不義も天性のものではない。教え諭せば善人になりうるものである)

◎「す」:少しきを 足れりとも知れ満ちぬれば 月もほどなく 十六夜のそら
(欲をかかず、分を弁え程々にせよ。
 月も十五夜のように満ちてしまえば、翌日には十六夜となり欠け始めるではないか)

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ゲリンピックなぅ (´;ω;`)ウッ

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世間様がオリンピック開催~五輪五輪と湧いてる中・・・

シオのお腹はゲリンゲリン ,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

昨夜、島津日新斎公作の伊呂波歌をアップした後くらいから・・・
急にキタァ━━━━ヽ(´ω` )ノ━━━━ッ★ピーヒャラピー・パッパパラリラ的な?

もう10分置きにトイレに駆け込むので寝られたものじゃない。il||li _| ̄|○ il||l

あ~こりゃ頑張って仕事行っても使い物にならんですな ( ゚Д゚)y─┛~~


てことで朝一番で病院で血液検査~~でも熱も吐き気もなしで炎症反応は平常心。
つまり雑菌(呪とか尾尾壱呉奈々とか風邪)ではない。
逆を言えば原因不明( ̄ω ̄A;アセアセ

今の時期、シオ地方は朝晩の気温差が激しいので、残暑の疲れか腹を冷やしたか(-ω-;)ウーン
一昨日時間差で食べた「茹でとうもろこし&インスタントあんかけ焼きそば(昼間」「イナダ刺身(夜」「牛乳(寝るちょい前」がダメだったのかな~~

とにかく脱水症状だったんで点滴打って、下痢止め&痛み止めを服用してもらいました。
午後からは根性で出社しました(=^・ω・^=)v ブイ
食欲はあるが、腸が「躍る大捜査線」なんで、胃腸に優しいものにしてます。

これといった病気じゃないだけに、自然に下痢が治まるのを様子見 |腸|_ ̄)じぃー するしかなさそうです(´;ω;`)ウッ


そういう腹事情ですので、気晴らしに顔くらいは出せるが、集中力ガタ落ちなんで記事更新は無理(´;ω;`)ウッ
またまた訪問やコメ返事がペースダウンしますが、何卒宜しくお願いします。m(__)m

告知~「✢ 佐賀の戦国史 -沖田畷に見る戦国軍事史研究の現在 ✢」

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現在、薬で決壊(「何の」かは聞かないで)を堰き止めております。
|腹|_ ̄)じぃー。。。痛みは殆ど治まってるが、薬服用の止め時を思案中でつ・・・

てことで、気分転換に後援会× 講演会○~♪ヽ(*´∀`)つ【告知】

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先日、佐賀城にて佐賀の戦国史 番外篇 「1から始める龍造寺史」が行われましたが

平成25年11月16日(土)に新たな講演を行います!


★ 第ニ回「沖田畷に見る戦国軍事史研究の現在」★


http://stat.ameba.jp/user_images/20130811/22/0721jjjj/56/ff/j/t02200312_0451064012643528566.jpg

■日時:平成25年11月16日(土) 13:00 ― 15:00

■会場:佐賀城本丸歴史館 外御書院 ニノ間・三ノ間

■資料代:一般 500円 高校生以下 無料 (佐賀城本丸歴史館の入場料は無料です)

■講師: 中西 豪  
    ( 作家・歴史家 学研M文庫『史伝鍋島直茂』著者 学研の歴史関連雑誌に記事執筆多数 )

■後援: 佐賀新聞社,佐賀県立佐賀城本丸歴史館 

■佐賀城本丸歴史館 HP告知 http://sagajou.jp/event/kokuchi.php?n=230
       
天正12年(1584年)、北部九州を制圧した龍造寺隆信は島津氏との南北対決に臨む。
決戦の地は島原半島・沖田畷。圧倒的に優勢であった筈の龍造寺軍はよもやの大敗を喫し、隆信も敢えなく戦死を遂げた。
しかし、巷間伝えられる如く龍造寺軍の戦いぶりは稚拙で無様なものであったのか。
沖田畷合戦の知られざる戦略的背景、戦術的特徴を歴史家・作家の中西豪が解説し、戦国九州の趨勢を決した合戦の真の姿に迫る。

■グラフィック&キャラクター:小林 加菜子(第1回グラフィック担当者)
               鬼塚 美津子(クリアファイル担当)


■主催:SagaSengoku-Labo.(佐賀戦国研究会)
 専用twitter: sagasengoku

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九州歴史愛好会公式ブログより、了解の上でコピペ転載しました。
道産子のシオは、都合がつかず参加できません  (゜-Å) ホロリ
近在の皆様、もしくは九州へ出向かれる方々、お時間の都合がつきましたら是非参加してください~

でもってブログにアップして内容教えて,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
ではでは、あと数日はマッタリします~(^ -)---☆Wink

【1476・文明8~北九州限定・戦国年表】

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・千葉胤朝、大村家親を藤津郡で破り、大村領を併合

11月?日、京都・室町第が焼ける




≪北九州シオ的エントリー:豊前・筑前・肥前・筑後≫

【参照サイト:内容のスペックはシオ推奨^^/】
さがの歴史・文化お宝帳
戦国島津女系図
しいまんづ雑記旧録
千葉一族HP
武家家伝
城郭放浪記
天下統一期年譜
※生年月日はウィキペディアに準拠してますが、異説等は都度対処に努めます。

【主な史料出典元】
島津関連「本藩人物誌」「島津歴代略記」「島津中興記」
伊東関連「日向記」
相良関連「八代日記」「南藤曼綿録」
肥前関連「北肥戦誌」「三瀬村史・富士町史(佐賀市所蔵)
筑前関連「秋月家譜」「高鍋藩史」

※史料提供は監修様の御好意で全面協力頂いております。
監修様、この場を借りて厚く御礼申し上げますm(__)m

【プロローグ・偏諱と龍造寺、前篇】龍造寺隆信「道」の巻

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お腹、ほぼ復調した~半月ぶり本編・新シリーズ行きます~ゎーィ♪ヽ(*´∀`)ノ
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佐賀県PR^^/
恋するフォーチュンクッキー
佐賀県庁 Ver. / AKB48[公式] YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=Bi4Ikk835Bs

新章に入る前に、ちょっとボンヤリと考えてました。
記事の文章を推敲してるうちに、別に分けた方がいいかな~って(自分の脳内整理)
思いつくまま書いてるので、予め前篇にしときます,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
★諱(いみな)とは(ウィキペディアより)

諱という漢字は、日本語では「いむ」と訓ぜられるように【本来は口に出すことがはばかられることを意味する】動詞である。
この漢字は、古代に貴人や死者を本名で呼ぶことを避ける習慣があったことから、転じて人の本名(名)のことを指すようになった。(中略)
諱に対して普段人を呼ぶときに使う名称のことを、字(あざな←通称・名乗りです)といい、
時代が下ると多くの人々が諱と字を持つようになった。

諱で呼びかけることは親や主君などのみに許され、それ以外の人間が諱で呼びかけることは極めて無礼であると考えられた


諱は普通は公開しません。その人の本当の名前(隠し名)だからです。
だから本人が死んで墓石や戒名に諱が書かれて「初めて知った」なんて事もあります。
我々が隠してたはずの諱を、どうやって知るか?というと文書です。

朝廷に伺候する時は普段の名乗りではなく、本姓(源平藤橘諸氏)と本名(諱)で呼ばれます。
神社に寄進したりするときの願主・施主の名前も普段の(以下同文)
和睦・和議で起請文や各種誓紙を交わす時も普段の(以下同文)
主君は家臣を諱で呼びかける事が許されてる(非礼とはされない)ので、
そういった時の情景が___φ(.. ) メモメモっと残されてる場合もあります。

だから後世の我々が、武将たちの普段の名乗り以外で諱や本姓を知るのは、文書や史跡の銘・碑文、墓石の脇書等として残ってる人物に限定されるわけです^-^

余談ですが、伊達政宗だけは現代の大河ドラマの如く、ガンガン諱呼びされてました,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
さすがに本人に面と向かっては、呼び捨てはしてないとは思うんですけどね・・・( ̄ω ̄A;アセアセ
でも関係者全員が目にする布陣図に「政宗(の陣)」と書かれてても、伊達家からはノンクレームなところを見ると、本人が禁忌であるはずの諱呼びを面白がってたとしか思えない^^;
自分の諱をキャラ化してた唯一の戦国武将かもです。

余談から戻って諱とくれば偏諱です

★偏諱(へんき=諱の一字拝領)の風習(ウィキペディアより一部抜粋)

貴人から臣下への恩恵の付与として偏諱を与える例が、鎌倉時代から江戸時代にかけて非常に多く見られる。
室町時代に入ると重臣の嫡子などの元服に際して烏帽子親となった主君が、特別な恩恵として自身の偏諱を与えることが広く見られるようになった。

武家において偏諱を授けるということは直接的な主従関係の証となるものであり、

主君が自分の家臣に仕えている陪臣に偏諱を授けることが出来なかった。(中略)
【戦国期に入ると偏諱は外交手段】として用いられた。

もっと判りやすく言うと、戦国時代における偏諱とは「ニャンコのマーキング」です(`・ω・´)キリッ

諱の偏諱を見れば、どの武将が大内サイドで誰が大友サイドか一目瞭然。

九州で最も偏諱に熱心だったのはキング大友。
お蔭でデジャヴュな諱が量産され、フルネームでないと誰が誰だか区別つきません(爆
名乗り・通称の習慣が薄れた現代人泣かせですが、利点もあります。

例えば生没年不詳の武将がいたとします。
彼の諱に「鑑」の文字が入っていれば、大友義鑑からの偏諱で、拝領したのは1530年以前に限定出来ます。
または諱に「鎮」の文字が入っていれば、大友義鎮(宗麟)からの偏諱で、拝領したのは家督相続以降で隠居前に限定されます。

そうなると前後の史料・諸情勢から、生没年不詳武将の活動時期・年齢などが大雑把に推測できる・・・と言う訳です^-^(本音:面倒くせぇえええ~)

で、長々説明した後に(やっと)龍造寺です,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

龍造寺隆信は、初めは西千葉氏から、次は亡き大内義隆から偏諱を受けて「隆」の文字を拝領してます。
緑枠&太文字で説明した偏諱の風習に従うと、龍造寺隆信は大内義隆の被官(ひかん・緩やかな主従関係)になった事になる・・・はずです。

が、実際の隆信は大内被官としての行動を何一つしてません。(゚ロ゚屮)屮 じぇじぇじぇ!
龍造寺隆信の辞書に「誰かの家臣になる」は無い(`・ω・´)キリッ
てことで断言しちゃおうと考えているのだが、それは・またの話 by^-^sio

http://img5.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/cb/40/tokino_siori/folder/360566/img_360566_9312126_0?1379281528 最近のお気に入り画像、兎のオチリ(*´pq`)クスッ
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