Quantcast
Channel: 九州戦国ブログ~室町末期から江戸初期まで~
Viewing all 910 articles
Browse latest View live

【永禄元年、10月十六夜(いざよい)前篇】龍造寺隆信「覇」の巻10

$
0
0
ここから先は北肥戦誌と三瀬村誌とでは記述が異なって来るので、当初の予定通り北肥戦誌ベースで行きます(`・ω・´)キリッ
(緑太文字は北肥戦誌より抜粋、三瀬村誌は適宜に参照・引用します。)
(ちなみに三瀬村誌は佐賀市所蔵でWEB公開してます。佐賀市ありがと~~ゎーィ♪ヽ(*´∀`)ノ)


1558年(永禄元年)10月15日、一族が神代勢に討たれたのを知った小河筑後守信安。
[神代が首を討ち取り、討ち死にした者らへの手向けとする]と言い放つと、己が手勢で勝手に出陣してしまう。

「お・・小河!Σ(´Д`;)」
知らせを聞いた主君・龍造寺隆信は「小河を討たせてはならぬ」と、弟・兵庫頭長信らを率いて自らも出陣した。
て流れで突出した小河信安勢は、そのまま先陣を担うことになった。

http://blog-imgs-50.fc2.com/s/i/o/siori20120901/20130721181958c3d.jpg

ちなみに三瀬村誌だと出陣は14日だし、小河は勝手にじゃなくて隆信をせっついて出陣を促し、先陣を賜わった事になってる。
北肥戦誌の方が強引で激情家な小河の気性が良く出て、話としては面白い。
一方、三瀬村誌はヒーローはあくまでも神代勝利なので、どうしても神代がカッコ良く他が引き立て役になるのは致し方ない^^;

三瀬村誌の小河は、神代サイドの梅野一族の一人・梅野弾正を味方に引き込み道案内させたとある。
さすがにここまでの郷土史レベルとなると、どちらの記述に信憑性の軍配を上げるか、他県人では判断のしようがない^^;

とにかく小河信安が春日山・甘南備城に到着した時には、既に神代勝利は陣を引き払いもぬけの殻。
討死した者たち・・・小河の一族らと手勢の亡骸のみが横たわっていた。
「我が一族、顔見知った者たちが・・・!(´;ω;)ウッ・・・゜・(PДq。)・゜・」

小河信安は歯噛みし悔しがり「(# ゚Д゚)・;'.ならば山内へ打ち入らん!」と発する。
が、従者らが「ダメダメ~~山内一帯は神代の庭みたいなもんです!これから夜が更けて行くのに動き回るのはヤバすぎ!!」
と、必死に制止したので強引な小河も止む無く、その夜は春日山に陣を布いた。

http://blog-imgs-49.fc2.com/s/i/o/siori20120901/20130113151825b3b.jpg 神代勝利イメージ画像
これを聞いた山内勢はすぐさま集まり、高野寺の大鐘を鳴らすと、小城の千葉胤頼が加勢に駆け付けて尾形山に陣を張り、近隣の者は小副川の寄合原に集まった。
北肥戦誌には高野寺とありますが、これは寺ではなく地名というか・・・場所は富士町関屋の高野岳。
山内に権現山があるんですが、高野は登山口にあたる高野岳で集落があります。
寺もあって正式名・高野岳良源寺なんだけど、開基が判らなかったので、北肥戦誌にある高野寺が高野岳良源寺と同じかどうかは不明です。

前置きはさておき、この大鐘は非常・危急を知らせるための手段として、神代が山内に復帰した永禄元年早々に設置しました。

権現山頂上に大鐘を設置し、イザって時は鐘を打ち鳴らし山々に知らせます。
鐘の音が聞こえない場所には法螺貝・太鼓の決まった合図で知らせ、夜には各所で篝火を焚く。
ピンチ・戦の動員の際は、このシステムにより一日で山内全てに合図を送る事が出来ました。
神出鬼没だった神代勝利の行軍の速さを支えたのは、こうした工夫の賜物でしょう。

小城市から千葉胤頼(少弐冬尚実弟)が駆けつけるくらいだから、相当広範囲まさに山内一帯に「合図」を送ってたんだな~
尾形山は探せなかったけど、小副川は富士町にある地名です。
神代勢は3000を二つに分け、勝利が率いた1700は熊野峰に陣を布き、勝利の嫡子・神代長良が率いる1300は名尾口へ向かう。
熊野峰・・・解んないな~三瀬村誌だと神代は三反田すじへ・・・とあります。
となると大和町大字松瀬にある三反田郵便局付近です。
名尾口・・・名尾峠は佐賀市の方ならピンと来るんじゃないでしょうか?現在では夜景スポットだとか^^
てか、神代親子は富士町から大和町方面へ(山あり谷あり6km位を)夜のうちに、一気に移動したのネー(*´・д・)(・д・`*)ネー
小河信安出陣の日付は三瀬村誌の10月14日が正解なんじゃないかな~
でないと神代側が「山内一帯へ合図⇒集合⇒名尾峠まで移動」を一晩でやり遂げた事になるんで、いくらなんでも無理なんじゃ・・・( ̄ω ̄A;アセアセ

そこへ斥候が戻り、佐嘉勢が攻め来ており、その中に葦毛の馬に乗った老武者の真ん前に進み、頻りに鞭を上げる者があると伝えた。勝利は、それが小河信安と悟る。
勝利は佐嘉勢を待ち受けるよう命じると、夜明けを待った。
佐嘉勢・・・すなわち小河信安と神代勝利のニアミス交戦が起きるのだが、それは・またの話 by^-^sio

【永禄元年、10月十六夜(いざよい)後篇】龍造寺隆信「覇」の巻11

$
0
0
今回の話は、シオのオタク呟きやマニア解説やウンチク考察は、野暮。
北肥戦誌の雰囲気をお楽しみ下さい^-^

にほんブログ村 地方・郷土史
(永禄元年/1558年、10月)
明けた16日、勝利は河浪駿河守に槍を持たせ、自ら斥候に出る。

一方、小河信安も下人に槍を持たせて斥候に出ていた。

二人は脇道より登った険しい山の細道で行きあう。

互いにそれよと見れば、勝利は駿河守に預けていた槍を押っ取り、力足を踏み込んで

やれ、筑後守(小河信安)か、勝利なり。いざ勝負を決せん」と述べる

信安は笑い、「心得たり。勝利物々しや、元より願う処。此度の合戦の雌雄は、汝と我、ただ二人が勝負に在るぞ。いざ、参り候

と言うや否や、槍を取り直し突き合った。

大力共の踏む足に砂混じりの岩石微塵に砕け、左右の谷へ落ちる事雨の如し。

双方の家臣は援けようとするが、道が一騎分しかなく、脇は石壁数十丈が聳えたち、中々駆け寄り難かった。

勝利の従者・駿河守はあまりに堪えかね、砂を掴んで勝利の草摺の下から打った。

信安は長身ゆえに勝利を見降ろし突き合うと、勝利は一の腕を突かれて無念と悲鳴を上げ突き返すが、信安は受けきれずに己の頬先より右の小髷の際に甲の鉢を槍先深く貫かれた(股を突かれたとも)。

信安は「ええ口惜しい口惜しい」と二言三言言う処へ河浪駿河守が走り寄って首を取られた





神代勝利の槍を預かり、小河信安の首を直接落とした河浪駿河守ですが、一説には梅津兵部とあります。

梅津兵部は、甘南備城攻撃の際に崖道で転んで討たれた梅津帯刀の父です。

別説なら梅津兵部は息子の仇を取った事になるのですが、、、それだと話が出来過ぎちゃうかな^^


落とされた小河の首級は神代勝利によって丁重に弔われたとあります。
以前記事にしましたが、小河は神代を暗殺しようと神代の城の湯殿に潜入、発覚して失敗したエピソードがあります。
かなりの大男だったと言われてるので、どうやって忍び込んだのか謎,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
神代は小河を殺す事無く、それどころか自身の酒宴に招き、小河と酒を酌み交わして帰してやりました。
いかにも自己演出・外連味たっぷりの神代らしい話です。

それだけに小河信安は何としても自身の手で神代勝利を討ちたかったんだと思います。
でもそれは小河の個人的感情。
結果として小河の行動は、主君である龍造寺隆信の判断を狂わせてしまったんです。

十五夜(満月)の翌日の月は、天空に出るのを躊躇うのだという。
そのため15日の翌日を「いざよい・十六夜」と呼ぶようになったそうです。

十六夜の月を龍造寺隆信は、どんな思いで見上げたのでしょうか・・・
隆信の判断ミスで龍造寺勢には更なる戦死者が出てしまうのだが、それは・またの話 by^-^sio

【決戦!金鋪(鉄布で名尾)峠・前篇】龍造寺隆信「覇」の巻12

$
0
0
龍造寺隆信には悪い癖があります。
ニャンコが突然車道に飛び出すように、大将でありながら敵地(アウェー)に入る事です。


「沖田畷の戦い」で自ら出陣したのを「慢心・油断」とか言われますが、晩年に「そう」なったわけじゃありません。
敵地に自ら入るのは20代の頃から持ってる性質なんです。

大将に万が一あったらヤバいので、大将自ら出張ったりするのは、まぁ普通はないです。
作戦や諸事情で行かなきゃならない場合でも、本陣は一番安全な位置に置くのが「普通」です。
その「不文律」を破る武将は、「普通じゃない」ので良くも悪くも知名度に関係なく逸話になりやすいです。
せっかく「一番安全な場所に布陣した本陣」から飛び出す黒田長政は、パパ如水に怒られてるしwww

家臣と武功を(本気で)競う長政は極端な例ですが、敵地に踏み入るという点で、龍造寺隆信は織田信長や島津義弘に似たタイプかもです。
ただし生粋の武家子弟である信長と義弘は、大将が討死した場合のヤバさを本能レベルで熟知してます。

織田信長は敵地でピンチになると家臣も放置で速攻で逃げるし、島津義弘の場合は本人も必死で逃げるけど、何より義弘周囲の島津兵戦死率が急上昇して・・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ

隆信の「普通じゃ少ない、大将自ら敵地入り」は、僧侶出身な事と関係してるかもしれません。
もしくは「隆信は自ら敵地入りする時」は、「判断力が鈍磨している時」なんじゃないだろうか?って感じます。

沖田畷の時は負けるとは予想できないほど、アウェーを補うだけの兵力差。

今回の神代勝利との決戦で、隆信の判断力を鈍らせたのは小河信安だと思います


http://blog-imgs-49.fc2.com/s/i/o/siori20120901/blog_import_5042c7a4b747b.jpeg 龍造寺家紋ロゴ

小河信安には「相手を自分の思う通りに動かそうとする」強引さがありました。
また一族を率いる身でありながら、単身で暗殺しようと潜入する斜め上の度胸があり、自身の武勇に対し相当自信満々だったと思います。

北肥戦誌では「勝手に出陣した」事になってて、小河の性格丸出しなんで話として面白いと記事にしました。
でも、その小河を追いかけて出陣するほど隆信はオッチョコチョイではないと思います。

三瀬村誌だと小河は「神代退治」を幾度となく進言し、龍造寺隆信を出陣させようと盛んに働きかけてます。
そもそも隆信にとっても神代勝利は、少弐の龍造寺潰し陰謀に加担した父祖の仇です。
出撃しては山内に引っ込む神代勝利に、イライラもしてました。
小河信安の進言に応じた隆信の方も、敵地に入る事になるので兵力は充分用意したでしょう。。。。。沖田畷で出撃した時のように・・・

この時点で隆信の判断が間違ってます

何故なら、どれほど大軍を擁しても山岳地帯の山内では、それを活かせないからです

そもそもシオから言わせれば、山内なんてホットケ!です。
神代勝利が出張って来たら、都度対処し被害を最小限に抑えれば良い話。
神埼・佐嘉・小城の三郡に跨る山岳地帯である山内に蟠踞する豪族を従わせようなどどすれば、身も心も擦り減る長期消耗戦になるのが関の山。
逆に何としても一度で決着つけようとすれば、織田信長が比叡山を焼き討ちしたようにするしかありません。
でもこれやるとな~山内領民、赤子から老人に至るまで子子孫孫恨まれるうえに、数年単位で山内から租税取り立て出来ないほど被害甚大になるからな~


肥前の熊・龍造寺隆信は佐賀郡の平野部生まれの平野部育ち

これまでの戦も、河川流域か平野部のみで、連載開始前に山岳地帯が全くイメージ出来なかった港街育ちシオと50歩100歩です。
龍造寺隆信は「山岳地帯で戦をする」という事が、頭で判ってるつもりになってるだけで、本当の意味では理解してなかったと思います。
だから神代勢より兵力を揃えれば勝てると錯覚したのだろうし、隆信の錯覚を誘発したのは小河信安の強引さでしょう。

判断ミスには不運が重なりがちです。
なんと先陣だった小河信安が討死!Σ(´Д`;) うあ゙
てか先陣大将のくせに敵大将と一騎打ちって・・・・何ヤッテンダ・・・il||li _| ̄|○ il||l
その後、龍造寺軍にとって更に不味い事態になるのだが、それは・またの話 by^-^sio

【決戦!金鋪(鉄布で名尾)峠・中篇】龍造寺隆信「覇」の巻13

$
0
0

シオが1558年における龍造寺VS神代に拘る理由は、この戦いが肥前において初めて鉄砲が使用された戦だからです。
使ったのは神代勝利サイド。
神代が鉄砲を入手したのを、龍造寺隆信は多分、まだ知らない。

http://blog-imgs-49.fc2.com/s/i/o/siori20120901/20130113151825b3b.jpg 神代勝利イメージ画像

「決着を付けたい」は小河信安・龍造寺隆信だけでなく、神代勝利も一緒だった。

三瀬村誌によると、神代勝利は自分一手で片を付けるつもりだったらしい。
兵3000を勝利・1700と、嫡男の長良・1300に分けるのは、まだいい。

勝利は嫡男・長良に対し、
「ワシの手勢だけでケリを付けるので、我が本陣が崩れぬうちは動くな(`・ω・´)意訳キリッ」と厳命してました。
そして
「我が本陣が崩れたor佐賀勢が敗れたら、その時の状況で判断して行動せよ(`・ω・´)意訳キリッ」と伝えています。

てか勝利の本陣が崩れた場合って、勝利本人が討死してるかもなわけで、勝利は万が一の場合は嫡男の長良を逃がそうとしたんだと思います。
と、同時に軍勢を分けて兵を分散したのは、勝利が自分自身を囮にしたんじゃないでしょうか。
もちろんそれは、龍造寺隆信本人を山内へ引き寄せる為・・・です。

敵大将が自ら敵地に赴く千載一遇のチャンスは滅多にある事じゃないのを、敵である神代勝利の方が隆信よりも判ってたのでしょう。
北肥戦誌にも三瀬村誌にも、隆信が率いていた兵数は記されてません。
でも神代勝利・長良親子の3000よりは多かったんじゃないでしょうか。

先陣である小河信安と神代勝利が一騎打ちした場所は、北肥戦誌には鉄布峠と思いっ切り適当な漢字・・・ゲホグホ
とにかく、そこは金鋪峠と呼ばれ現代の夜景スポット名尾峠の事です^-^

http://blog-imgs-50.fc2.com/s/i/o/siori20120901/201307281343105fd.jpg

神代勝利が初めに布陣したのは大和町松瀬の三反田。
動くなと言われ長良が布陣したのは名尾峠へ通じる入り口です。
名尾峠そのものは一騎打ちシーンにあるように、周りは崖が聳え立ち、道は一騎分しか通れないような間道だったようです。

勝利のいた三反田から名尾峠まで直線距離で3km弱。
小河がいた春日山・甘南備城から名尾峠まで、同じく直線距離で2km弱。
おそらく移動には互いに一時間かかったか、かからないかだったでしょう。

でもって一騎打ちして敗れた小河信安(先陣大将だよ~ん)が討たれた。
信安不在に気付いた小河勢がやってくるが、信安討ち死にを知ると、信安の嫡子・豊前守を先頭に次々と山内勢に駆け入り討ち死にしていった。(北肥戦誌より抜粋)
小河家は嫡男も家臣も全員脳筋なのか(@@)
何で後続の佐賀勢本隊到着を待たないんだ?!Σ(´Д`;)

いえ、、、、
それだけ忠義・信義に篤い小河信安が慕われていたのでしょう・・・ショボーン..._φ(・ω・` )
そのうち後陣の佐嘉勢も続き鉄布(名尾)峠に馳せ登る。
勝利はこれに打ち掛かり、佐嘉勢も鬨を上げ乱戦となる。
北肥戦誌には「馳せ登る」と勢い良く書かれてますが、

実際の龍造寺勢は峠の南側をよじ登って来たんです

そして乱戦とありますが、場所は馬で一騎分しか通れない間道です。
華々しく兵を展開するなんて望むべくもなく、個々の技能に頼る白兵戦でした。

もともと戦というのは、地の利を得た方が有利です。
特に狭い間道で戦う山岳地帯での戦では、上から攻撃する側が圧倒的に有利。

龍造寺勢が峠の南側をよじ登る、まさのにその時!
神代側から龍造寺勢の頭上めがけて鉄砲が撃ちかけられたのだが、それは・またの話 by^-^sio

【決戦!金鋪(鉄布で名尾)峠・後篇】龍造寺隆信「覇」の巻14

$
0
0

鉄砲を使ったのは神代勝利近習の山伏で、薩摩出身の伊集院阿含坊。身の丈七尺。
郷土史によると薩摩・伊集院の弟とあるんだが、どの伊集院ですか,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

この阿含坊1人が撃った鉄砲が絶大な効果を発揮しました。
まず本人が鉄砲の名手だったので、部隊指揮官である兜首クラスをHITした。
そして地形です。名尾峠は周囲に崖が聳え立ってます。
鉄砲の音が周囲の崖に反響して音撃破に・・・・・・(._+ )☆\(-.-メ)ヤメンカ!

冗談はさておき、もっと肝心なのは「肥前における初めて鉄砲が使われた戦」だって事です。
峠に鳴り響く鉄砲の音を初めて聞いた者が、おそらく雑兵の大半を占めてたはずです。
佐嘉勢はパニックを起こし、収拾がつかなくなりました。

それでも何とか必死でよじ登ると、待ち構えてた神代勢によって追い落とされる。
峠南側の谷底は佐嘉勢の死体が累々と重なって埋まり、谷川は佐嘉勢の血で染まる。
雑兵の戦死者は数えきれなかったそうです。

仕官クラスの犠牲者は、石井兼清、中元寺新左衛門、副島左馬允、水町右馬助、江副新八郎、土橋孫七郎、大塚七左衛門、久保九郎兵衛、大石四郎兵衛。
このとき、河上の鳥居の前に山内勢の何者かに依る、嘲笑の狂歌が立てられる。

『春日山 若武者先に落とされて 又清恥を かくぞ鉄布(かなしき)』
河上の鳥居・・・肥前国一の宮・與止比女神社のことでしょう。

北肥戦誌には「信安らが討たれたと聞き激怒」と簡単に書いてますが、おそらく石井兼清が戦死した事も怒りMAXになった要因だと思います( ̄ω ̄A;アセアセ

小河信安が「隆信に靡かない18代目未亡人との和合を取り持った恩人」なら、
石井兼清は「隆信が還俗した時の儀式受け入れ準備一切を取り仕切り細やかに世話してくれた恩人」です。
僧侶出身で子飼いの家臣が未だ育ってない隆信にとって、二人の存在は貴重でした。

更に北肥戦誌では激怒した隆信が「山内へ打ち入らんと発するが」止められたとあるんですが、
実は隆信は既に神代エリア内にかなり深入りしてました。

http://blog-imgs-50.fc2.com/s/i/o/siori20120901/201307281343105fd.jpg


隆信は三反田の南広坂(大和町松瀬)まで陣を進めてて、そこで大敗北の報告を聞いたんです。
三反田・南広坂は神代勝利が決戦前に布陣した場所近くらしく、そこまで隆信が陣を進めていた理由・・・

1)神代が名尾峠に移動してた情報が遅れて、隆信が知らなかった。
2)神代が戻るところを待ち伏せするつもりだった。

といったところでしょうか。三反田から烏帽子岳との距離は1kmくらい。
そのまま8kmほど北上すると三瀬峠に入ります。

まさに背振山系への入り口寸前。ここまで敵地に入り込む大将ってどうなの?( ̄ω ̄A;アセアセ
これ以上先はリアル山越え覚悟の行軍になり、山岳民族である山内豪族たちのブービートラップが幾つあるか見当も尽きません。
そもそも旧暦の10月なんで、平地の服装感覚での山越えはガチで不味い。

隆信に対し納富左馬助が「更に奥へ進むですと!(゚ロ゚屮)屮 ナンダッテ~~」
「土地不案内すぎ!ダメダメダメ~~~~!!!」と必死に止めたので、隆信も漸く諦めました。

北肥戦誌にも三瀬村誌にも、龍造寺・佐嘉勢の兵数が記されてないので、佐嘉勢の戦死者数を把握することは出来ません。
が、龍造寺が負けた事は歴史的事実です

傍証1・先陣大将・小河信安と嫡男が討死し、先陣が壊滅
傍証2・三瀬村誌に記された、地形に基づく佐嘉勢の被害の客観的状況
傍証3・三瀬村誌&北肥戦誌、双方の仕官クラス戦死者氏名の記述にブレがない(現地に慰霊の石碑有り)

トドメの傍証・・・引き上げる隆信の帰還コース
三瀬村誌によると、隆信は引き上げる際に藪の中へ旗を立て「未だいるぞ」工作し、大和町大字川上近くの惣座で西に転身し小城道から佐嘉へ帰るという遠回りしてるんです。

嗚呼・・・この行動は紛れもなく敗軍の将・・・肥前の熊・龍造寺隆信、大敗北認定です


自分は神代勝利勢(1700、息子の兵入れると3000)より、龍造寺側の兵力が多いはずだ。と書きました。
というのも神代勝利は名尾峠で勝利すると、佐嘉勢を追撃することなく三瀬へ引き上げてるからです。
敗北はしたものの、龍造寺勢の兵力に余力があったからじゃないでしょうか。

一騎打ち十六夜記事に記したように、三瀬へ戻った神代は小河を首級を丁重に弔ったそうです。
小河家は嫡男・豊前守も討死にして後継がなくなったので、主君・龍造寺隆信は鍋島清房の三男を信安の娘に娶せて跡を継がせました。

この決戦前までは亡き小河の案内を務めた梅野弾正のように、山内の豪族でも龍造寺に靡く者もいました。
が今回の大敗北で神代勝利が完全に山内を掌握し、龍造寺が食い込む余地が皆無となってしまった。
さらに神代は要害堅固な熊ノ川城も造り、筑前方面へと勢力を広げんとしていたのだが、それは・またの話 by^-^sio

暑中お見舞い申し上げます&近況報告

$
0
0


夏本番、というにはイマイチの気温のシオ地方。
夜は肌寒いくらいでして・・・( ̄ω ̄A;アセアセ
そのくせ日中は蒸し暑いので、油断できないという・・・

皆様の地域におかれましては30度越えの日々と思います。
夏バテ、熱中症、食中毒などなど、お互い気を付けて夏を乗り切りましょう(^ -)---☆Wink

さて、5月19日に事故に遭遇し、以来ずっと毎日(土日以外)通院してたシオですが・・・

8月から隔日(月水金)通院となりました ゎーィ♪ヽ(*´∀`)ノ

身体もつらいが、時間が拘束される平日毎日通院は、シンドかったですil||li _| ̄|○ il||l

今までは1時間以上のPC作業や、30分以上の運転などが、ナントモ形容し難い・・・
とにかく腰が切なくてシンドくて大変だったんです。
調子の良い日と悪い日もあったりで、、、仕事から帰ると寝たり起きたりの日々でした。

それが7月20日すぎくらい・・・からかな?
今までのシンドさを、いつの間にか感じなくなってきて、事故後はシンドくて出来なかった正座も平気になってきました^^
それで、ここのところ更新頻度が従前に戻りつつあります(痛み緩和で集中力復活(=^・ω・^=)v ブイ) 

たぶんですが、このまま良い状態が続けば8月で治療は終わると思います(*´pq`)ムフフ


それと某院内感染(怒)で集中治療を受けていた父ですが、
一か月余りで症状が緩和され、現在は元の病室に戻る事が出来ました ゎーィ♪ヽ(*´∀`)ノ

たびたびブログを休んだり、訪問も途切れたり、コメントも現在は個々へのレスに対応出来ず纏めての返事になってしまい申し訳ありません。

たくさんの御見舞い、ありがとうございました。
特に事故に関しては、どこにも吐き出せずモヤ~~としてた気持ちに折り合いつけられたのは、皆様の励ましのお蔭です。
本当にありがとうございました。
とりあえず現在は、日々、良い状況へと向かっておりますので、ご安心下さい^-^

今後とも精進しマニアック街道を猛驀進してまいりますので、真夏の九州の如く暑い九州専門戦国ブログを、何卒宜しくお願いします。



フラッシュは南洲さまのブログからです
http://blogs.yahoo.co.jp/yuewannwann/32351261.html?vitality

【神代勝利、戦国大名化計画IF1・大友の肥前支配】龍造寺隆信「覇」の巻15

$
0
0

さて、今回のシリーズは「IF肥前神代藩成立」を、楽しく妄想するコーナーです。
あくまでも妄想になります。
というのもネタバレになりますが、神代家は後に嫡流が絶えるからです(家は残るけど)

でも生き残ったのが神代勝利なら、歴史が違ったかもよ?
今山合戦で大友と戦うのは神代だったりする?
マニアックネタですが・・・皆さん、ちょっと ウキウキ(0 ̄*O)(O* ̄▽)Oワクワク してみませんか^^/

で、その前振りとして大友家の肥前支配について、シオの脳内整理に御付き合い下さい(^ -)---☆Wink




まず、単純に「シオ的大友配下の定義」について。
1)豊後参りに行く
(毎年八朔の日(8月1日)に豊後で行われる大友威光を示す軍事パレードに参加し臣従を誓う儀式)
2)租税を納める
3)軍役に応じる(早い話、大友軍が出陣したら馳せ参じます~てことネ)
4)府内へ人質を差し出す
5)時の大友当主から偏諱(へんき=諱の一文字を拝領)を受ける
1&2に関しては、図書館所蔵とかの大友関連文書や史料の裏付けが取れないと把握不可なんで、道産子素人歴女じゃ無理。
3~5ならWEB検索で判る~ただし、個々の国人を調べて行くと言う地味に時間かかる作業だけどwww
でもシオってば凝り性だから、コツコツやっちゃうのよね(*´pq`)クスッ

で、一番調べやすいのが偏諱ですが、大友家から偏諱を受けた肥前国人は、宗麟の父・義鑑の頃から出始めてます。
一方、しぶとく残ってる少弐家。少弐から偏諱を受けてた(だろう)と思われるのは政資の代くらいまで。
政資の孫・冬尚から偏諱を受けた国人は、シオの調べた範囲では皆無・・・です。

哀しいかな、これが衰退しゆく少弐の現実。
名門ゆえに神輿として担がれるだけで、担ぐ国人たちに少弐に対する忠義はないんです。
大友義鑑は、一言で説明できない事態が重なり大内と和睦、北九州支配から一端(表向き)手を引きます。
再び大友が本格的に北九州支配に乗り出すのは、大内義隆が家臣の謀反で討たれてる1551年以降の事。

1554年、大友義鎮が肥前守護職となる

http://blog-imgs-49.fc2.com/s/i/o/siori20120901/blog_import_5042c81fc9ff3.jpeg

大友家では守護代に相当する役職「方分(ほうぶんorかたわけ」を任命しました。
したんですが・・・・大友支配が何処まで肥前に及んでいたかとなると・・・かなり微妙です^^;

方分職は行政と司法と現地政務などを司り・・と権限は大きい。
ところが、読み方がハッキリしてないように、方分職そのものが未だ研究段階途上。

国単位だけでなく、郡単位の方分任命もあった・・・とか。
義鎮時代初期は他役職との兼務もしてましたが、家臣謀反を恐れ次第に方分と他役職を兼務させなくなったり・・・とか。
現段階で肥前方分(守護代みたいな感じ)に任命された・・・と推測されているのは以下の三名。

臼杵鑑速、田原親賢、吉弘鑑理

ただし研究者全てが、この三人をチョイスしてるわけでなく、上記三人の内「二人が方分だ」「いや一人だけだ。」と説が別れてます。

どうも肥前に関して大友家は実行支配までには至っておらず、方分職の三人は大友家における肥前関係の窓口・・・というのが実情に近いかもしれません。

正直な話。大友家では家臣謀反・国人謀反への対応で忙しく、それに加えて毛利とドスコイ状態になったりで、肥前まで手が回らなかったんです。

この有耶無耶な状態が龍造寺隆信の台頭を許してしまう事になります


http://blog-imgs-49.fc2.com/s/i/o/siori20120901/blog_import_5042c7a602686.jpeg 少弐家紋ロゴ

今まで少弐は大友のバックアップ受けていた・・・とザックリ説明してきました。
が、それは具体的な事例には乏しい、実はムードみたいなものでした^^;

自分の知る限りでは、少弐の要請で大友が肥前に派兵した事実はないと思います。
あくまでも大友が北九州へ兵を入れるのは、
大友都合の
大友事情による
大友利益のための軍事行動
でして、少弐はダシにされてるか、少弐の方で大友に便乗したかのいずれかです。

ぶっちゃけた話。大内義隆が死んだからには、大友にとって少弐の利用価値は半値以下。
少弐支援を大義名分にする必要などサラサラなく、大友自身の実力・財力で守護職を次々と余裕でゲッチュー。
少弐は残っても残らなくても、どーでも宜しい。まぁ龍造寺が力つけてるからフタになってくれれば助かるかな~程度。

むろん守護大名&キングオブ九州として「少弐から保護を求めてくれば」(亡命者として)受け入れる度量はあります。
なんたって太宰少弐ですもん、大友保護下・府内在住居候となれば、大友が自慢できるでしょ?(*´ー`)


少弐冬尚は、大内義隆の死で「大友にとって少弐が政治的に不必要になってる事実」に目も耳も塞いでいたかもしれません。
利用価値なし・不必要になるって事は、相手が龍造寺でなくとも大友に滅ぼされる日が来るっかもしれないって事。

シオ的「少弐が武家として生き残る道」は、大友に臣従を誓う事です

大友義鎮から偏諱を受けるか、人質(家臣クラスじゃダメね、身内よ)を府内へ差し出し、八朔の日に少弐冬尚自身が豊後・府内へ詣で大友の下座に着くんです。
そして龍造寺討伐の為、大友家臣生え抜き同紋衆の出陣を請い願う。

・・・・が、これを実行するには、少弐は余りにも名門すぎました・・・・(´;ω;`)ウッ
鎌倉時代「九州三人衆」として、大友家と肩を並べていた少弐氏が、どうして大友の下座につくなど出来ましょう・・・(´;ω;`)ウッ
少弐は、ゆっくりと確実に地盤沈下し、少弐配下の国人たちは少弐の頭越しに大友家からの偏諱を受けていきます。
少弐配下だったはずの神代勝利にしても、そう。
彼もまた、少弐とは関係のなく自己判断で動き始めて行くのですが、それは・またの話 by^-^sio

【神代勝利、戦国大名化計画IF2・博多と大友1】龍造寺隆信「覇」の巻16

$
0
0

大友の北九州支配で豊前なんですが・・・
WEB上ではデータが少ないのと宇佐神宮が手ごわくてリサーチ出来てません(_´Д`)アイーン
どのみち神代と豊前は関わった事ないので、今回も逃げ・・・ゲホゴホ、割愛させて下さい(人´∀`)




さて、西から順番に肥前の次は筑前なんですが・・・筑前の覇権を巡る争いはズバリ複雑!
大友義鎮が筑前守護職になったのは、1559年で割と遅い。
が、大友家では筑前守護職ゲッツの100年以上前から、|筑前|_ ̄)じぃーっと狙い、関わっていました。

目的は大宰府・・・よりも商都・博多、貿易による利権。
「筑前の覇者=博多の支配者であり、交易による利益を甘受する者」です。
もっとも博多には一筋縄で行かない博多商人達がおり、武家の思惑通りにはなかなか・・・( ̄ω ̄A;アセアセ

商都としての博多の歴史は遣唐使の経由地から始まり、平清盛が港を作ったりと錚々たる歴史上の人物が関わり、シオ程度の知識じゃ手に負えません( ̄ω ̄A;アセアセ
それでも当ブログの管理人ですので、浅学ではありますが自分の理解してる範疇で説明させてもらいますね^^;

博多支配に関しても室町中期~末期の頃には、少弐・大友・大内の三つ巴になります。
南蛮交易というと大友(=^・ω・^=)v ブイ。朝鮮交易なら対馬・宗氏(=^・ω・^=)v ブイ日明交易なら大内(=^・ω・^=)v ブイ。
てな漠然としたイメージがあると思いますが、大内の日明貿易独り勝ち状態は最初からではありません。

室町初期の頃、大内義弘は私貿易をヤリ過ぎ&実力あり過ぎを室町幕府(将軍・義満)に疎まれ「応永の乱」の首謀者として討たれて(1400年)しまいます。
室町幕府から交易の独占を許可されたのは、大内義興の代(1516年4月)です。
後を継いだ大内義隆は交易に必須の勘合符を巡って細川京兆家と対立し、結果「寧波の乱(1523年)」が起きます。
一時的に日明貿易が途絶えましたが、再び交易を復活させ大内独占状態に戻したのも大内義隆でした。

http://blog-imgs-49.fc2.com/s/i/o/siori20120901/blog_import_5042c7bcda4c9.jpeg 大内家紋ロゴ

その大内家ですが・・・
九州探題・今川了俊の後任、無難バランス人事で選出された渋谷氏が余りにも実力不足なため、室町幕府から「渋谷の面倒見てあげてね(´・д・`)」と依頼され、公明正大に北九州に介入し始めます。

一方、陰が薄い九州探題につけこむのは大友家も一緒。

渋川満頼が九州探題を辞したのを機に、大友氏は1429年(永享元年)朝鮮に使者を遣わして博多支配を宣言

それを受けて博多商人は大友家の保護下で貿易を行ってました。

つまり博多のうち、交易港のある北東部が大友氏配下。
残る内陸側の南西部が少弐支配下だったんです。
少弐は、美味しいところを大友にとられ・・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ

この状態は長続きしませんでした。

1478年(文明10年)、大内政弘は少弐勢力を筑前(&博多)から追放o( ̄Д ̄θ★ケリッ!

少弐は本貫地・大宰府を失っただけでなく、博多に関する利権も失った(_´Д`)アイーン
肥前に拠点を移した少弐政資が、大貧民アボンにならずにすんだのは、対馬・宗氏がバックアップしてたからです。

で、どういう感じで共存してたかは判りませんが、博多は大友・大内の二大勢力の支配下に入った。
両家が、この状況に満足するはずもなく、博多・・筑前・・ひいては北九州の覇権を巡って争う事になります。

争いに終止符を打つのが、大内家の最盛期を作る男・大内義隆です。
晩年のダメダメ感が流布されすぎて、衆道ネタでは弄られキャラにされたりで、残念な扱いをされがちです。
が・・・往年の輝いてた頃の大内義隆は、本当に凄かったんです。
なかでも北九州における大内義隆の構想を実現させる男、名将・陶興房の功績は計り知れません。

大内義隆は「勢場ヶ原の戦い」で、ついに大友を北九州から撤退させる事に成功するのだが、それは・またの話 by^-^sio

前説が多過ぎて神代に辿りつけない件・・・il||li _| ̄|○ il||lデモコレヤラナイト・・・

【神代勝利、戦国大名化計画IF3・博多と大友2】龍造寺隆信「覇」の巻17

$
0
0

(-ω-;)ウーン・・・なかなか神代勝利に辿りつかない・・・爆

勢場ヶ原の戦い(1534年・天文3年4月)は、それ単独だけで見ると、
この後は大内・大友間で大きな争いがなかったとか、
この後は実質停戦状態になり後に正式和睦したなど・・・の理由が見えてきません。

これには九州全体の情勢・・・筑後と肥後で起きた大友に対する謀反が絡んでました

元々大友家では断続的起きる筑後の謀反に手を焼いてました。(おのれ星野め・・ビキビキ(-ω-#)by大友義長)
それに大友からの自立を目論む肥後の大友傀儡守護職・菊池義宗(大友義鑑実弟)が便乗。
「筑後の謀反を支援してやって♪ヽ(*´∀`)つ」と、大内義隆とタッグを組んで大内軍を誘い入れた。
こうして名将・陶興房が北九州入り~~

「大内が来るなら家(少弐)の出番!大友を支援するぉ(`・ω・´)キリッ」と少弐が便乗。
結果として筑後への援軍はソッチのけ。いつもの如く大内の少弐叩きが始まり、そのまま「大内の肥前平定」へと歴史は流れて行く。
ちなみに名将・陶興房ですが、個人戦では龍造寺軍に無勝,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ

http://blog-imgs-49.fc2.com/s/i/o/siori20120901/blog_import_5042c81e7a834.jpeg 大友家紋ロゴ

で、キッカケの筑後星野氏の謀反ですが、鎮圧に至る過程の年月日が、シオレベルではハッキリと特定出来ませんでした。
(1533年の段階で籠城したまんまだったか、いったん降伏し再び謀反して鎮圧されたのかが???)

というのも1534年2月に肥後・菊池義武が大友に対し挙兵したからで、そっちの動きが大きすぎて筑後情勢が辿れなくなっちゃたんです^^;
大友では肥後鎮圧の為に戸次鑑連(後の道雪)など、生え抜きの精鋭が送り込まれました。

大友本軍が留守の間隙を縫って、陶興房率いる大内勢が豊後国境を侵攻したのが「勢場ヶ原の戦い」です


大友義鑑は相当焦ったと思います。
大内義隆とタッグを組んでる菊池義宗は、水軍を使って豊後・国東半島沿岸で略奪行為をし、大友を翻弄してました。

最終的には筑後・肥後の謀反は鎮圧され、大内勢も撃退し名門・大友家の底力を示した事にはなりました。
が、この1534年の段階では、一時的とはいえ大友軍のほぼ全軍がフル稼働状態となり、もし謀反が長期化していれば、さしもの大友も息切れし躓いて大怪我したかもでした。
これに懲りた大友義鑑は、足元(肥後や筑後)を固める事を優先し、北九州へ大軍を派兵する事を控えたんです。

勢場ヶ原の戦いで大友が大内勢を撃退したので、大内義隆の野望頓挫~とする見方もあります。
ですが、その数か月後には陶興房は再び北九州入りし大宰府に駐屯してます。

大友が北九州に対して大きな動きを止めた以上、大内義隆の目的は達したんです


両者は実質停戦(和睦したともある)状態になり、1538年に足利義晴の仲介で条件批准~正式に和睦しました。

http://blog-imgs-49.fc2.com/s/i/o/siori20120901/blog_import_5042c7bcda4c9.jpeg 大内家紋ロゴ

で、表題の博多なんですが、、、、和睦の時にどうなったか判りませんでしたil||li _| ̄|○ il||lスイマセン
でも博多の利権を大友が全て手放すとは思えないし、もしそうならWEB上の検索で引っかかると思うんです。
少なくとも博多に絡む事が和睦条件に入っていたら、大友は和睦に首を縦に振らないでしょう。
だから商都・博多に、大内・大友の二大勢力がいる状況には変化はなかったと思います。
(大友寄りの博多商人が大内寄りに靡くとった現象は起きてたでしょう)

で、和睦の条件批准として、筑前領の一部が大内から大友に割譲されました。
割譲された中に立花山城があった・・・という話もあるんですが、立花山城は元々大友が築城した城です。
だから大内が接収してたのを大友に返還されたのかもしれません。

てことで大友は割譲された筑前領から、ちょっとずつ勢力を広げる事から再スタートとなりました^^b

北九州へは大内家が選んだ守護代が派遣され、郡代は地元から選ばれ・・・といった感じで統治してます。
ただし陶興房が大宰府に駐屯してる間の軍権は、守護代ではなく陶興房に一任されてました。
肥前にも大内が守護代を任じてますが、この場合は統治の為でなく少弐に敵対する者がチョイスされてます^^;

大友が龍造寺が台頭したために、肥前統治まで至らなかったように、
大内も少弐が完全滅亡してないために、肥前だけは統治までは出来てなかったんです。

で、次は大内滅亡後~具体的な大友の筑前支配についてですが、それは・またの話 by^-^sio
神代は、それからなのネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

【神代勝利、戦国大名化計画IF4・筑前大友五城】龍造寺隆信「覇」の巻18

$
0
0
訪問・コメ返事が遅れてすいません~~
にほんブログ村 地方・郷土史

前振りが長引いてますが、今話してる事は龍造寺編にも秋月編にも後々必要になる基本ベース知識です。
退屈かもですが「シオさんは記事にしないと脳内整理出来ない不器用さんダカラナー(*´ー`)ヤレヤレ」と笑って御付き合い下さいませ。


大友が筑前支配の為に要としたのが、筑前大友ファイブ・・ではなくて筑前大友五城です。
立花山城~~~城主・前立花氏⇒⇒道雪の立花氏
宝満山城~~~城主・一万田系高橋氏⇒⇒岩屋城玉砕で高名な紹運の吉弘系高橋氏
柑子岳城~~~城主・臼杵氏
筑前方分は臼杵鑑続(兄)鑑速(弟)、田北鑑生、戸次道雪
(方分:ほうぶんorかたわけ、大友の職制。宿老クラスから選抜され、守護代に相当する地位)

で、大友五城を分けて紹介したのは、これから紹介する二城は、上記三城と特徴が違うんです。
その違いとは「城主」です。

上記三城の城主が常に同紋衆の一族から選ばれたのに対し、残る二城の城主は他姓衆(外様or新参or配下国人)なんです。
(同紋衆:大友家紋使用を許可された事から呼ばれた。大友支族or譜代家臣から構成されるエリート集団)
名門意識が強く身分格差がキツイ大友家での内部人事にしては、かなり珍しいケースだと思います。

その二城とは安楽平(荒平)城(福岡県福岡市早良区)と鷲ケ岳城(筑紫郡那珂川町大字南面里)です


筑前大友五城のうち、この二城は場所も近く軍事上セットで機能してたと推測されます。
とういうのも安楽平と鷲ケ岳それぞれの城主は、リアル親子だからです。

http://blog-imgs-50.fc2.com/s/i/o/siori20120901/201308041338337d7.jpg
(縮尺テキトー雰囲気だけ戦国地図)

まず安楽平城ですが荒平山にあることから、もともとは荒平城と呼ばれてました。
が、秋月氏の居城が荒平城だったものですから、区別するために何時の頃から安楽の字が当てられました。

安楽平城は、軍事面だけでなく統治上でも要衝の城でした。
大内氏が早良郡に郡代を定めた時、大内の早良郡代は安楽平城に入ってたからです。

ちなみに大内が早良郡代を決めたのは、少弐氏が肥前に拠点を移す文明10(1478年)より前の事。
1430年~1460年にかけて、既に大内の早良郡代が記録上に残っており、筑前における少弐衰退が顕著になってたのが推測出来ます。

当時の早良郡代で安楽平城主は大友時代の城主・小田部氏とは別家でして、何時ごろから小田部氏が安楽平城に入ったのか、シオレベルでは辿れませんでした^^;

というのも、どうやら小田部氏は一度断絶したらしいんです。
そこで大友家臣(て、いうより配下の在地国人)で松浦城主隼人佐鎮隆が小田部の名跡を継いで安楽平城に入りました。
年代としては1550~1555年くらい、その頃が鷲ケ岳城築城推定時期なんで、同じくらいかと。。。

松浦城が何処にあったのか不明でして、早良区内には城跡としては残ってません。
もしかしたら隼人佐鎮隆が安楽平城に入った事で、早々と廃城になったかもです。

代わりにあるのが松浦殿塚で、この人物は肥前・平戸からやって来て、筑前・早良郡に土着しました。
隼人佐鎮隆と塚の人物が同じか。もしくは後裔なのかイマイチはっきりとした確証は持てなかったです。

一方、鷲ケ岳城主が大鶴(大津留)宗秋(宗雲)
長くなったので、それは・またの話 by^-^sio

【安楽平城~神代勝利、戦国大名化計画IF5】龍造寺隆信「覇」の巻19

$
0
0

鷲ケ岳城主は大鶴(大津留)九郎宗秋(宗雲)。
安楽平城、小田部(こたべ)氏の名跡を継いだ小田部民部少鎮隆(松浦隼人佐鎮隆から改名)の息子。

と、紹介してるサイトがあったんですが、大鶴九郎宗秋の経歴からすると単なる縁戚関係っぽい感じでして、親子関係がコンガラガッテ伝承された史料があるんじゃないでしょうか^^;

大鶴は大津留とも書かれてて、初めは自分も豊後大神系氏族・大津留氏の一族かと早とちりしました。
が、通字の惟を使ってないところを見ると、直接の血族じゃなさそうです。
てか、そもそも大鶴宗秋は、大友家臣でも城持ちになれるほどの家柄じゃなかったとか。

最近、教えて貰い知ったんですが「大鶴」姓は旧日田郡大鶴村が由来だそうです。
となると大鶴九郎宗秋の父祖は、大蔵系日田氏⇒大友系日田氏に仕えてた・・・と思われ・・
大友系日田氏が衰退後に、本家である大友家に仕えた(or寝返り)って流れ・・かな?
城持ちになれる家柄じゃないとなると、大友家臣としては新参だったかもです。




ある時、大友家では「家臣たちに、ちゃんとした礼法・作法を学ばせたいな~(´・д・`)」と思い立ち、身軽な身分の大鶴九郎宗秋が京へと派遣されたそうな。
大鶴九郎宗秋は伊勢さんとこの室町礼法ハウツーを φ(.. ) メモメモ___と会得し大友家へ帰還。
喜んだ大友当主が(たぶん義鎮)褒美として、筑前に領地を与えた。

http://blog-imgs-49.fc2.com/s/i/o/siori20120901/blog_import_5042c81e7a834.jpeg 大友家紋ロゴ

その拝領した領地に築城したのが鷲ケ岳城です。
つまるところ軍功ではなく、文治面での功績で城持ちになったわけで、大鶴九郎宗秋の武勇は未知数^^;
というより、あんまりアテにならない・・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ

その大鶴九郎宗秋の次男が、安楽平城の小田部民部少鎮隆に婿入りし、家督を継いだ。
それが小田部鎮元(後の紹叱)でして、1553年の事だと言われてます。

他姓衆(外様or新参or配下国人)でありながら、名跡と安楽平城を継いだ小田部民部少鎮隆は、おそらく余程の武勇スペック保持者。
その後継者・婿にと望まれただけあり、小田部鎮元(大鶴九郎宗秋の次男)は、かなりの気骨の持ち主だったようです。
小田部鎮元は、後年の龍造寺軍による兵糧攻めに半年間耐え抜いた後に討って出て敗れ、自刃しています。

安楽平城と鷲ケ岳城は、大内滅亡後の大友による筑前支配の要衝の一つとして、1550年~1555年の間に整備されたのでしょう。
で、軍事連携を組みやすいように、双方の城主が縁戚・血縁関係となったんだと思います。
むろん、それは主君である大友義鎮の北九州支配構想の一環だったはずです。

では、何故それほど重要な城を他姓衆(外様or新参or配下国人)に預けたのでしょう。

http://blog-imgs-50.fc2.com/s/i/o/siori20120901/201308041338337d7.jpg
筑前大友五城、配置図(縮尺はテキトー雰囲気だけ戦国地図)

自分は大友の軍編成における発想が、城主の配置に出てると思います。
大友は先陣には他姓衆(外様or新参or配下国人)を選ぶからです。

先陣は武功のチャンスともいえる華やかさがありますが、同時に兵の損耗率も甚大。
一度の出撃で壊滅ってパターンも無いとは言えない、別の意味では社内ブラック部署。

大友家では生え抜きの精鋭である大友本軍(同紋衆)を温存する為、兵の死傷率が高い先陣(or想定激戦区)には、替えや補充のきく他姓衆を使うわけです。
とーぜん、他姓衆は不満でイパーイですが、大友が全盛期の間は我慢して従ってました。

で、筑前大友五城に話は戻りますが、さすがに他姓衆には任せられない城があります。
それが博多の守護である立花城、付近の沿岸に睨みを利かせる柑子岳城、博多から大宰府の防衛ラインを補完する宝満山城です。

この三城だけは、余所者には任せられない。
城主は武勇・忠義、あらゆる面で生え抜きの同紋衆が選抜されます。
にも関わらず、裏切り謀反を起こす城主が出るのが、大友家の絶望的な宿痾(しゅくあ=持病)なんです。

上記三城は博多を中心点とする内城で、安楽平城と鷲ケ岳城は外城という見方も出来ます。
というのは、少弐であれ、龍造寺であれ、島津であれ、

背振山系・・特に三瀬峠を越えてる来る敵が、初めに攻略するのが安楽平城だからです


だから軍事連携としては、安楽平城が「主」で、鷲ケ岳城が「従」。
安楽平城を落とせば、そこを起点に博多へも大宰府へ各城へも、行きたいところを攻略しに行けます。
あ、無視するって話はなしでwww
安楽平城を落とさずに先に進めば、背後を突かれちゃいます^^b
(だから後年になると、小田部氏に調略工作とか入る)

1558年冬が近づく頃、三瀬から安楽平城攻撃に動いた武将がいた。
それが山内の英雄・神代勝利なのだが、それは・またの話 by^-^sio

あ~~やっと前説終わった~~またリサーチに入るんで間があきます~

【峠の無双~神代勝利、戦国大名化計画IF6】龍造寺隆信「覇」の巻20

$
0
0

1558年初冬、佐嘉勢を名尾峠で打ち破った神代勝利。
彼は「佐嘉は、この辺で勘弁してやるか~(*´ー`)」と思い「次、反対側へ行ってみよ~イエーイ(*´∀`)ノ」と筑前への勢力拡大を決意。
その頃、筑前国荒平(安楽平)の城主・小田辺紹連の所領の者どもが徒党を組んで狼藉を働くと知らせが・・ナンタラカンタラ by三瀬村誌参照
小田辺紹連って誰ですか,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!(いろいろ混ざってネ?)
面白いのは、地名や人名で詳細だった三瀬村誌が、ここら辺りで急に当て字が増えるんです。
昔の呼び方とかじゃないです。だから調べるシオとしては特定するのに凄い時間がかかり、長い前振りになった^^;

1558年当時の安楽平城主は小田部鎮元なのネー(*´・д・)(・д・`*)ネー


察するに神代側と小田部側とで国境に関して揉めたようですな( ゚Д゚)y─┛~~

http://blog-imgs-50.fc2.com/s/i/o/siori20120901/201308041338337d7.jpg

神代は小田部サイドからの狼藉を口実として、小田部討伐のために山内へ合図を送った。
集まった兵らは、山伏の大弓坊&円乗坊に率いさせ、是を先陣とした。
戦国時代は兵農どころか、兵僧分離もしてない件~,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

荒僧に率いられた先陣は椎原(しいば)峠から押し出し、池田口という所で布陣させた。
池田口が判りませんでした^^;
椎原峠はシオ地図には入りきれません~
鷲ケ岳城より直線距離で4km以上南西で背振山にある峠ですが、あんまり長い距離じゃないらしく、グーグルマップ検索では峠の正確な位置は出て来ません。
福岡県・峠データベースには出てま~す。

というのも実は、椎原峠は交通路としてより、背振山登山口コースとしての方が有名なんです。
背振山は1000m級の霊峰で、椎原峠自体も標高700m以上の位置にあり、ぶっちゃけ峠越えが既に登山,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
慣れない人は気圧の変化で耳キーーン来るぉ(´・д・`)

旧暦で10月~11月といえば、もう背振山には初雪が降ってる時期で、当時も山頂は麗しく雪化粧だった事でしょう。
霊峰としての背振山は山岳信仰の聖地としても知られてまして、先陣を率いる二人の荒僧は修験道の為に椎原峠を幾度となく往来してたはずです。
彼等が選ばれたのは、本人の武勇とか、兵士の士気を鼓舞とか以前に「土地勘バリバリ」だったのが最大の理由だと思います。


一方、神代勝利は僅か100騎ほどで三瀬峠を降り大野という所に密かに本陣を置いた

これが神代勝利が仕組んだ罠でした


小田部鎮元は「神代が来るなら、コッチから討って出るべし(`・ω・´)キリッ」と3000騎(人)率いて出陣。
池田口にいる1000騎(コッチも雑兵を含んだ人数の事だと思う)の方を神代本陣と勘違いして、攻撃したんです。

小田部が神代の旗印を知らないはずは無いので、先陣には神代本陣の旗印を持たせてたんじゃないでしょうか。
こうして神代先陣と小田部が戦いを繰り広げ乱戦~~ころあいを見た神代勝利が小田部勢後方横合いから攻撃した。
思わぬ方向から攻撃を受けた小田部勢は混乱し戦意喪失、あとはもう神代勝利の思うつぼ。
神代勢は退却しようとする小田部勢の退路を断って難所に追い込み、次々と討ち取ったそうです。

これは小田部鎮元に同情する^^;

山内周辺の峠や山間の地形を利用する布陣をさせたら、神代勝利の右に出る者はいません

退路を断たれた小田部勢は安楽平城へ帰還する事が出来ず、博多へ逃げた(早良街道使ったかな?)と三瀬村誌にありました。
小田部鎮元は神代勝利に誓紙を差出し本領安堵を願い出たので、これを許した。
神代の勢いに恐れをなした原田、曲渕、大津留(大鶴宗秋の事らしい)が次々と和睦を申し出る。
神代は「和睦するなら強いて討伐する事はないだろう」と筑前退治を先延ばしにし、諸氏と和を結んだ。
てな感じに三瀬村誌では記してまして、戦の経過はともかく、最後の三行が話を盛ってるとしか思えないのだが、それは・またの話 by^-^sio

【考察1~神代勝利、戦国大名化計画IF7】龍造寺隆信「覇」の巻21

$
0
0

1558年初冬(推定)の筑前、安楽平城主・小田部鎮元VS神代勝利の話。

実は北肥戦誌(九州治乱記)、監修様所蔵の二次史料、筑前側(原田氏など)史料、安楽平城史、大友側史料・・
これら一切に記述がありません。

記述があるのは、三瀬村史と富士町史(共に佐賀市所蔵)のみで、同じ町史でも大和町史には記述なしです。
記述あり町村史の大元の出典は、おそらく「神代家伝記」+「三瀬における伝承」でしょう。

神代家伝記は江戸中期(正確な年度不明)神埼郡三瀬の長谷山観音寺住職が書いたものだと言われてます。
原本は残っておらず、現在あるのはシャボン・・・写本だとか。
成立が江戸中期なんで、当然の如く「佐賀藩特有の法則」、大人の事情と配慮と気配りと遠慮が施されてるのは容易に想像がつきます( ̄ω ̄A;アセアセ

が、大名として残る事が出来なかった大友家の配下の国人で、しかも隣の筑前なら何処からもノンクレーム♪ヽ(*´∀`)ノ
「おらが殿様」を語り継ぐうちに話が盛られた「神代勝利がヒーロー・三瀬村の伝承」を、
___φ(.. ) カキカキっと、そのまんま家伝に記したと思われます。

あ、もちろん三瀬村史でも心得てて「信憑性が怪しくても突っ込みしないぉ、村史の意義として伝承は全部残すぉ(´・д・`)シオ意訳」って前置きしてます^^b

http://blog-imgs-49.fc2.com/s/i/o/siori20120901/blog_import_5042c81e7a834.jpeg 大友家紋ロゴ

なので、野暮な突っ込みなのは重々承知してるんですが、考察なんで御容赦を~( ̄ω ̄A;アセアセ
1558年といえば、キングオブ九州・大友家は絶頂期・最盛期を迎えんとする頃でして・・・( ̄ω ̄A;アセアセ
その大友家を差し置いて、筑前大友五城の一つである安楽平城主が、神代勝利に対し領地安堵を願うなど200%以上ないです。
てか博多・福岡に逃げたってのも200%ないですな ( ゚Д゚)y─┛~~

大友家が大事に保護してる商都・博多に逃げ込むなんてアホな事したら、城主・小田部鎮元の地位がヤバいです。
逃げたのが史実なら、逃げた方角は糸島市方向になるはずで、泣きつくなら筑前方分・臼杵鑑速が領する柑子岳城。
神代家伝記が書かれた江戸中期には、とっくに廃城になってるんで人々の記憶から抜けてたでしょう。
たぶん、もし筑前で逃げるなら~~と咄嗟に思いついた地名を書いただけ,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

安楽平城・小田部鎮元と山内の神代勝利が国境で揉めたのはホントだと思います。
(互いの兵数も伝承の中で盛られてそうだが・・爆)
神代勝利が勝ったのもホントだと思う・・・戦の経過が具体的ですから^^b
ただ後はイイ感じで互いに妥協し、国境を定めて穏便に治めたんじゃないでしょうか。

で、肝心の「神代勝利戦国大名化」の可能性ですが「あった」と思います

それには、もう少し諸条件が整う必要があるんですが、そこらを無視して要となるのは「龍造寺隆信を倒す」です。
でもって、倒すチャンスはありました。

それが金鋪(名尾)峠での決戦です

後にも先にも、神代勝利が龍造寺隆信を倒すチャンスは、この一度限り!

自分が、そう考えたのは実は「金鋪(名尾)峠での決戦」で龍造寺隆信勢が動員した兵数の記載が無い事からでした。
ネタバレが出ちゃうけど考察なんで・・・(以下略)

北肥戦誌はともかく、三瀬村史にも富士町史にも龍造寺勢の兵力が書いてないという事は、大元である神代家伝記に記載がないという事です。
ヒーロー神代勝利の鮮やかで華麗なる勝利に対する具体的な兵数を書かない理由は、ただ一つ。

「佐賀藩特有の配慮が働いた」です


双方の兵力に差があればあるほど、負けた龍造寺隆信がカッコ悪い。
隆信のカッコ悪さを目立たせたくない理由として考えられるのは「鍋島勢も一緒に従軍してた」です。

もし鍋島が敗軍となった龍造寺のピンチを救ったのなら、その場合なら具体的な数字が出ます。
でもそんな活躍場面はなく、おそらく土地不案内の山内を、ひたすら逃げたんでしょう。
神代家伝記が書くのを遠慮するほどに・・・・( ̄ω ̄A;アセアセ

三瀬村史では、この後における神代VS龍造寺・川上の戦いで、双方の実力が互角だ・・・って書いてます。
が、自分は「金鋪(名尾)峠の決戦」の段階で、互角どころか既に双方の動員能力に差が出てたと考えてます。
てことでシオ流「金鋪(名尾)峠の決戦・考察」なのだが、それは・またの話 by^-^sio

【考察2~神代勝利、戦国大名化計画IF8】龍造寺隆信「覇」の巻22

$
0
0
治りかけに掃除ハッスルして、また腰を痛めた~~毎日通院に逆戻りな件(_´Д`)アイーン
にほんブログ村 地方・郷土史

この半年間、神代勝利に関わる地名は、片っ端から検索かけて位置データを補足してました。
それで気づいたんですが、神代勝利には「とある必勝パターン」があるんです。




それは常識の真逆・・・「ワザと兵数を減らし本陣の守りを薄くする」です

もちろん、この作戦は山内という山岳地帯でしか使えません。
平野部で、こんな事したら普通に囲まれて討ち取られます( ̄ω ̄A;アセアセ

山岳地帯である山内では大軍よりも小部隊の方がフットワーク効きます。
いくら大軍を擁し騎馬武者を揃えたところで、林野や山の中、峠などでは馬の機動性は全く使えないですから。
それと神代勝利が剣術という個人的武技の達人だった経歴が、こうした奇策を思いつかせたんだと思うんです。

普通、一番守りが固いのが大将がいる本陣です。
でも神代勝利はワザと兵を割いたり、小田部戦の時は本陣が先陣の1/10で、本陣が伏兵になるという奇策を用いてます。

奇策の目的は一つ。敵軍を山内の奥深くに誘い込む為!(`・ω・´)キリッ
これに完璧に釣られたのが龍造寺隆信でした^^;

http://blog-imgs-49.fc2.com/s/i/o/siori20120901/20130113151825b3b.jpg 神代勝利イメージ画像

金鋪(名尾)峠の決戦前に神代は3000あった兵力を、自分1700と嫡男1300に分けました。
でもって嫡男1300を名尾峠東側入口で「待機」させてます。

神代嫡男1300は、龍造寺勢が入った場所と反対側にいて、なおかつ「待機命令」により動いてない。

となると龍造寺側は神代嫡男1300に気付いてなかった可能性があります


龍造寺サイドは「神代勝利の動員した兵力が1700だけ」だと錯覚してたんです。
だから龍造寺隆信は「神代勝利を討ち取るチャンス」だと思って山内エリアに入ったんじゃないでしょうか。

不幸なことに龍造寺勢先陣だった小河信安隊は、小河信安が討ち取られ小河隊が壊滅してます。
てことは、ますますもって神代嫡男1300の存在を、龍造寺隆信が知る機会が減るか遅くなったでしょう。

で、今度は神代勝利が1700しか集めてないことに、隆信が違和感を覚えなかったのか?という疑問が湧きます。
自分は「案外、感じない」と思いました。


戦国時代の軍役基準で「1万石ごとに250人」ってのがあります。
神代の3000を当てはめて逆算すると12万石で、鎮西無双・立花宗茂とほぼ同数の動員力になります。
山内という山岳地帯で、それほどの国力があるとは想像しづらい。
でも無理をすれば頭数としての3000は集められるでしょう。

つまり身分・年齢を問わず&城や館には留守兵も置かず、山内中から男という男を掻き集める・・・・それなら3000いける(=^・ω・^=)v ブイ。
が、平野部育ちの龍造寺隆信にすれば「山間部で伝達と動員が素早く出来る」って言うのが感覚としてイメージしづらい。
1700という報告を受ければ「短時間じゃ、それしか集まらなかったんだな~(*´ー`)」と思うはず。

でも神代勝利は「その短時間の伝達」を可能にしたんです


http://blog-imgs-49.fc2.com/s/i/o/siori20120901/blog_import_5042c7a4b747b.jpeg 龍造寺家紋ロゴ

神代勝利は大鐘や法螺貝などで工夫を施し、一日で山内全てに動員合図を送れました。
ですから短時間で山内全ての村落からの動員は出来るんです。
最短で数時間、最長でも二日あれば、3000に近い人数になったんじゃないでしょうか。

北肥戦誌では10月15日出陣で16日に決戦となってます。
でも三瀬村史では14日出陣になってます。
山内勢の移動時間を考慮すれば、14日出陣が正解かと・・・。

神代勝利が龍造寺隆信に勝てるチャンスは一度きりだったと、前回書きました。

というのも冒頭の必勝策は、同じ相手には二度と通じないからです

神代勝利との戦いで、龍造寺隆信が山内へ足を踏み入れる事は二度とありませんでした。
だからこそ「金鋪(名尾)峠」の時が、最初で最後のチャンスだったのだが、それは・またの話 by^-^sio

【考察・終~神代勝利、戦国大名化計画IF9】龍造寺隆信「覇」の巻23

$
0
0

片や龍造寺隆信の動員した兵力は如何ほどだったと思います?
(たぶん負けたのが恰好悪いので)記録にない佐嘉勢の兵力・・・自分は6000~8000と推測してます^^/

考えても見て下さい。
山岳地帯の山内で3000(これが限界と思う)の頭数が揃うなら、肥沃な佐賀平野&河川流域(=人口も多い)を支配する龍造寺隆信の動員能力は、神代勝利の2倍以上のはずです。

当時の龍造寺隆信領は石高推定だと25万石以上、織豊期の一般的な軍役が1万石につき250人なので、単純計算で動員能力は6000(=^・ω・^=)v ブイ
北肥戦誌だと行き当たりばったりの出陣ムードの佐嘉勢ですが、三瀬村史だと事前に入念に準備した事になってます。
それなら慎重を期して、6000以上動員しちゃったかもですよ^^b
これは龍造寺隆信の性格も要素に含まれます。

僧侶出身の龍造寺隆信には「寡兵で大軍を破る」的な、名人芸発想は浮かばないし、ヤル気もない

無論、出自に関係なくソッチ方面に才能豊かな方もおられるでしょう。(いま思い出せないがwww)
でも用心深い肥前の熊は、確実な勝利を得る方向に走るので「戦う時は敵より多く兵を募る」セオリーに忠実なんです。

http://blog-imgs-49.fc2.com/s/i/o/siori20120901/blog_import_5042c7a4b747b.jpeg
意外と真面目な肥前の熊,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

逆に性格+経歴+山内地形的に奇策パフォーマンス大好きっ子が神代勝利。
彼が実質率いた兵1700は、山岳地帯の山内で己の手足の如く動かすのに「程よい人数」なのでしょう。
神代は嫡男率いる兵1300を伏兵に使わず、完全待機(=隠した)させてました。
従って出陣初動時において、佐嘉勢は「神代・山内勢が1700のみ」と錯覚してた可能性があります。

また、錯覚するように神代勝利も行動してたはずです。
先陣大将の小河信安はともかく、神代勝利は大将でありながら自ら斥候するなど、動き回ってましたから^^b

神代勝利・山内勢パッと見1700VS龍造寺隆信・佐賀勢(推定)6000~8000

3.5~4倍以上の兵力差・・・これだけ差があれば、用心深い平野部育ちの熊も山内に足を踏み入れて来る・・・!
兵力差の傍証は、神代と龍造寺の行動にちゃんと表れてます。

名尾峠で大敗した時、龍造寺隆信は更に山内の奥へ行こうとしました。
兵力に余力が無ければ思いついても実行は躊躇います。
おそらく隆信を守る本陣や旗本衆は、未だ無傷だったんじゃないかな~だって隆信は名尾峠じゃなくて三反田にいたんだもん。

http://blog-imgs-50.fc2.com/s/i/o/siori20120901/201307281343105fd.jpg

三反田から神代勝利の本拠地・三瀬まで8kmくらいで、実は割と道がハッキリしてるからジモティじゃなくても迷う心配はなさそうなんです。
だから攻撃すれば三瀬城は落とせたと思う。神代は目一杯動員してたはずだから、三瀬の守りも手薄だったはずなんで。

が・・・隆信のアイデアには重要な欠点がある・・・それは時間( ̄ω ̄A;アセアセ

北肥戦誌にも三瀬村史にも富士町史にも、細かい時間経過は書いてません。
(大元の出典と思われる)神代家伝記の方で、そこら辺りもワザと書かなかった可能性がなきにしもあらずです・・( ̄ω ̄A;アセアセ

10月16日早朝から行動したとして、名尾峠で決戦して大敗して、
その報告が届いて隆信 カチョ゙━━━(゚ロ゚;)━━ン!!は、時間的に午後12:00~14:00の間くらい。

龍造寺家臣一同「今から三瀬方面に進んだら、三瀬で夜になります~~・゜・(PД`q。)・゜・号泣

旧暦10月だから、もう初冬で日が落ちるの早いっす。山岳地帯の山内ならアッという間に真っ暗。
街灯なし道路標識なし舗装道路なしの戦国時代でBGMがオオカミか野犬の遠吠え・・(((((( ;゚Д゚)))))ガクガクブルブル

龍造寺隆信って慎重で疑り深くて凄い用心深いのに、反面、とてつもなくワイルド豪胆な所もあるんです(AB型だったりして,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!)
龍造寺家臣・涙目「三瀬方面どころか、今すぐ退却しないと日暮れまでに佐嘉に戻れませ~~ん!!!(;人;)☆オネガイ退却オネガイ撤退オネガイ帰還」

この恐怖に動じないのは、たぶん言いだしっぺの龍造寺隆信だけ・・・,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
さすがに旗本衆は崩れてないと思うけど、雑兵クラスなら既に逃亡しはじめてたはず。
「大敗した敵地の中で、日暮れになるかも」って事に気づいたら、もう恐怖のあまり足を止めるなんて無理。
恥も外聞もヘッタクレもない。ものすごーーーーい全力疾走で退却したんじゃないでしょうか^^;




戦の前、神代勝利は嫡男・長良に対し「待機」を命じました。
動く時は「パパ勝利の本陣が崩れた時」or「佐嘉勢にパパ勝利が勝利した時」のどっちか。
でパパ勝利曰く「佐嘉勢は負けたら、一段と用心して守りが固くなるから」「追撃するか否かは自分で状況判断」してね(^ -)---☆Wink(by三瀬村史・意訳)

勝利の嫡男・長良は非常に優秀で、そのくらいの状況判断は苦も無くデキル子でした。
結果として神代家が佐賀藩士として生き残ったのは、この嫡男の判断による所が大きかったくらいで、神代家伝記でも手放し(大人の配慮含)で褒めてるそうな。

で結果、嫡男・長良は1300の兵を擁しながら佐嘉勢追撃をしませんでした。
これは隆信を守る旗本衆が崩れず、かつ無傷だったからに他なりません。
追撃しても旗本衆の層が厚く、隆信の首をとるところまで肉薄出来ないと判断したんじゃないでしょうか。

もしくは、物凄い速さで退却する(と思う)佐嘉勢に、名尾峠反対側入り口にいた嫡男の兵が追いつけなかったかもです。
神代勝利の方は、手勢に損害が出てたのと、小河との一騎打ちで勝利本人が負傷してて(皆には隠してたそうな)追撃の余力がなかったようです。

この戦いで龍造寺隆信の首と獲れなかった瞬間に、神代勝利の戦国大名化の夢は消えました ショボーン..._φ(・ω・` )

冒頭にあげたように基本動員兵力に大差があっても、龍造寺隆信の首を撮れたら局面はガラリと変化し、様々な可能性への道が開くからです。

そして基本動員兵力に大差がある以上、山内に隆信を誘き出せなければ神代勝利に勝ち目はない。
「大軍を擁しても山内の中では神代勝利の餌食になるだけ」
この事実に改めて気付いた隆信は、山内を戦場にする事は二度とありませんでした。

龍造寺隆信は、神代勝利に与する周辺勢力を潰し、山内そのものを孤立させる事に方針を変えます。
そうなったら神代勝利が圧倒的に不利。

神埼・佐嘉・小城の三郡に跨る広範囲の山内を領する神代氏が守勢に回るということは

山内の各村落・館や城に一定数の守備兵を「常時」配置しておかなければならないからです


かつて天から舞い降りるが如く、神出鬼没・自在に平野部を攻撃してきた神代勝利の羽が無残にもがれようとしていたのだが、それは・またの話 by^-^sio

【讒言の報酬・前篇】龍造寺隆信「覇」の巻24

$
0
0

巻頭を飾るフラッシュは南洲さまから頂きました~ゎーィ♪ヽ(*´∀`)ノ


1558年が濃いです。(-ω-;)ウーン
というのも、いよいよ(今度こそ)少弐氏滅亡のカウントダウンが始まってるからなんです。
(以下、緑枠文字は北肥戦誌より抜粋)

10月16日、名尾峠で神代勝利に敗北した為、山内への手出しが難しくなった龍造寺隆信。
11月上旬、隆信は重臣らを集め、江上・神代の威を挫く為にも少弐を攻め潰すべく、勢福寺城攻めの用意をすべしと述べた。
江上・神代を倒すために少弐を攻めるって、少弐は肴のツマミですか,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
まぁ、彼らに大義名分を与えているのは「少弐の御家再興」ですから、元を断つって意味では正解です。

少弐を倒すって事は「主殺し」になります。
僧侶出身で教養ある肥前の熊は、そのあたりで躊躇してたんじゃないでしょうか。
龍造寺隆信は、後に与賀における少弐の痕跡を消してます。
つまり「後世から、どう見られるか」って事に対し、同時代・同世代人より敏感だったのでしょう。
隆信は少弐を潰すといいつつ、江上武種が守る勢福寺城を先に攻める事にした。

http://blog-imgs-47.fc2.com/s/i/o/siori20120901/2013020919445960e.jpg
隔して隆信は佐嘉の城を出陣、姉川弾正忠の城を本陣とした。
書ききれなかった姉川さんの姉川城は、勢福寺城のちょっぴり下流にある城です。
位置的に勢福寺城からみの戦では「必ず巻き込まれる」運命にあります(-人-)☆彡気の毒・・・
蓮池の小田政光、蒲田・崎村の犬塚鎮家・犬塚左馬大夫も出陣する。
犬塚は直鳥と西と東の三犬塚があるんですが、割愛します(-人-)☆彡チョット区別ガ、、、ゴメンナサイ
蓮池の肥前小田氏・・・龍造寺に散々敵対してたんですが、和睦して今は龍造寺サイド。
サイト武家家伝だと小田政光の妻が、龍造寺隆信の妻と姉妹~~とあったんですが、他では見当たらないので未確認です。
佐嘉勢の動きを知った江上武種は、山内の神代勝利に援軍を乞い、11月9日に神代は手勢を連れて勢福寺城に入ります。
城兵は二手に分かれ、山内・城原勢3000は牟田を、もう一手の2000余騎は神埼口を固める。
そんなに籠れるような規模の城だったか?,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
兵数盛り感はさておき、牟田口と神崎口が何処を指すのかイマイチ判らん。
とにかく現在の神埼市内で姉川~本告牟田の近所っぽい。
11月10日の朝、小田勢3000余騎に神埼の本告頼景が先陣として加わった軍勢は西の牟田口より、
犬塚の一族は蒲田・崎村勢1500余騎で東の神埼口より攻めた。
が、小田の先陣は討ち負け崩れかかる。
政光は隆信へ救援を求め使者を派したが、隆信は姉川城から一切動かない。
隆信本陣の姉川城は、神埼市神埼町姉川下分にあります。
小田政光が進んだ牟田口が、本告牟田方向を指すなら1km弱しか離れてません。
見晴しの良いところなので、先陣の小田がピンチなのは判ってたはずです。
その気になれば、じゅうぶん援軍が間に合う位置にいながら、隆信は動きませんでした。

援軍が来ない事に憤激した小田政光は「討死したるわ!!(# ゚Д゚)・;'.」と死に物狂いで打ちかかった

牟田口の小田と相対するのは神代勝利・山内勢と江上・城原勢。
小田は刀剣・槍の達人で、それが物凄い勢いで大暴れするものだから、さしもの神代と江上も手こずった。
「こりゃアカン、恰好良く討ち取るなんて無理!このままじゃ近づけない~弓だ!遠当てに狙うべし」

小田政光は四方から弓を射かけられ、それが当たり落馬。
政光は首を討ち取られたが、それを小田家臣が奪い返す!

・・・・血まみれで生首の獲り合い・・・怖いよ~(((((( ;゚Д゚)))))ガクガクブルブル
蓮池勢は政光の死を知り、敵陣へ駆け入り政光家臣60余人が討ち死にを遂げる。
犬塚勢も敗戦し退却した。
龍造寺隆信が動いたのは先陣が敗れてからだったのだが、それは・またの話 by^-^sio

【讒言の報酬・中篇】龍造寺隆信「覇」の巻25

$
0
0
もうちょっとでキリ番&ゾロ番ですよ~
にほんブログ村 地方・郷土史

>じゅうぶん援軍が間に合う位置にいながら、隆信は動きませんでした。

この行動について、後世では「残虐な龍造寺隆信が報復の為に小田を見殺しにした」と言われて来ました。
報復というのは、かつて小田氏が少弐冬尚に対して剛忠(家兼)を讒言してたからです。
それは熱血暴走家臣・馬場頼周が龍造寺潰しを画策するより前の事です。

少弐氏はピンチになると親子別々に逃げるという、滅亡回避スペックが高い家でした。
で、家督を継ぐ前の少弐冬尚の逃亡先が小田氏の蓮池城。
武力では龍造寺の力が必要だった少弐冬尚ですが、個人的に親しみを感じてたのは心細い時に支えてくれた小田氏だったでしょう。

土着ではなく、室町期に肥前に来て在地領主となった肥前小田氏にとっても、少弐のブッチギリ名門オーラが必要だったんです。
その小田氏にとって、次第に龍造寺が目障りになって来ました。
というのも龍造寺が川副や与賀といった河川流域に勢力を広げはじめたからです。

http://blog-imgs-47.fc2.com/s/i/o/siori20120901/2013020919445960e.jpg
あ!よく見たら小田の蓮池が蒲池になってる ガ━━━(゚ロ゚;)━━ン!!

ゲホゴホ・・特に小田が困ったのは佐賀江川の起点、河口港だった今宿が龍造寺勢力エリアになった事だと思います。
物資流通のライフラインが他人に握られるのは、戦国時代なら死活問題になりかねません。
それで小田氏は「少弐資元が自害に追い詰められたのは、龍造寺が大内に寝返ったからだ~」と少弐冬尚に吹き込んだんです。

龍造寺が大内に寝返った・・・という話の出所は、小田の讒言じゃないでしょうか。
で、ホントに寝返ってたか?となると、自分はNOです。少なくとも具体的な裏切り行動はしてなかったと思います。
ただ、、、ちょっと、、、主君(少弐)が衰退したのを良い事に、主君の領地(与賀と川副)の豪族・領民を、ちゃっかり手なずけちゃっただけ(?)です~(*´pq`)

こういった経緯から小田との和睦(実質は降伏)に対しても、龍造寺隆信は本心からなのかと、懐疑的だったのは容易に推測出来ます。
小田の方でも、龍造寺との関係強化には積極的ではなかったようで、特にコレといった記述は残ってません。

龍造寺隆信は、1558年正月の八戸宗暘攻撃にも、同年10月の神代との決戦にも小田勢は動員してないようです。
少なくとも北肥戦誌・三瀬村史・富士町史には、小田姓の者は登場してないです。
八戸城が神代との内通を疑われ(真相不明)攻撃したというのに、小田の方では従軍を願い出るでもなく龍造寺へ人質を出すような素振りはなく、何だか超然としてる印象を受けます。

隆信が小田の本心に懐疑的だったように、小田は小田で龍造寺が東肥前の覇者となるか否かと、まだ懐疑的だったんじゃないでしょうか?

それで少弐ゾンビ復活と神代巻き返しに備えて、龍造寺とはフェイドアウト気味に距離とってたのかな~と思ったんです。
小田政光の父・資光に関しては、単純に龍造寺に頭を下げるのが嫌だったイメージですけど(爆

http://blog-imgs-49.fc2.com/s/i/o/siori20120901/blog_import_5042c7a4b747b.jpeg

神代勝利に大敗した名尾峠での決戦。

龍造寺隆信が、その翌月の勢福寺城攻めの先陣に小田政光を起用したのは、小田家の本心を確かめるつもりだったと思います


自分は神代勝利単独の動員能力は、龍造寺の半分くらいと考察してました。
だって同程度の軍事力で龍造寺が大敗したなら、その時点で龍造寺サイドから少弐・神代サイドへ国人・豪族の寝返りがあるはずでしょう?
特に小田さんがフラフラします。元カレにしようか今カレにしようか~ってね(^ -)---☆Wink

その動きがなかったってことは、神代は単独で龍造寺と事を構えるだけの力はないって事の証左。
神代勝利が龍造寺に勝つには、名尾峠の時のように「龍造寺隆信を山内に誘き出す」か、「周囲の同盟者と組む」の二択しかないんです。

小田でも判ってるから、先陣として出陣したはずです。
でも上記の経緯から、純前たる龍造寺配下に気持ちがなりきれなかったんでしょう。

出陣したのは現役当主である小田政光。それは(・∀・)イイ!
でも過去に龍造寺を散々に讒言したパパ資光は出て来ない。モヤモヤしません?
政光の息子たちも従軍してない。本城である蓮池城でお留守番。嫡男は従軍して隆信に挨拶すべきじゃないこと?
他の国人配下が同じ事をしても気にならないかもだけど、小田がすると「龍造寺に未だ含むところが・・」て気分になる。

そこへ持ってきて小田からの援軍要請です。
隆信は自分の胃液を飲み込むような不快さを感じた事でしょう。
本来ならば新参の配下である小田は、今後を龍造寺配下として生きるための覚悟の出陣でなければならないんです。
であれば、どんなにキツイ戦場でも援軍要請なんて出せないはずです。
裏切りでなくとも、援軍要請は小田が龍造寺配下に成りきる腹が据わってない事の証です。

小田政光は隆信が己の援軍要請を無視してる事に気づくと同時に

龍造寺配下として生きるための覚悟を「衆目の中」で促された事に、いまさらながら気づいた・・・


武将として「戦場における覚悟」を「人から促される」って、とんでもなく恥ずかしい事です。
ここで負けて生きて帰ろうものなら、他の龍造寺勢たちから「嗤」「哂」の漢字を使われる嘲笑を生涯受ける事、間違いなし。
「ここで討死する!!・゜・(PД`q。)・゜・」って小田の決意は、むしろ当然の事です。

ここから先、小田が生き残るか討死するかは、小田本人の武運次第で、龍造寺隆信の関知するところではありません。
肥前小田氏の家運は、この先も紆余曲折するのだが、それは・またの話 by^-^sio

【讒言の報酬・後篇】龍造寺隆信「覇」の巻26

$
0
0

言い方を変えますね。

降伏した元敵将を先陣に使うのは、戦国時代では一般的に行われていたことです

新参者である元敵将は、先陣というハイリスクな持ち場を請け負う事で、新たな主君への忠誠の証とするんです。

その普通の事を龍造寺隆信が行うと、何故か「昔の事を根に持って報復した」とか「神代たちと噛みあわせて互いの勢力減退の為に潰しあいさせた」などと悪い方に解釈されます( ̄ω ̄A;アセアセ
龍造寺隆信の残忍・残酷という刷り込まれたイメージが余りにも先行しています。

今回の場合、重大な失態を犯したのは小田政光の方なんです

元敵将で新参の身でありながら「援軍を求める」とは、一体全体どういうつもりなんでしょうか。
同じ元少弐サイドの武将で先陣として従軍してた者の中で、ピンチでも援軍を~だなんて泣きつく武将は一人もいませんでしたよ。
小田の援軍要請は、配下としてヤル気を疑われるか、寝返りを疑われるレベルの大失態です。

ベテランだった小田は戦況を判断した上での援軍要請だったのかもしれません。
でも、それには余程の信頼関係がなければ受け入れてはもらえないです。
逆切れした小田が討死しましたが、援軍要請だなんて失態してなければ、他の武将のように普通に撤退出来たんです^^;
結果として捨て殺しになっちゃいましたが、その場にいた龍造寺勢は「タイミングの悪い奴や・・・」とか「空気嫁よ(´・д・`)」って感じで「仕方なかった」と感じたはずですよ。

http://blog-imgs-47.fc2.com/s/i/o/siori20120901/2013020919445960e.jpg
(すいません~小田の蓮池を蒲池と書き間違えてます・汗)

先陣が敗れたのを知った隆信は改めて大軍を率い、太鼓を早めながら城へと押し寄せた。
これには敵うまじと、江上は田手の日吉城へ引き籠り、神代は横大路を西へ、川窪へ廻って山内に帰還した。
(緑枠文字は北肥戦誌より引用)

両者とも素晴らしい逃げっぷりですな ( ゚Д゚)y─┛~~

江上がヒッキーした田手の日吉城というのが判りませんでした。
田手川自体は筑後川からの支流で地図には書いてないけど、神埼市内を流れてます。
(地図を作画した時は、田手がチョイチョイ出ると思ってなかった^^;)
田手川流域、現在は吉野ケ里遺跡~弥生人村の方が有名ですね^-^
神代の山内へ帰還した時に廻ったという川窪は、大和町川久保の事だと思います。神埼市の近所ですから。
隆信勢は勢福寺城を取り囲むが、残る城兵らの防戦により、数日城を囲み続けた。
北肥戦誌に記述はないんですが、どうも、この時、少弐冬尚は勢福寺城内に在城してたみたいなんです。
隆信は城を囲みつつ軍勢を分けて、15日に蓮池城を攻めさせた。
冒頭にあげたように、小田政光自身の失態が招いた事とはいえ、結果としては「捨て殺し」になってしまったので、小田氏では絶対に逆恨みするだろ~という見方が働いたからです。
不意を突かれた城兵は取り乱すが、政光家臣・深町入道理忠が防戦に努め、その間に政光の子小田鎮光・小田朝光・小田増光、その他の者達は城を脱出し筑後国は三瀦郡へ逃れる。


作画は橘朝臣幸麿さま、フラッシュ作成は南洲さまです~ゎーィ♪ヽ(*´∀`)ノ

蓮池城に残り防戦した深町理忠は、奮戦の末に討ち死にしました。
深町は、かつて隆信が当主の座を追われ筑後に亡命する羽目になった折、「自分の命と引き換えに・・」と隆信の身柄の安全を保証してくれた信義と忠義に篤い恩人でした。
深町の死を惜しんだ隆信は、深町の遺児に100町を与え「深町理」と名乗らせ取り立ててます。
小田政光の父・覚泒(資光)は蓮池城とは別の場所に居り、軍勢が去った後に政光父子の顛末を聞き、大いに憤激・悔恨したが、主従二人となり力及ばず、城の西にある蔵屋敷にて自害した。
一人従った従者は遺体を隠すと、その屋敷に火を掛けてから自害した。
主従二人となり・・・文学的表現ではなく、リアル実数で二人ボッチになったようです( ̄ω ̄A;アセアセ
戦に負けるって、現実はシュールです・・・( ̄ω ̄A;アセアセ

逃げた政光の子等ですが、後に許され隆信に仕えています。
残酷だ~とか、残忍だ~とか、いっつも言われる肥前の熊さんですが、むやみやたらに攻め滅ぼしてる訳じゃないんです。
そこんとこ認めてあげたって(´・д・`)

しかし、この小田氏とは様々な因縁が重なったために、どうしてもギクシャクしたままだったようです。
小田氏の方では「かつて少弐家臣時代は同格の間柄だった」という意識が抜けなかったんじゃないでしょうか。
また、小田氏自身が「少弐に讒言した過去を龍造寺が根に持ってるはず」という被害者意識があったかも。

小田を見てると国人領主が家臣化する事の難しさを感じます。
同じ国人でも石井氏や鍋島氏のように、龍造寺草創期に配下になったものは家臣化へのスライドが自然の成り行きで出来てます。

タイミングとボタンの掛け違いが、そのまま尾を引いた後味の悪さ・・・
なまじ一定の勢力を持っていたために肥前小田氏は、龍造寺氏の家臣には成りきれなかったのでしょう。
小田氏は嫡流は絶えますが、後に佐賀藩士として傍系が家名を残すのだが、それは・またの話 by^-^sio

【ふぉ~えばぁ~少弐・前篇】龍造寺隆信「覇」の巻27

$
0
0

さて、龍造寺勢は勢福寺城を囲み続け(1558年)12月1日に至ったが、
同月3日、河上実相院の座主・増純法印の仲介により、千葉・少弐・龍造寺・江上・神代による和議が調い、
起請文には「龍造寺山城守藤原隆信」・「神代大和守武辺勝利」・「江上左馬大輔大蔵武種」と3人の名を記し神名に誓うと、隆信は佐嘉の城へ帰還した。(北肥戦誌より抜粋)

えっと、まず河上実相院の座主・増純法印という人物から説明したいと思います。

以前に佐賀のブログ友と遣り取りしてた時の事。
シオ「川上社が肥前一の宮の割にパッとしないのは、神代勝利押しだったのが尾を引いたのかな~」
ブロ友「いや~実相院の方が力あったからじゃないですか~川上は川上で大事にはしてたようだし」
てな感じの遣り取りがあり、実相院の事は何となくシオの脳内に宿題として残ってました。

で、ブロ友様ビンゴ正解です。

この河上実相院の座主・増純法印が、江戸期の実相院隆盛の土台を作った、武家風に言う所の「中興の祖」です

さらに増純は神代家の縁戚であり、かつ肥前千葉氏所縁の人物でして、まさに此度の仲介の労を取るに打って付けの人物でした。

ちなみに江戸期に成立した北肥戦誌ですと河上実相院の座主ってなってるんですが、1558年当時は未だ座主じゃないです。
それだけ増純が河上実相院に貢献し、河上実相院の座主としてのイメージが強かったんだと思います。

この和睦時は蓮乗(れんじょう)院(嘉瀬町)の住持でした。
嘉瀬町には徳善院と蓮乗院の二つがあり、二つの寺院の住持は増純一族が務めてたようです。
で、増純の長兄にあたる人物が鹿江兼明の娘と結婚してます。

鹿江兼明は龍造寺剛忠(家兼)恩顧の人物ながら、何か不満があったらしく神代サイドになった人物です。
で、娘があり、一人が神代勝利嫡男・長良に嫁ぎ、一人が増純の長兄に嫁いだという訳です。
神代家は後に東千葉氏の系図を継承するので、増純は千葉氏とも所縁を持つことになります。

更に増純の上の兄が円城寺氏へ養子(円城寺伊予守)に入っています。
円城寺氏というと一般の戦国オタなら「龍造寺四天王」としての方が、未だ知名度あるかな?
円城寺氏は肥前千葉氏が下総から下向した時に随行したという譜代で、更に家老も務める家柄でした。

http://img5.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/cb/40/tokino_siori/folder/360567/img_360567_3214393_9?1348740847

1558年という、この年は川上社の荒廃を嘆いた増純が復興しよ~と決意した年です。
ちなみに神社としての川上社の大宮司は小城の千葉氏なのネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

増純は川上社・復興造営の為、米断ち&塩断ちをし、即身仏一歩手前で一心不乱の祈願した17日目に天啓を受けたと言われています。
この和睦時では天啓を受けた増純の造営運動が始まってたと思われるので、「有徳の僧」として増純の名は広まってた事でしょう。

話飛んで6~7年後~増純の尽力により、川上社は荘厳・壮麗に復興を遂げたんです。
が・・・1570年、キング大友家の焼き討ちに合い、あえなく全焼 ガ━━━(゚ロ゚;)━━ン!!
で、その時に実相院も戦火に合い、あえなくアボン  ガ━━━(゚ロ゚;)━━ン!!

焼野原の実相院(と川上社)を再々建したのが、1572年に35代目座主(川上社座主兼務)となった増純法印でした

前回、川上社を復興させたときのスペックと、増純個人の人脈をフル活用したに違いありません。
以前はもっと川上社に近い位置にあったらしい実相院を、現在の位置に移転したのも、おそらく増純でしょう。

僧侶としての見識もさることながら、復興の資金(寄付・献金)集めとか、かなりの政治力の持ち主だったと思われます。
そんな増純が若き日に関わったのが、上記にある和睦仲介でした。
たぶん、政治の裏舞台を知るのは、後年に役だったんじゃないでしょうか。

というのも増純が仲介した和睦は、某氏により反故にされたからです

起請文に記名したのは冒頭にある「龍造寺・江上・神代」の三名。
千葉・少弐・龍造寺・江上・神代も、それぞれに起請文を交わし、川上社に納めていました。

これにスッカリ安心・油断していた少弐冬尚。
さて、神様へ出した起請文を反故にしたのは、誰でしょう~それは・またの話 by^-^sio

実相院はサイト「さがの歴史・文化お宝帳」を参照
増純の出自は「肥前千葉氏のHP」を参照しました。

【ふぉ~えばぁ~少弐・中篇】龍造寺隆信「覇」の巻28

$
0
0

明けて1559年(永禄2年)
1月上旬、隆信は再び勢福寺城を取り囲む。
昨年の和議は偽りであった。(緑文字「北肥戦誌」より抜粋)
某氏とは~肥前の熊さんで~す。^^/ みんな正解したかな?
東肥前は敵も味方も2年連続で正月返上ですな ( ゚Д゚)y─┛~~

龍造寺と少弐の確執に詳しい方は、ここ「川上社」へ起請文を納めた事に、( ゚д゚)ンマッ!!と感じたでしょうか?
かつてあった、少弐冬尚と亡き熱血暴走家臣・馬場頼周による龍造寺(主に剛忠(家兼)係累)抹殺の陰謀。

その陰謀により龍造寺隆信の祖父・家純と祖父弟・家門更に叔父・純家が、ここ川上社で殺されているんです

陰謀により龍造寺一族は、バラバラの方角に別れ、個々に討たれてしまいました。
で、川上社で夜営した祖父と叔父一行30余名が、馬場頼周嫡男と神代勝利勢の夜襲を受けました。

えっと神域で夜営していいのか?って疑問は、とりあえず保留で^^;

肥前国一の宮・川上社は、当然のことながら軍事介入不可で、ましてや神域で殺生・傷害など言語道断!

保護していた肥前千葉氏(川上社大宮司)が衰退した為、川上社は往年の威光を失い「馬場+神代勢」を追い払うだけの力は無かったのでしょう。
社人もいたはずですが、実相院の方に避難してたかもです( ̄ω ̄A;アセアセ

襲う方だって神域を穢す事に内心では躊躇う者もいたはずです。
神代の山内勢は、こういうの嫌がりそうなイメージだなぁ~

でも「少弐氏御家再興」が全てにおける価値観の源泉である馬場頼周ならば、神域だろうが寺領だろうが殺る男です


http://blog-imgs-49.fc2.com/s/i/o/siori20120901/img_360567_4549205_2.jpg 馬場暗黒面イメージ画像

多勢に無勢に取り囲まれて、家純と家門と隆信祖父兄弟は戦死し、従者たちも殆ど討たれた。
叔父・純家は川上社の拝殿に駆け入ると己の指を切り、その血で社殿の扉に書きつけた。

山遠雲埋行客跡(山は遠くして雲は行客の跡を埋め)
松寒風破旅人夢(松は寒くして風は旅人の夢を破る)

叔父さまは詩心と教養があったみたいです。その後、純家は敵中に斬り込んで戦死。
龍造寺勢の遺体撤収と社殿・境内の血は、少弐家の方で処理したそうですが、龍造寺勢が少数ながら激しく抵抗した為に社殿が破壊?破損しちゃったそうです( ̄ω ̄A;アセアセ

実の所、一門個々の死にざまというか死に場所?には諸説あるらしいんです。
ですが、その殺害現場の一つが、この川上社だったのは本当だったみたい。

思うに、龍造寺隆信は一門が謀殺された場所だからこそ、和睦の舞台に選んだんじゃないでしょうか?

当然ながら後日、反故o( ̄Д ̄θ★ケリッ!にするつもりで、川上社を選んだ。

ドライな部分と迷信が混在している時代、「起請文を反故にする事」に対し、内心ではビビる者っているんです。
でも初めに禁忌を侵したのが少弐の方なのだから、その報復は正義のはずです。
と、言う感じで気持ちを持って行くことで、ビビる者たちも割り切れます。

隆信:やられたらやり返す。10倍返し上等!(`・ω・´)キリッ

ちなみに元天台宗僧侶だった隆信が個人的に帰依してたのは、曹洞宗。
和睦仲介した蓮乗院住持・増純は真言宗(ちなみに実相院も真言宗)で、宗旨的にトラブル心配無し。

http://blog-imgs-50.fc2.com/s/i/o/siori20120901/img_360567_4549205_1.jpg 隆信イメージ画像

起請文を反故って、龍造寺隆信が元僧侶だから出来たのかな~とも感じます。

僧侶という特殊な閉鎖社会で宗教界の裏も表も見てきた隆信は、宗教というものを政治的に利用するノウハウが肌身に沁みついているんじゃないでしょうか。
個人的な宗教心と武家一門総領として統治の為に利用する宗教・宗派というものを、スイッチのON・OFFのように使い分け出来る・・・ある意味で怖い危険なタイプ。
宗教にのめり込む大友宗麟とは対照的。
そういう点で、織田信長と龍造寺隆信は共通する感じがします。

陰謀を仕掛けた者と仕掛けられた者、殺人教唆犯と実行犯と被害者遺族。
殺害現場の大宮司家と、それらに所縁を持つ仲介した僧。

ドロドロの因縁・宿縁を持つ者同士が、血塗られ穢された神域で和睦する・・・

この恐ろしくも因縁めいた川上社に起請文が納められた事で、逆に少弐冬尚は完全に油断してしまったんです


和睦仲介の僧・増純・・・己が政治的に利用された事を、彼が最初から知っていたかは不明です。
当時は気づかなくとも、自分が必至で再興造営運動してる川上社に納めた起請文が、アッサリ反故&蔑ろにされた瞬間に、頓悟したに違いありません。

良くも悪しくも「為政者とは、宗教を利用する立場」にある者なのだ。
江戸期に隆盛した実相院・・・・その再建に尽力した増純は、この時の苦い思いを糧にしたのではないでしょうか。
川上社は一の宮として大事にしつつ、元々座主を兼務していた実相院の方に主眼を置いたのは、このあたりにあるような気がします。

城を龍造寺勢に取り囲まれた少弐冬尚・・・それは・またの話 by^-^sio
Viewing all 910 articles
Browse latest View live