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【肥前後藤氏・三~職明(しきあき)~】西肥前強化期間リサーチ7武家目


職明(しきあき)って名前、カッコ良くね? (人´∀`).☆.。.:*・
いつ戦国になるんだと思いの貴方。
文明年間は立派な戦国「初期」です(`・ω・´)キリッ




没落した?らしい?長島庄渋江氏ですが、いつの間にか本城である潮見城に復活してます。
ただ分家の牛島氏と相続で争ったりしてたので、その勢力は徐々に衰えていったそうです。

長島庄は現在、武雄町大字永島と橘町大字永島という行政区分になってます。
そこには地頭職である後藤氏、長島が本貫地の渋江氏、分家の牛島・中村がひしめきあう・・
と言いたいところですが、もともとが1517町という広大な領地が長島庄。

戦国初期における彼等の勢力エリアが、長島庄の何処をどう棲み分けしてたのか、素人には皆目わかりません^^;
なにせ渋江分家がいたはず・・牛島庄の位置も、どのあたりなのかイマイチ判明してないんです^^
少なくとも潮見神社のあたりは、渋江エリアだったでしょう。
渋江氏本城である潮見城と所縁がある神社ですから。

このころの六角川流域は、三つの勢力に狙われていました。
小城郡の肥前千葉氏、松浦氏、島原高来の有馬氏。
この三氏が、それぞれ勢力拡大を狙うので、六角川流域の国人は狭間で揉まれてました。
ついでに言うと、これに少弐VS大内が加わるので、ホントに大変だったと思います^^;

1483年(文明15)有馬晴純が産まれた年に、後藤職明、渋江公直、伊万里仰、大村胤明が攻守同盟を組む


渋江公直は男子がいなかったようで、(たぶん)弟の公勢が潮見城主を継いでます。
で、詳しい時期は不明ですが、後藤職明の娘と渋江公勢が結婚してます。
両家はエリアが近接してたと思われるので、複雑な肥前情勢の中で互いに協力し合う為の固めの婚儀と思われます。
さらに攻守同盟のうち、後藤職明、渋江公直、大村胤明の三氏が、
渋江氏分家である中村公継に藤津郡大草野(嬉野氏塩田町大草野)北部の土地を与えています。
このあたりの事情は判りません。
肥前中村氏は本家である渋江氏が衰退したドサクサに勢力拡大し、小城の肥前千葉氏に仕え家老にまでなってブイブイ言わせてました。
大内と組んで千葉氏の家督に介入し御家騒動まで起こしてましたが、その肥前千葉氏も東西に分裂。
東千葉氏に仕えた中村氏も、一時の勢力が嘘のように衰えていったそうです。
元々が譜代でもない余所者ですから、東千葉も追い出されたのか?,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
これが戦国後期に後藤家に仕えたという、中村氏の前身になるのかもしれません。

さて、六角川は肥前須古城で濃厚にやったので、後藤氏では黒髪山・黒髪神社を紹介したいと思います。
ちょっと長くなりそうなので、ここでブレイク、それは・またの話 by^-^sio

剣術家の丸目蔵人が、隠れキリシタンだった‼

びっくりトリビア~ン

昨年、とある方の好意で入手した相良関連資料。
パンフ類は確認し終わり(地図関連が特に助かりました)冊子の方を読み始めてます。

手持ちDATAと比較しながらなんで、一冊読むのに時間かかってたんです。

江戸初期のお下の乱から隠れキリシタンの記述になり、記事タイトルがエピソードとしてありました。

イエズス会宣教師の報告書にキリシタンとして丸目蔵人があるんだって~~

世間に出回ってる丸目関連DATAには、ないトリビアです。
年代は元和四年
報告者は宣教師カミッロ コスタンツオ

紹介するなら洗礼名も書いてよ~~
相良清兵衛にはキリシタンだった疑惑があるが、公式には取り沙汰されずマニアのネタにされてます。

もし隠れキリシタンがいても、
人吉藩は全力で封印しただろうから、文書類からの立証は難しいです。
相良関連は江戸時代に人吉で大火があり、一次史料が壊滅してるんです。

さらに御家騒動が多い背景もあるので、江戸時代編纂二次史料は、かなり精度が落ちます。

墓とか遺物から考証するしかなさそうだけど、気が遠くなる道程だ(;^_^A

びっくりし過ぎて支離滅裂ですいまん。
やっぱり相良って、面白いな(*^_^*)

【肥前後藤氏・四~黒髪神社~】西肥前強化期間リサーチ7武家目

のぼうの城とクロカン大河が始まる前にアップしちゃおう~
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黒髪山は伊万里市・武雄市・西松浦郡有田町の市町境に連なる黒髪山地の中心となる山です。
(黒髪山地以下縦列順~英山-前黒髪-黒髪山-見返峠-青螺山-青牧峠-牧の山-越の峠)

新日本百名山及び九州百名山の一つですが、標高516mと高さは程々。
それが歴史上で特別視されてきたのは、奇岩が多いので修験者が萌え・・・(._+ )☆\(-.-メ)チガウ!

ゲホグホ・・・奇岩があって古来から修験道の聖地だったからです。
特別だった証となるのが「黒髪神社(武雄市(旧山内町)」

上宮が約2千年前からあり、下宮が創建715年、肥前最古の神社

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鳥居は肥前鳥居なんだけど、一般的な肥前鳥居のよりスタイリッシュ?です
それはさておき、何故か末社に「聖徳太子社」があるのが珍しい。

いや一番珍しいのは参拝。「二拝三拍手一拝」なんです。
普通「二拝二拍手一拝」
出雲や宇佐「二拝四拍手一拝」
ですから、いかに珍しいかお分かりになると思います。

この黒髪神社には鎮西八郎為朝の大蛇退治の伝承があります。
この退治の時に為朝の弓を評定(確認)したのが、時の後藤氏当主・後藤高宗でした。^-^
後藤氏は平安時代から武雄の塚崎に土着してますからね(^ -)---☆Wink

ちなみに大蛇は為朝の弓で深手を負いながらも逃亡、そこへ偶々通りかかった盲目の僧・行慈坊が短刀でトドメを刺したそうです。
盲目の僧は異様な気配を感じて思わず殺ったのが「肥前国有田郷の白川の池に棲んでた大蛇」と知ると、
「やべ!まさかの神の使い?」(((((( ;゚Д゚)))))ガクガクブルブル
とチキンハートになり、神の祟りが起きないようにと「大蛇が悪事を働いたので退治したんです」
って言い訳・・・もとい、縁起を伝承したそうです。

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(黒髪神社のエース狛犬は子持ち)

この黒髪神社の大宮司家が黒髪氏。
どうも武士化してたようで、後藤氏の配下だったみたいなんですが、さすがにコアすぎて黒髪氏データは入手できませんでした( ̄ω ̄A;アセアセ

その黒髪氏と後藤職明に関する史料が残ってます。

明応5年12月、黒髪右京亮家俊が黒髪神社大宮司職を継ぐことにつき、職明が与えた允許(許可)状が黒髪神社に残っているそうです

つまり大宮司・黒髪氏が領する黒髪神社・神域エリアは、後藤氏の影響下にあったということです。
ここで再確認してほしいのは冒頭の黒髪山の位置です。

黒髪山は山ですから、武雄市だけでなく、伊万里や有田町にも跨ってます。
当然、松浦党伊万里氏も聖地・黒髪神社に所縁がありました。

実は伊万里氏は後年になって龍造寺に敗れた後に、武雄・後藤氏を頼って逃げ込んでるんです。
後藤氏が伊万里氏を拾い上げ援けたのは、前回紹介した攻守同盟との縁が初めてではなく、
そもそも肥前最古の神社・黒髪神社を通じて、そうとう古くから後藤氏と接点があったからだと思います。
(神社の祭事や大宮司第代替わり神事で絶対鉢合わせする)
伊万里氏が武雄に逃げる時の山越えコースは、上記縦断コースのいずれかを通過してるはずです。

なぜ黒髪神社を一話使うかと言うと、与賀郡における与賀神社のように、武雄周辺の人々にとって黒髪山と黒髪神社は、大切な大切な聖地だったからです。
それを支配下に治めていたのですから、「武雄の後藤」が如何に勢力ある国人領主に成長していたかをお察しください。
他に黒髪山の法印であった頼憲には跡を継ぐ候補が2人あったが、
跡継ぎの選に漏れた片方が頼憲に恨みを抱いて「頼憲は有馬貴純と通じて職明を調伏した」との噂を流し、
それを信じた職明が頼憲を矢で射殺しそれにより祟りがあったとの話が伝わっている。
(ウィキペディアより)

ウィキペディアの編集者が微妙に不親切な件~
この場合の黒髪山の法印は寺社でして、黒髪山大智院西光密寺(武雄市山内町宮野黒髪山)のことです。

ただしウィキペディアは間違いじゃありません。
職明の時代は寺も神社も神仏習合してたからです。
おそらく末社の「聖徳太子社」も、神仏習合の名残でしょう。
明治になって、寺社と神社が分離され、現在の形になりました。

肝心の祟りですが、黒髪山大智院西光密寺のHPにもなくって判んなかったil||li _| ̄|○ il||l
とにかく黒髪山に関しては神域・寺社エリア、共に後藤氏の支配下だったって事です。
で、法印に選ばれず逆恨みした方が「有馬貴純と通じて」って事は、後藤は有馬と敵対関係だったという事。

後藤職明には男子がおらず、渋江公勢に嫁いだ娘が生んだ(=外孫)純明(すみあき)を養子に迎えたのだが、
それは・またの話 by^-^sio

(画像はブログ友様から了解を得て拝借したものですので、二次配布禁止です。)

クロカン大河、1回目

関東の方は視聴率苦戦してたみたいですね^^;

自分の正直な感想は・・・・・・・・・・・・・・・・・「微妙」です^^;



もともと播磨の戦国史は詳しくなくて、脳内イメージは司馬先生の「播磨灘物語」です。
「黒田家譜」も全部読んでるわけじゃないので、どこまでフィクションで、どこからが出典あり逸話なのか判断できない^^;

ただ戦国的にアレは変、コレは変って感想はあるにはあったんです。
で、それを書こうと意気込んでましたら、ふと某サイトで見かけたセリフ。

「黒田官兵衛ってキリシタンだったんですね~知らなかったです」

え!(゚ロ゚屮)屮 そこからなの?とビックリ。

三傑で特に秀吉メインのドラマや大河では黒田官兵衛は必ず・・・と言って良いほどでます。
先日の三谷監督の「清州会議」にも(・∀・)イイ!味出してました。

でも言われてみれば、これまでのドラマでキリシタンとしての官兵衛がクローズアップされたのって、あんまり無かったかも・・・
世間一般における「黒田官兵衛の知名度(中身も含めて)」が不安になったので、今のところは論評を控えて、生温く見守りまつ・・・|大河|_ ̄)じぃー


ただ福岡藩・藩祖マンセーだと、嫡男の長政は「戦バカの残念な子」扱いされそう (゜-Å) ホロリ
城井一族抹殺が出たとしても、長政と家臣が勝手に殺った事にされそう  (゜-Å) ホロリ


やっぱ自分としては、九州に絡んでない頃のクロカンは「よく知らない人」なんで・・・(爆

途中がどうであれ(←おぃ)九州の関ヶ原でクロカンの活躍が見れたら(・∀・)イイ!

石垣原の戦いで吉弘加兵衛を出してくれ~(-人-)☆彡オネガイシマス

早く来ないかな~クライマックス・・・(._+ )☆\(-.-メ)マダ1回目!

なんだかんだと毎週日曜を楽しみにしてます^^
もちろん録画して最低2回見るのは、「江」や「天地人」と一緒^^

最後に一つだけ・・・長政はオンチなんだから、番組中でミュージカルはやめてネ(´・д・`)

感想1★中世後期における国人領主と地方寺社ー肥前千葉氏と「公権」の構造

如水ヒストリアをチラ見しながら、肥前千葉を読む・・・(*´pq`)
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ここ最近、自分が密かに悩んでたのは「自分の肥前戦国史知識」が、「どの程度のレベルか判らない」って事でした。

手前味噌ですが、肥前戦国史に関してだけであれば、自分より詳しいブログは見た事はないです。
(肥前千葉から始まって、通史みたいに全部ヤル系がない)

でも、各地域・個々の武家となると、自分より詳しい系HP・ブログは、たくさんあります。
道産子の自分の周囲に「同好の士」があろうはずもなく、今更ながら知識面で「ぽつーーん・ぼっち感」が・・・(´;ω;`)ウッ

もや~ん、としてたところに入手したのがアレコレ論文とか専門書とかとかでした。
で、どうやら自分は、肥前戦国史に関して(のみ)「研究者のガチ論文」を読んでも、内容を理解するのに全く困らない程度のレベルにはあるみたいです(=^・ω・^=)v ブイ

出典元を見れば一次史料か二次史料か見分けがつくし、
神社仏閣なら、主だったところは由緒から住所まで知ってるし、系図は自作するほどなんで当主の名前で年代は大体判ります。
ただ、それが「素人なら凄い事」でも「郷土史研究者なら、当然の基礎知識」になるのか、
やっぱり自分では判らないんですけどネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

とにかく今は、一次史料を典拠とする論文を読んで「知識欲」が満たされて幸せでつ・・・川* ̄д ̄*川ポッ

で、結論から言うと、すっごい面白かった!ゎーィ♪ヽ(*´∀`)ノ~~~感動を忘れない内に感想なぅ


肥前千葉氏は東国御家人として肥前に土着した一族。
探題でもなければ守護でもない。それが「肥前国主様」と仰がれるほどの栄華を誇った。
肥前千葉氏が、いかに支配力を手に入れたかを河上社を通じて論証されてます。

自分でも肥前千葉と河上社の関係がキーになると感じてたので(でも素人なんで論証出来ない^^;)
何というか「自分の考え裏付けでくれて、ありがとう!」な気分です(←図々しくてスイマセン)

文章だけじゃ退屈ですね~よっこらせ~
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肥前千葉氏、略系図

系図でいうと肥前千葉氏・栄華の土台キーマンは、5代目胤泰になります。
宮島氏の論文は、一次史料が典拠で論を構築されてるので、説明を省かれたのだと思いますが、
肥前千葉氏が本当の意味で肥前に土着したのは、5代目胤泰からです。

それまでは「打倒・下総千葉氏」「返してよ!宗家の座」で、肥前千葉氏は本貫地である下総千田庄と肥前小城を行き来してたんです。
南北朝争乱期に入り、離れた土地の両方を維持するのが大変だったのか、他の要因があったかは不明ですが、とにかく肥前千葉は「肥前土着組」と「本貫地に残る組」に分裂します。

それが「肥前(小城)千葉氏」と「千田庄千葉氏」です。
「打倒・下総千葉氏」は、「千田庄千葉氏」が真正・宗家として引き継ぎました。

2代目胤貞と5代目胤康は異母兄弟なんですが、パパ初代が若い頃からハッスルしたらしく、兄弟は親子ほど年の差があったそうです。
そのため胤康は兄である胤貞に養育されました。
2代目胤貞は、本貫地・千田庄を嫡流として我が子(長男・次男死亡の為、三男)に継がせ、肥前小城は傍系として実弟である胤康が継いだという訳です。

論文を読んで得心したんですが、肥前千葉氏が「河上社大宮司職」をゲットしたのは、この5代目胤康の代(文献に登場する)のようです。
で、肥前千葉氏が「領地宛行状(安堵状)」を発給し始めるのが、5代目胤康の当主期間である応永年間(室町時代)。

くどいようですが肥前千葉氏は探題でも守護でもない。
にもかかわらず、こうした「安堵状」を発給するに至るのは、九州探題・今川了俊の解任がキーになってました。

いま現在、興奮と萌えで'`ァ'`ァ'`ァ(;´Д`)'`ァ'`ァ'` してるのは、感想を書いてる自分だけだと思うのだが、それは・またの話 by^-^sio 

感想2★中世後期における国人領主と地方寺社ー肥前千葉氏と「公権」の構造ー宮島敬一著

自分は歴史記事を書くためのリサーチは、年代をガンガン遡ります。
因果関係のキーとなる≪始まり≫を、どの時点にするか自分なりに推論を構築するためです。

それで経験的に感じた事は「戦国史を真に理解するには、中世史(室町期)の知識が必要になる」です。
さらに中世を真に理解するには、ほんとう~~は、鎌倉期の知識がいるわけで、キリねーよ!(涙目)
で、素人の脳みそではパンクするので、最低限として室町期で、何とか踏みとどまるわけです。
(でも一応、関連武家の鎌倉期はザックリとチェック入れます)
(ちなみに武雄の後藤は平安後期までマーキングが必要だった(´;ω;`)ウッ←声にならない)

さて、感想続く・・・内容に関してはシオ流に超意訳してます(爆
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河上社が気になる気になる・・・だってだって♪だってだって♪「肥前国一の宮」なんだもん♪

古(いにしえ)より日本国において、一年の計は神事に始まり神事に終わる

権威ある神社の神事においては、敵も味方もなくHKB(肥前・国衆・ベスト)メンバーが勢ぞろい~

室町期、有馬も龍造寺も河上社の神事の為なら、ご一緒に~レッツ流鏑馬(`・ω・´)キリッ


てことで、権威ある神社の支配構造ネットワークを、そっくり頂いちゃった方が、
「近隣の領地に侵攻して切り取る」てな地道な労力を使うより、遥かに大きく勢力を広げる事が可能になる。
それほど神社(仏閣も含む)というのは、武家から領民、全ての生活に密着してたんです。

自分が肥前戦国史の記事で、肥前千葉氏が川上社の大宮司だった~~って事に注目して書いてたのは、
河上社の支配構造ネットワークが、肥前千葉氏の手中にあった事を意味してたからなんです。
素人の自分では、だろうな~って推測しか出来なかったのを、宮島先生は史料を元に検証されてるわけです。^^

注目しなければならいないのは、千葉氏の安堵したのが「当知行」だと言う点です。
本来の知行(領地)安堵は、所有の証となる証文を持つ者に安堵されるべき・・・なのですが、
まぁ時代が下れば色々と乱れて来るのが世の常・・・( ̄ω ̄A;アセアセ

過去の所有権ガン無視、今現在、知行(領地)に居座り・・ゲホゴホ
・・今現在の「占有者」に安堵される領地が「当知行」です。

経緯はともかく、本来の所有者がいたはずの土地を「いま占有してるんだから、お前のもので良いよ~」
と安堵してもらえるのだから、肥前千葉氏から安堵されは側にとって「御恩」であり、
「御恩」を受けた者は肥前千葉氏の被官(家臣)となる訳です。

で、ここで思い出さなければならないのは、肥前千葉氏は探題でも守護でもないって事です。
「知行」だろうが「当知行」だろうが、「安堵状」を発行する資格を有するのは、探題職か守護職なんです。

さらに言うと、河上社の神事や建物の造営・補修に関する事の命令権者も、探題職であり守護職なんです。
そこが、その辺の神社と一の宮と呼ばれる神社の差。
だから大宮司の地位をゲットしただけでは、河上社の支配構造ネットワーク全てをゲッツまでは出来ない。

肥前千葉氏は、命令権者だった九州探題・今川了俊と、その弟で肥前守護職だった今川仲秋が、肥前を離れ駿河へと帰還した時に、河上社に関する権能を引き継いだんです。
だから河上社・社領に関わる小城郡・佐嘉郡が、そのまま肥前千葉エリアへと染まっていったわけです。

で、またまた忘れちゃ(・A・)イクナイ!!
というのが九州探題職&肥前守護職は、今川了俊の後任に抜擢された渋川氏だって事なんです。

ところがですよ・・・肥前においては

肥前千葉氏>>>>>>>>超えられない壁>>>>>>>>九州探題で肥前守護の渋川氏

だったみたい^^;
渋川氏は最盛期の当主・教直ですら、活動範囲が三根郡・杵島郡・神埼郡のみ。
教直パパの満直にいたっては書状しかなくて、安堵状を発行したことがないんですって。。( ̄ko ̄)

ふ・・・腹筋が地味に揺れる・・・
陰が薄いとは思ってたけど・・・安堵状を一度も出した事ない探題職って、力なさすぎ(爆

もともと渋川氏では「探題職&守護職」には実力不足と危惧されてたんですが、
ここまで影が薄くなった一番の要因は、少弐VS大内の巻き添え食った事です。

宮島先生の論文で初めて知った事なんですが、
少弐氏が一時、本拠地としてた佐嘉郡の与賀と川副は、室町期は渋川氏の領地だったんですって( ゚д゚)ンマッ!!

てことは、何かい?
少弐資元は、渋川氏の領地だった土地(川副千町)を、龍造寺家兼ジーちゃんに与えちゃった事になるってか,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

もっとも鎌倉時代だと与賀郷は少弐氏が地頭だったわけで、
少弐にしてみれば大内の庇護?保護を受けてる渋川氏を、九州探題&肥前守護とは毛筋ほども認めてなかったのだろう。

話戻って、肥前千葉氏が「河上社に関する権能を引き継いだ」のは、一足飛びにゲットしたのではなく、
完全に掌握するには数代要した。
でキーになのが、100年ほどしか歴史がないのでコア扱いの肥前今川家なのだが、それは・またの話 by^-^sio

感想3★中世後期における国人領主と地方寺社ー肥前千葉氏と「公権」の構造ー宮島敬一著

感想と言いつつ、密かに自分の過去記事チェックも兼ねてたりする(爆
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基礎知識1)よく私たちが言う「神主」という職業はありません。正式には「神職」です

基礎知識2)「神職」の中に「宮司(ぐうじ)」があります。更に細かく階級あるけど省略^^

基礎知識3)寺社仏閣のトップを「座主(ざす)」と呼びます(宗派によっては違う呼称あり

基礎知識4)明治以前まで、日本では神仏習合(神道と仏教がマゼマゼ~

それでは上記・基礎編を踏まえた上で・・・

江戸期に権勢を誇った河上実相院の座主と肥前国一の宮河上社の座主は、兼務でした

従って、河上社の研究には、実相院文書チェックが必要で、逆に実相院の研究には河上文書チェックが必要になります

もちろん宮島先生の論文には、参照文献として実相院文書があります。

で、個人的見解なんだけど、河上社の支配構造ネットワークには実相院も絡むんじゃないかな~と思うんです。
宮島先生の論文は河上社と千葉氏の関係のみに焦点を絞ってるんで、実相院に関しては安堵状関連にしか触れてないのよネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

地味トリビア)徳川家康の正室・築山殿(今川義元姪)は、稀代の名将と謳われた今川了俊系譜の姫君でした^^b



さて鎌倉時代地頭だった肥前千葉氏は、国人衆たちに訴訟問題があると、当事者と共に政所に出向き裁定を仰いでいました。
南北朝争乱~室町期に入ると、鎌倉時代の体制は崩れるので、地頭の権能はアボン~~

ですが肥前千葉氏は河上社の大宮司職に就く事で、再び肥前国人衆との濃い繋がりが出来ます。
何故なら、一番偉いのは座主(基礎知識3)でも、実際に神事や祭事に関する実務を担い国人衆と遣り取りするのは大宮司だからです。
「大宮司」の地位がキーになるというのは、そういう事です。

東国御家人だった肥前千葉氏は河上社の大宮司になることで、完全に肥前へ土着することに成功しました^-^
シオが肥前に本腰入れて土着したのは五代目胤泰からだ~と繰り返し記事に書いてたのは、その為です。

一方、九州探題・今川了俊(兄)と肥前守護・今川仲秋(弟)は、駿河衆。
大内氏の支配も嫌がった肥前国人衆です。
他国者である今川兄弟から、肥前国一の宮・河上社の支配構造ネットワークを握られ、それを通じて支配される事に、モヤモヤしてたようです。

今川了俊・仲秋兄弟が駿河に帰還したことで、
大宮司とはいえ探題でも守護でもない肥前千葉氏が河上社の支配構造ネットワークを手にする事に肥前国衆からのクレームがないのは、
それが他国人から国衆へと、河上社の支配構造ネットワークを取り戻す事になるからです。

ただし、この時点では完全じゃない。
駿河衆は全員が帰還した訳でなく、肥前に土着した肥前今川家がいるからです。
肥前今川家は系図にあるように、5代目胤泰の孫・国秋が祖になり、肥前千葉氏の保護下にありました。

了俊と仲秋の系譜を引き継ぐ肥前今川家がある限り、河上社の支配構造ネットワークを全て引き継いだ事にはならない。
でも頼られてる以上は保護しなきゃならないのが、力ある領主の辛い所。

その力ある肥前千葉氏が最初の分裂ピンチを迎えたのが、7代目胤鎮の時。
大内氏が胤紹を担ぎ出し、家督を簒奪したんです。
西国のドンにぬかりはない。
胤紹は大内氏のバックアップで室町幕府から当主として公式に認められ8代目としてカウントされます。

既に記事にしてるので、経過すっとばして、とにかく胤鎮がリベンジで挙兵。

その7代目胤鎮VS8代目胤紹で、今川国治が胤紹サイドでした


まいがぁあああああああああ!!今川国治ネタを肥前千葉氏編に盛り込むの忘れてたぁぁ~

ちゃんとリサーチしてたんですぅううう
グーグルで今川国治を検索すると、シオの過去リサーチ記事がTOPに出てる件~(´;ω;`)ウッ
https://www.google.co.jp/search?sourceid=navclient&hl=ja&ie=UTF-8&rlz=1T4AURU_jaJP499JP499&q=%E4%BB%8A%E5%B7%9D%E5%9B%BD%E6%B2%BB

うぅっ、せっかく下調べしてたのに~~~自分のバカバカバカバカバカバカバカバカバカバカバカバk@★♪グギグ
宮島先生の論文を読むまで完全に忘れてたでつ ・゜・(つД`q。)・゜・
萌えと興奮と、ぐやじざで~、論文を初めて読んだ当日は2時間しか眠れんかった~~~
(こういう事があったんで、感想記事を書かなきゃと思った次第でして・・)

ゲホグホゴホ・・・スン(鼻水かみかみ)・・・この胤鎮リベンジ合戦で、今川国治は戦死し肥前今川家は一気に衰退。
千葉胤鎮は、河上社の支配構造ネットワークを完全掌握(=^・ω・^=)v ブイ
肥前千葉氏最盛期の当主となり、肥前国人衆から「肥前国主様m(__)m」と仰がれたのでした。
ちなみに肥前今川家が持永家として、肥前千葉家臣の列に入るのは11代目胤朝の代です^-^

前回書いた探題領・佐嘉郡の与賀と川副ですが、肥前今川領でした。
今川衰退と共に肥前千葉氏がゲット。
そこへ少弐氏が居座ったあげくに、一部(川副千町)を龍造寺剛忠(家兼)に与えたという流れ^^b

さて、論文の感想はここまでで、次は論文を読んだ上でシオ推測なのだが、それは・またの話 by^-^sio

考察1★中世後期における国人領主と地方寺社ー肥前千葉氏と「公権」の構造ー宮島敬一著


で、論文を読んだ上での自分の推論・考察です。

渋川氏が探題職として影が薄く、最終的に没落滅亡しちゃうのは、少弐VS大内に巻き込まれたのが一番の理由だと思います。

更に、探題なのに小城郡・佐嘉郡に食い込めなかったのは、やっぱり河上社が保持する支配機構を肥前千葉氏に握られてたのが、大きく影響してたと思います。

というのも、河上社の権威の根拠は肥前国一宮というだけでなく、国衙(こくが=政庁)機能を有していたからです

従って河上社の造営・補修・神事の全ては、現代でいう所の県指定公共事情(入札なし指名業者)。
(政教分離的発言は不可、そういう時代なんです)

九州探題だった今川了俊は、河上社の持つ国衙機能を通じて肥前国人衆に領地安堵して、領国支配してました。
今川了俊ら駿河衆帰国後に、河上社・大宮司として、それらを引き継いだのが肥前千葉氏です。

河上社・大宮司として、河上社の国衙(政庁)役人だった肥前国人衆は、そのまま肥前千葉氏家臣団へと組み入れられました。
(宮島先生の論文では代表例として於母氏、安徳氏、鎰尼氏に触れてます^-^)

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http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/e/eb/Yodohime-jinja_01.jpg/280px-Yodohime-jinja_01.jpg

ウィキペディアより河上社画像

さて肥前には河上社の他に、「もう一つの肥前国一宮」がありました

それが神埼荘(現:みやき町)にあった千栗(ちりく)八幡宮です


とうぜん河上社と千栗八幡宮は不仲です。
「どっちが真正・肥前国一宮か」って事で元和年間と寛永年間に訴訟沙汰になってます。

で、結論が・・・シオレベルじゃサッパリ判りません~~~~~il||li _| ̄|○ il||l
今回読んだ宮島先生の論文でも千栗八幡宮には触れてない^^;

具体的な事が全く判んなかったので、記事に盛り込みようがなくって、肥前千葉氏編でも龍造寺編でも全力でスルーしました,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

ただ千栗八幡宮も、龍造寺や鍋島などに大事に保護されてるんです。
龍造寺と平戸・松浦氏と交わした起請文には「当国鎮守千栗八幡菩薩」と書かれてるくらい。(出典「龍造寺家文書」)
それだけに河上社と千栗八幡宮と、どっちの立ち位置が上だったのか~てのがサッパリ(@@)

で、判んないながらもボヤンと推測できる部分だけで言いますと、

河上社の支配構造ネットワークと、千栗八幡宮の支配ネットワークでの、対立があったみたいなんです

と、言いますのも千栗八幡宮は、宇佐八幡宮・別宮だからです


どちらも古くからある神社ですから、信仰の対象として人々から尊崇を集めていたのは言うまでもありません。
ですが領地とか権利関係の支配が絡んでくるとなると、信仰心とは別義でござる(`・ω・´)キリッ

河上社大宮司・肥前千葉氏を主君として仰いだ肥前国人衆は、
宇佐八幡宮からの支配を嫌い、水神信仰からくる土着の神と国衙(政庁)機能を支持した人々です。

神埼荘を本拠地とする渋川氏が勢力をつけるということは、同じく神埼荘にある宇佐八幡系・千栗八幡宮の影響力が広がるということになります。
河上社大宮司である肥前千葉氏が、探題・渋川氏と一線引くのは当然の事です。

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http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/1/11/ChirikuHachimang%C5%AB_Haiden.JPG/280px-ChirikuHachimang%C5%AB_Haiden.JPG

同じくウィキペディアより千栗八幡宮画像

オタ記事に付きあわせて、本当にすいません。
でも記事にしとかないと、自分でも整理つかないんです(-人-)スイマセン

ぶっちゃけ、自分でも此処まで詳しくなるつもりは無かったんです^^;
肥前戦国史(だけ)やるつもりで始めたのに、今じゃ中世史まで片足突っ込んでます^^;
でもって地形の変遷から歴史をリサーチすることにも片足(右か左かは知らんがな)突っ込んでます^^;

九州郷土史を調べる事は完全にライフワークになってます。
もはや趣味のレベルじゃないと、そろそろ(やっと?)自覚・・・( ̄ω ̄A;アセアセ

で、河上社と肥前千葉氏に注目する人なら、絶対に浮かぶ疑問があります。
肥前千葉氏が西と東に分裂した時に、河上社大宮司職はドッチだったの?
てことなのだが、それは・またの話 by^-^sio

考察2★中世後期における国人領主と地方寺社ー肥前千葉氏と「公権」の構造ー宮島敬一著

ほんとにすいませんm(__)m
もうちょっとで脳内整理終わります~~~スルー可です( ̄ω ̄A;アセアセ
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河上社と肥前千葉氏に注目する人なら、絶対に浮かぶ疑問があります

肥前千葉氏が西と東に分裂した時に、河上社大宮司職はドッチだったの?です


これはシオレベルでは、何としても判らなかったんです。
手持ちの北肥戦誌データ、各種WEBサイトでも、そこまで踏み込んだものは無かった。
これはもう完全に研究者の論文待ちの世界。(宮島先生の別稿って発表済かな?)

で、二次史料、三次史料に垣間見える部分から、無理矢理に推測するに・・・
河上社大宮司職は東千葉氏だったんじゃなかろうか・・・です。

肥前千葉氏嫡家は西千葉氏なんですが、東千葉初代・興常に敗れちゃって、本城である牛頭山城を東千葉氏に奪われちゃってるからです。
または大宮司職は空位。
河上社のトップである座主が、東にも西にも「いい顔」してた可能性も否定できない^^;

んで河上社が有してた国衙(こくが=政庁)機能ですが、おそらく戦国まっさかりでは機能不全状態だったと思います。
何度も戦火にあって、社殿も壊されちゃてるのネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

自分が国衙(政庁)が機能不全と推論した根拠は、蓮華院住持・増純の存在です

蓮華院住持・増純・・・後に実相院座主となって実相院を中興させた実力者

その増純は、肥前千葉氏宿老・円城寺氏の一族です。
円城寺家では徳善院と蓮華院と二つの寺院へ、一族から住持を歴代輩出してました。
ちなみに龍造寺四天王・円城寺信胤は、この円城寺庶流なのネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

んで、増純は河上社の荒廃を嘆いて、復興運動を始めてます。
考察1で話したように、河上社の維持経費は本来は公共事業みたいなもんだから、それが機能してたら雨漏りすら放置なって有り得ない話なんです。

増純さんの苦労バナは記事にしてるんで割愛、機能復活は龍造寺隆信が安堵状を発給するようになった以降でしょう。
当然、河上社の支配機構ネットワークは龍造寺のモノ。
龍造寺の家臣となった西千葉氏当主・胤連が、河上社大宮司になってるのだけは確認とれました。
(参照:大和町史、元出典:実相寺文書)

んで、またまた個人的推測なんですが、機能も建物もボロボロだった河上社は、山内豪族頭領だった神代勝利公の保護下にあった・・・ぽいんです

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http://blog-imgs-49.fc2.com/s/i/o/siori20120901/20130113151825b3b.jpg
神代勝利公イメージ画像
これは北肥戦誌と三瀬村史をガン見して比較して出した推論で、一次史料による考証は素人なんで勘弁^^;

まず最盛期の神代勝利公エリアには、河上社(大和町)がスッポリ入ってます。
龍造寺隆信VS神代勝利公の川上合戦では、動員の段階で神代勢が不利でしたが、河上社は神代本陣に神域を提供してます(もしくは勝手に使っててもノンクレーム)
神代勝利公が亡命先から山内に復活した際にも、河上社の社人が逸早く差し入れしてます。

まぁ、ここまでは推論にするには弱すぎる根拠ですが、

自分が判断の決定的な決め手にしたのは河上社の西門寄進(1573年)です

出典は上記の(参照:大和町史、元出典:実相寺文書)

寄進の棟木(写)によると、
座 主:省略
大宮司:千葉胤連
願 主:蓮華院住持増純
大檀那:龍造寺政家、神代長良

神代長良は、神代勝利公の嫡男です。
大檀那ってことは今で言う所のスポンサーで、お金は龍造寺家と神代家が出しましたよ~って事です。
この頃の神代家は、まだ佐賀藩親類になる前。
長年敵対してたから和睦の証とかにしても、神代家が河上社に何らかの所縁があるからの寄進のはずです。

自分は、神代勝利公・長良公親子は、タイミングと諸要因が上手く行ってれば「戦国大名」になれる可能性を秘めてたと推測してました。

その推測の中の一つが三瀬村史(ベースは神代家伝記)には書かれていない「神代家と河上社の所縁」です。
神代家は筑後国一宮・高良大社に仕えてた武家でしたし、当時の人間ですから河上社の国衙機能に気付いてないはずありません。

てかシオの推測が事実なら、神代家側では絶対に記録として残せません^^;
何か企んでたっぽく解釈されたらアウトですもん^^;

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イメージ 1


ということで、シオが自分の推論の正否を確かめるためには、
一次史料というアルプスかエベレスト級の、高ぁ~いハードルが聳え立ってます(´;ω;`)ウッ
何しろ道産子ですから、入手事態が困難です(´;ω;`)ウッ
あっても専門書なんで高額・・・il||li _| ̄|○ il||l


いや・・・それ以前に問題なのは、古文書の読解力ゼロってところです,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
どんな高額専門書をゲッツしたところで、今のシオには宝の持ち腐れになりかねません。
下手すりゃ解釈ミスって、あらぬ方向に迷っちゃいます。

そういう訳で、シオはもっともっと研鑚して、基礎知識の底上げしなきゃなんです。
てことで今回入手した古文書学入門書で精進します(-人-)☆彡

以上、感想と考察と決意?でした^-^

ワハハハ~深堀氏 「大・海・賊」

= 大河クロカン・・2回目も微妙!(`・ω・´)キリッ =
少しくらいスィーツでも、今更だし、まぁいいけど「雷、きゃっ」は・・・王道すぎな気が^^;
毎回、微妙なうちに年末になったりして,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
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= 戦国期における有明海の交通体系ー兵船動員と海賊・国人領主ー鈴木敦子著 =
の、感想をリクエストされてたんで、ちょっぴりと・・(*´pq`)プププ

というのも既にアップ済の肥前千葉関連と違って、
この論文の場合は「あんまり詳しく書くと」「これから展開する歴史記事のネタバレ」になるんです。
てことで、軽めにいきます~ゎーィ♪ヽ(*´∀`)ノ

自分はズブの素人から九州戦国史に入った為に、こうした専門家・論文の存在すら知らず、北肥戦誌をツールに独学(WEB検索)で、ここまでの知識を得て来ました。(←凝り性なんで徹底して調べるから)
だから今まで記事に盛り込んでたオタ推論が、こうした論文で展開されてるのを読むと、自分の方向性がズレてない事が確認できて、物凄~くホッとしてます^^;

自分は「肥前において、一定の力がある国人領主は自前の津(港)があったはず」「船は現代のマイカーのように、持ってるのが当たり前感覚だったはず」
って、何度か書いてますが、論文読むと、やっぱそうでした~ゎーィ♪ヽ(*´∀`)ノ

ただし、それは筑前だけでなく、筑後もだった Σ(´Д`;)はぅっ

論文読んで、筑後の河川河口船便が自分にとって盲点だった事が判明(_´Д`)アイーン
道産子の悲しさで、地理感覚がスコーーンと抜けてたんです^^;;
言われてみれば筑後も有明海に面してるのよネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

で、ちょっぴりネタバレ・・・論文によると

1570年の今山合戦において、大友宗麟は筑後国人衆に有明海の海上封鎖(準備)命令出してました

何と!(゚ロ゚屮)屮 シランカッタ~~~
筑後と筑前は歴史的に双方向で行き来してました。
神代家や犬塚家が筑後で没落して肥前に土着したように、
龍造寺も剛忠(家兼)や隆信も、ピンチになると筑後へ亡命してました。

ですが有明海の筑後側津(つ=港)や航路を海上封鎖されたら、今までのピンチみたいに筑後へ一時退避が出来ない ガビ━━━(゚ロ゚;)━━ン!!
今山合戦で乾坤一擲の夜襲に全てを賭けるしかないほど、陸からも海からも龍造寺は本当にピンチだったようです。

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論文は、今後のネタに関わるので、付箋に棒線やらイパーイ (*´pq`)クスッ

それと海上交通ルールが室町中期には既に法文化されてたって( ゚д゚)ンマッ!!
「大船廻法」って言うんですが、論文によると写本が全国に流通してて、九州でも海難法として広く普及してたそうです。
自分のオタ推論以上に、活発だった・・・( ̄ω ̄A;アセアセ

でもって安堵に関する部分だと、海夫船の所有と船の係留地が「先祖譲状」の対象になってました。
海の民にとって、絶対必要なものだから当然といえば当然なんですが、キッチリ明文化してたんだな~

あと「海賊」ですが、論文では2パターンに分けてました

・ホントに海賊行為で生業たててる漁民(田畑なし)たち

・在地領主(田畑あり)で海賊行為もするけど、戦時においては水軍として活躍する国人領主


海賊行為で生業立てる人たちには、そうせざるを得ない事情がありました。
それが諫早・西郷氏で紹介した、急こう配の多良山系です。

そのため耕作地に出来る土地に限界があり、それぞれの河川河口流域が肥沃な穀倉地帯となるのは江戸期の大規模干拓以降。
耕地を持たない海沿いに住む漁師たちは、漁だけでは収入が不安定、倭寇などの海賊行為で食べるしかなかったんです。
戦時になると、国人領主から召集がかかる人々でもあります^-^

で、海賊もするけど水軍として活躍する国人領主の代表例として論文に紹介されてるのが「深堀氏」です。
フロイスの日本史によると「深堀殿は大海賊」ってバッチリ書かれちゃってるんだって,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

秀吉の出した朱印状によると、深堀氏は海賊禁止令以降も海賊行為を継続してたみたいです^^;
深堀の意思じゃなくて、領内の漁民が止めなかったのかもだけど^^;
朱印状(公式文書)の中には「彼者(深堀から)人質を取置、屋敷早々可引崩」とあり、
深堀氏は大ピンチ~~これを、どう切り抜けたのかも書いて欲しかった(爆

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その後の歴史と系図から推測するに、深堀純賢が石井氏後家と再婚し、その息子を養子にしたのは、このピンチを生き残る為だったのでしょう。

独立した国人領主である事は難しくなり、鍋島家臣になった。
でも同じ家臣でも石井氏は、鍋島直茂正室の実家・・・華麗なる閨閥(=^・ω・^=)v ブイ
深堀氏は本貫地を動く事なく、しかも佐賀藩家老職で幕末まで続いたんです。素晴らしい!

この縁組が成立したのは、鍋島氏にとって「水軍として活躍する国人領主としての深堀氏」が必要だったからです。
「朝鮮の役」の頃ですから、より優秀な水軍ゲッツは、軍役を果たすため必要不可欠でした。
深堀純賢は、自家の水軍としての実力の価値を判った上で、鍋島の殿と上手く交渉したんだろうなぁ^^


てことで、論文2つ、すっごい面白かったです (人´∀`).☆.。.:*・シアワセ☆.。.:*

「戦国を駆ける武将たち」も読んだというか見た~
水ヶ江城古図・・・メチャクチャ、くまなくクリークだらけでつ,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

さて、明日からは中断してた肥前後藤氏の続きに戻ります^^/
それは・またの話 by^-^sio

【肥前後藤氏・五~純明(すみあき)前篇~】西肥前強化期間リサーチ7武家目

さ~戦国に入ったぞ~~
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突然ですが、橘姓渋江氏は渋江公勢の代が最盛期だそうですよ~
って、他人事っぽい書き方になるのは、一度衰微してた渋江氏が勢力拡大した経緯が不明だからなんです。
『橘家渋江由来記』によれば、公勢は武威を振るい、上松浦の波多興信、杵島郡塚崎の後藤職明、藤津の原越後守、白石の白石道勝、多久氏、平井氏ら、近隣の諸領主は人質を出して公勢に属していたとある。
(参照サイト:武家家伝_渋江氏より)
根拠となる文書が乏しいのだが、うっすらと勢力の大きさを辿れる傍証がないわけではない。
渋江氏は公勢の代で本城を潮見城から日鼓岳城に移してます。

日鼓岳城、位置データ:武雄市若木町大字本部
え~っと城の遺構は絶望的な状態でして、かろうじて城跡の標識が残ってる程度^^;
日鼓岳という地名は残ってなくて、現代の八幡岳になります。

ここで注目なのはモチ住所ね(^ -)---☆Wink
日鼓岳城があった若木町大字本部は、馬渡(もうたい)氏の川古より2km強ほど北。
渋江氏本貫地である長島庄からだと10km弱ほど北に位置してます。

本城を長島から若木町の日鼓岳城に移したって事は、その分だけ渋江勢力エリアが広がったってた事になります。
日鼓岳・・・現在の八幡岳は眺望最高の夜景スポット。
武雄市、唐津市、佐賀市を見渡せる山頂の光景は、まさに最盛期の渋江氏本城に相応しい場所です。

>近隣の諸領主は人質を出して公勢に属していたとある
ここも注目。
ということは、後藤職明の娘は人質を兼ねた側室だった可能性が高い。
そうなると、いろいろ得心・符号します。

渋江家から養子に入って後藤の家督を継いだ純明(職明の外孫)は、実は公勢の長男( ゚д゚)ンマッ!!
純明が渋江を出て後藤の家督を継ぐ・・・

それ即ち純明は渋江家の長男であっても嫡子ではなく、生母(後藤職明娘)が渋江公勢の側室だったって事です


当然、力関係は「渋江公勢>>>>>>超えられない壁>>>>後藤氏」なのね。
15代目英明から塚崎と長島の地頭職を兼務してた後藤氏ですが、何といっても長島庄は渋江氏の本貫地。
渋江が勢力を取戻し&室町幕府が衰退した戦国初期、ともなれば後藤氏の地頭職の権威を振りかざすのは無理だったと思う^^;

1504年(永正元年)、渋江公勢は軍勢を催し没落してた大村純伊に助勢を約束

1508年(永正4)渋江は軍勢を動員し、大村は有馬からの領地奪回に成功する

とあるのだが、これが真偽が怪しい,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
だって伊勢詣で大村純伊と渋江公勢が偶然出会い、大村の境遇に渋江が同情してウンヌンって、話が出来過ぎよネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

とにかく渋江公勢は近隣の国人に動員をかけられるほどの勢力を誇っていたらしい。
ちょっとした戦国大名に近い状態だったのだが、最盛期と没落は常にカードの裏表・・・
悲劇が起きるのだが、それは・またの話 by^-^sio

【肥前後藤氏・五~純明(すみあき)中篇~】西肥前強化期間リサーチ7武家目

後藤氏は歴代当主の名前が気に入ってるから・・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ
ゲホグホ・・・もとい、渋江氏との絡みが多いため、他のリサーチより長くなってます^^;
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橘姓渋江氏、最盛期当主・公勢には、後藤家の家督を継いだ長男・純明の他に二人の男子がいた。

次男・公政
三男・公親

で、共に日鼓岳城で暮らしてて、家族団らん・・・のはずが不穏な空気に・・( ̄ω ̄A;アセアセ
というのも公勢は跡継ぎに三男の公親を指名するという、揉めそうな決定してたからです。

決定時、三男・公親は元服も未だの少年。
三男の生母が、よほど公勢の寵愛を受けてたか、理由は不明ですが、当然次男サイドは不満で一杯。
特に熱心だったのが次男・公政の乳母で、「次男若君を当主にする為」と公親毒殺を画策した。

1527年(大永7)三月のある日、公勢は公政・公親と鞠遊びに興じ(蹴鞠の練習かな?)、年若い公親が飲み水を所望した。
チャンスとばかりに次男乳母が素早く毒を注ぎいれた水を用意し、差し出した。
ところがココでトンデモナイ計算ミス発生!!

次男乳母が差し出した毒入り水を、当主である公勢が受けとり飲んで、更に次男の公政に進めてしまい、次男は毒入り水の残りを飲み干してしまった。
次男乳母 アッ━━(゚ロ゚;)━━!!って、思った時には既に手遅れ。
公勢も乳母の大事な大事な次男若君も儚くなった(-人-)☆彡ドンダケ強イ、毒盛ッタンダ・・・

次男乳母がどうなったかは不明です。
即死するほどなら、毒を混入したのはバレバレだろうから、次男乳母は最初から自分の死は覚悟の上だったはずです。
己の乳を含ませた次男若君の死で錯乱自害か、毒混入画策が発覚して殺されたかのいずれかでしょう。

とにかく助かったのは、長幼の列を守って大人しく水を飲むのを我慢してた三男・公親クン13歳だけ。
「所望したのはワシじゃ、ワシが飲む~」ってせがむような行儀悪い子だったら、次男乳母の思惑通りだったのにネー(*´・д・)(・д・`*)ネー
混乱の中、渋江家当主となった公親だが、13歳では自身で統治が出来るはずもない。
そこに付け込んだのが、実兄である後藤純明。

後藤純明は渋江氏攻略を開始し、長島庄をゲッツ(=^・ω・^=)v ブイ


喜びも束の間。

1530年(享禄3)有馬晴純の武雄攻略が始まる

有馬勢は、後藤の本城である塚崎城(武雄市役所の側)を攻略。
さらに住吉城(黒髪山の麓)にまで迫ったのだが、それは・またの話 by^-^sio

【肥前後藤氏・五~純明(すみあき)後篇~】西肥前強化期間リサーチ7武家目


1530年(享禄3)有馬晴純の武雄攻略が始まる

有馬晴純は塚崎城を攻め住吉城に迫った。
史料では黒髪城ってなってるみたいなんですが、住吉城(黒髪山の麓)の事です^-^

純明は、勝利を黒髪山に祈願(-人-)☆彡
三間坂(山内町大字三間坂)の白水原に陣取っていた有馬軍を奇襲して勝利した。
このとき、戦勝を祝って足軽達が踊ったのが今も続く武雄の郷土芸能「荒踊り」だそうです^^

その後、純明と有馬晴純は和睦し、純明は有馬晴純の妹と結婚し、両者は義兄弟の間となった。
武雄の後藤が有馬と同盟関係になったことで、有馬勢の軍行動が頭一つ抜け出た状態へと飛躍します。

1530年・・・田手畷の戦いで活躍した龍造寺家兼勢が、その武勇を肥前国に轟かせた年でした。
ここから、西と東の肥前戦国史が大きく交差し始める。

天文4年(1535年)、純明は有馬晴純を助け龍造寺家兼と藤津郡で戦い勝利する

はぅっΣ(´Д`;)
これ、北肥戦誌に記載ない西肥前サイドのデータだ!
多分、でまかせじゃないと思う・・・龍造寺って剛忠(家兼)の代では藤津郡での戦で勝った事がないんです。
この頃の龍造寺は、アゥエーで単独で勝てるほどの力は、残念ながら未だありません( ̄ω ̄A;アセアセ
1540年(天文9)千葉喜胤が杵島郡に進出してきたため、純明は有馬軍に加わって千葉軍に勝利する(byウィキペディア)
北肥戦誌記述:有馬義貞が小城の千葉氏を攻め、杵島郡以西を奪った。
北肥戦誌は千葉氏としか記載してないので、千葉の西か東か判断しかねてました。
が、千葉喜胤ならば東千葉氏の方です。
いずれにせよ有馬氏は、六角川流域までエリアを広げました。

1542年(天文11)渋江公勢の三男・公親(後藤純明の実弟)が長島庄の旧領を回復すべく、岸岳城・波多隠岐守と平戸城・松浦肥前守と共に攻め入る

後藤純明は防戦するも失敗し、住吉城に退却する

渋江公親は長島庄を回復し日皷岳城に復活(=^・ω・^=)v ブイ

前回書洩らしたが、公親クンのママンは隠岐の波多氏出身で、公親クンは波多氏の保護下に入ってました。
パパ公勢が毒殺された時に13歳だった公親クンは、数え29歳の青年に成長してます。

ちなみに後藤純明は実父が毒殺された時に剃髪し月湖浄圓と名乗り、冥福を祈ってました。
それと純明の頃から後藤氏は本城を塚崎から住吉城に替えてたっぽい?みたい?です。
住吉~塚崎~って行ったり来たりしてるんで、どっちが本城なんだか区別が~~(_´Д`)アイーン

その僅か3ヵ月後、純明は日鼓岳城を攻略し、公親をo( ̄Д ̄θ★ケリッ!

ピンチが去った後藤純明は、居館を住吉城から塚崎城へ戻したそうで、やっぱメインは本貫地・塚崎城か?(@@)
渋江公親は龍造寺家兼を頼って佐嘉へ。
何時の間にかこさえた公親の息子・公師と公重は、肥後へとそれぞれ亡命しました。

1544年~1545年にかけて、少弐家臣・馬場頼周の龍造寺抹殺計画が始動!

有馬と縁戚・同盟関係だった後藤純明も、この陰謀に協力してたそうです。
純明が協力に応じたのは、有馬との同盟関係だけでなく、旧主で実弟の渋江公親が龍造寺を頼って亡命してたのが大きな理由だと思います。

さて養父で実祖父の後藤職明も男子に恵まれなかったのですが、どういう訳か純明も子宝に恵まれなかった。
そこで有馬の縁戚で準一門ある大村氏から養子を迎えたのだが、それは・またの話 by^-^sio

【肥前後藤氏・六~貴明・1】西肥前強化期間リサーチ8武家目


日本初のキリシタン大名・大村純忠の人生に大きく影を落としたのが、後藤氏19代目貴明の存在だった。
個人的には、大村純忠がキリシタンに傾倒した大きな要因になったのではないか?とさえ感じてます。

18代目後藤純明は子宝に恵まれず、有馬氏縁戚の大村氏から養子を迎えたのが貴明でした。
後藤家に問題はない。揉めたのは貴明の実家・大村家の方です。

後藤貴明の実父・大村純前のウィキペディアだと、

純前は男子がなかったために有馬氏より純忠(有馬晴純・次男)を養子に迎えたが

その後側室との間に実子の又八郎(=貴明)が誕生した( )内はシオ補足


・・・・あれ?ヽ(。_゜)ノ ??
大村純忠、生年月日:1533年
後藤貴明、生年月日:1534年3月
一歳しか違わないじゃん。昭和の早生まれ区分けだと、学校は同学年だぞ。
ちなみに大村純忠が跡継ぎ候補として有馬から大村へと養子に入ったのが、1538年(天文7)。

つまり大村家では、庶子とはいえ又八郎(=貴明)という実子がありながら、有馬から跡継ぎを迎えたんです


これは・・・何処から見たって「有馬による大村の家督乗っ取り」( ̄ω ̄A;アセアセ
ちなみに養子に入った純忠ですが、さすがに赤の他人じゃありません。
有馬晴純の妻・・・純忠の生母は大村純伊(貴明・祖父)なので、貴明から見て大村純忠は従兄にあたります。

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(企み中?有馬晴純イメージ画像)

有馬晴純の斡旋で、大村純前の実子・又八郎(貴明)がo( ̄Д ̄θ★ケリッ!と後藤家に養子に出されたのが1545年。
ということは7年間、大村家において純忠と貴明は同じ館で起居してたかもです。

同居と言っても現代と違い、さすがに廓は違うはずで日常は別々でしょう。
でも重陽とか新年とか武家における諸行事では顔を合わせてるはずで、
となると又八郎の席順は実子でありながら、養子で従兄・純忠の下座。

又八郎、数え12歳。戦国の12歳は現代の12歳より遥かにシッカリしてます。
貴明の行動原理を見るに、実子でありながら家督を継げない事への屈辱に日々歯噛みしてたと思われます。
禍根になるのは明らかで、有馬晴純が又八郎の養子先を斡旋したのは当然の事でしょう。

大村家は江戸期に文書類を相当改竄してるんじゃないか・・・って疑惑があります( ̄ω ̄A;アセアセ
佐賀側ともデータに整合性がとれず矛盾があって、それで自分もお手上げで大村単独でのリサーチを諦めました。
で大村側の記録だと、大村純伊が渋江氏の助勢で有馬から旧領を奪回したことになってます。

これが既に真偽を疑われてます,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
だって~伊勢詣でバッタリ出あい渋江公勢が大村純伊に同情して助勢を約束って、話が出来過ぎてる。
ただ丸っきり出鱈目じゃなく、華々しく勝利し旧領復活したって形ではない・・・というだけ。

実子がいながら、有馬氏からの養子と受け入れた事といい、大村氏は有馬と対等の同盟関係ではなく服属に近い状況だったんじゃないでしょうか。
数え12歳なら実家の苦しい状況は、100%じゃないにしても空気は理解出来ます。
大村家存続のために有馬の力は必要だったとなると、有馬を敵視することは我慢しなければならない。

養子に出された又八郎(=貴明)の、やり場のない恨みと怒りは、大村へ養子に入った従兄・大村純忠へと集中した


実父・大村純前が純忠へ家督を譲ったのは1550年で、翌年1551年に亡くなった。
又八郎は後藤家へ行く前に、一度でも父に尋ねたのだろうか?
「本心では、我が子である自分に家督を継がせたかったんですよね?」
「勝童丸(純忠)より、自分の方が当主の器ですよね?」
聞いても後悔、聞かなくても後悔するだろう、永遠の問い。
貴明の純忠に対する憎しみは、現実に純忠が大村の家督を継いだ事で、いっそう増したに違いない。

純忠が存在するのが許せない。
純忠への憎しみで、息するのも苦しい。
髪の毛の一筋全て、大村から純忠の痕跡を消し去りたい。

後藤貴明の純忠に対する憎悪の激しさは、後藤家の外交方針にも影を落とす。
純忠にとって不幸だったのは、後藤貴明が器量優れた人物だったことだ。
その為、大村家臣の中でも貴明当主を諦めきれない「貴明派」がいて、純忠の一挙手一投足を批判的な目で見てた事です。

「大村家の家督」は純忠にとって地獄の業火だった。
文字通り、針のムシロ。
この広い世界で、臓腑を引き裂きたいと思うほど自分を憎む者がいる・・・
純忠の精神は「実家・有馬の勢力拡大の為(`・ω・´)キリッ」と開き直れるほどタフじゃなかったらしい。

1563年、大村純忠はキリシタンの受洗を受ける

純忠の受洗が、後藤貴明と大村純忠の対立を決定づけたのだが、それは・またの話 by^-^sio

【肥前後藤氏・六~貴明・2】西肥前強化期間リサーチ8武家目


1560年、後藤貴明は正室が早世し子供がいないことから、平戸・松浦隆信の次男・惟明を養子に迎えた

(*´∀`)はてさて・・・面妖な。
貴明は未だ27歳の若さで、他家から養子を迎えるのは早すぎる。
ウィキペディア「後藤惟明」によると、
「(松浦)隆信が宗家の相神浦松浦氏と対立する中で後藤氏の支援を求めた政略的事情が、養子になった理由」とある。
(*´∀`)腑に落ちないな~支援を求められた方が、若くして養子を貰うって不自然じゃないこと?

松浦隆信次男・惟明は1545年産まれで、数え16歳。
未だ数え27歳の貴明が引き取るには、育ち過ぎてる。

松浦隆信の理由は、その通りで裏も表もないだろう。
後藤貴明の方でも松浦隆信の力が必要だったので、養子を貰い受けたに違いない。

松浦隆信は、すっかり関係が拗れた宗家を倒す為。
後藤貴明は、大村純忠を倒し、大村領を「取り戻す」為。

後藤貴明は有馬から横槍がなければ大村の家督を継ぐはずだった立場。
だから貴明にすれば単なる領土欲ではなく、有馬の介入で「奪われた全て」を「取り戻す」戦いなんです。
気持ちは理解できないでもないが、この微妙な養子縁組は後に禍根となって、貴明に皮肉な運命をもたらすこととなる。

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 松浦隆信イメージ画像
ちなみに隆信の「隆」は、大内義隆からの偏諱です^^/

さらに後藤貴明は他にも手を打っている。
1559年、ウロウロ・・・もとい亡命してた渋江公重と公師の兄弟を呼び寄せ、潮見城を守らせ有馬氏への備えとした。
別々に亡命してた兄弟の父・公親(貴明の亡き養父・純明の実弟)も潮見城に入ってるが、
コッチは兄弟が父を招いたのか、後藤貴明が公親も呼んだのか、その辺は判らなかったです^^;

かつての主と被官の立場が逆転したが、それも時の流れ無常の世の中。
肥前の複雑な政情で、自力で領地回復など到底おぼつかない。
「本城に戻れたのは、全て(後藤のお蔭じゃなくて)潮見明神の御利益(-人-)☆彡」
と、未だ46歳の若さなのに公親は、妙に信心深くなってたらしい。

1560年、ある意味、現実逃避気味の渋江公親に対し、有馬の謀略が仕掛けられたのだが、それは・またの話 by^-^sio

【肥前後藤氏・六~貴明・3】西肥前強化期間リサーチ8武家目


1560年8月、有馬勢3千が潮見城を攻撃。
渋江勢は数百人だったが、鉄砲を駆使して良く防戦していた。
そんな最中、潮見明神が不思議な神託を出した。
城内にある鉄砲で人を殺すことは当域の穢れであり、急ぎ鉄砲を城外に運び出せ、敵がくれば神力をもって退治する
と戦の真っ最中に、時代の流れに逆らう保守的な神託に、
若い世代の公重?(。_゜)?と公師?(。_゜)?

いや、いかに累代大事にしてる明神の神託でも、これは従えないとクレームを入れると、
父の公親が「ゴルァ!!!(# ゚Д゚)・;'.明神さまの神託にクレームとは何事かぁ」と息子たちを叱った。
パパ公親は「本貫地の長島に戻れたのは、これひとえに(後藤の力だなんて認めない)明神さまの御庇護の賜物!(-人-)☆彡」
「御神託に従え!それ運ぶのじゃ」と鉄砲を城外に運び出してしまった。(出典:橘家渋江由来記)

これが有馬の謀略だった・・・

累代の庇護者であっても支配力が衰えちゃうと、巫女さんも敵に買収されちゃうのネー(*´・д・)(・д・`*)ネー
巫女の神託は真っ赤な偽物だったんです。

同年9月21日、謀略に公親が引っかかったのを知るや否や、有馬は潮見城攻撃開始。
有馬勢の猛攻撃で鉄砲のない渋江は押され、公重が討死。城は落城する。
急報を受けた後藤貴明が出陣し直ちに奪い返したが、渋江親子は貴明の怒りを恐れて出奔してしまったとさ^^;

同年12月、後藤貴明は肥前須古城(有馬サイド)を攻撃して失敗

打倒・大村純忠の為には、大村のバックにいる有馬とも敵対する事になります。
後藤勢も肥前須古城周囲の湿地帯に苦戦したかな?

1561年(永禄4)、塩田(嬉野市塩田町)の塩吹城を攻め、領主・原直景(有馬サイド)を降伏させる

1562年(永禄5)4月、手が回らなかったのか、後藤は公師を帰参させ潮見城を守らせた

偽神託に引っかかったのはパパ公親で、息子の公師は反対してたからネー(*´・д・)(・д・`*)ネー
城は元々の持ち主に守らせるのが一番。住民感情も害さずにすみます(^ -)---☆Wink

同じく1562年(永禄5)後藤貴明に長男・晴明が産まれる

ほらネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

これだけでも揉めそうなところへトドメ。

1563年(永禄6)平戸の松浦隆信が、宗家である相神浦松浦氏を攻撃開始

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(平戸・松浦隆信イメージ画像)
平戸松浦の宗家攻撃開始が、こんなに早いとは貴明(養父)も惟明(養子)も思わなかっただろう。
これには複数の要因が重なってます。
1)1562年(or1563年)龍造寺VS有馬の激突で、有馬が負けちゃった事⇒すぐ他方面への軍行動不可。
2)松浦党の波多氏が家督を巡る御家騒動で、宗家と平戸の対立どころじゃなくりフォロー不可。
3)長年、宗家・相神浦松浦を支えていた少弐氏が、龍造寺によって滅ぼされた。
松浦関連データを集めてて、少弐が松浦党では「宗家押し(少弐氏から嫁を迎えて縁戚関係)」だったのを、最近になって知りました^^;
その為、平戸松浦氏は少弐政資から討伐されたり(平戸は一時、筑前⇒山口へ亡命)
少弐資元の奔走で、平戸松浦は(しぶしぶ)宗家と和睦したりしてたんです。

こうした要因が重なり、平戸松浦が宗家を攻撃しても、宗家を援ける為に直ぐ動ける勢力がいなくなりました。
宗家は数年間抵抗を続けますが、他から邪魔がなければ、平戸松浦だけで充分。
平戸松浦には、改まって後藤の力を借りる必要がなくなり、貴明嫡男誕生もあいまって、惟明の後藤家における立場が弱まってしまう。

皮肉にも貴明は、実父である大村純前と同じような状況を招いてしまった。
我が子・晴明に自分と同じ思いをさせてなるものか・・・!
次第に後藤貴明と養子・惟明の関係が、ギクシャクし始める。

この間(1562年~1563年)、貴明は豊後のキング・大友宗麟に秘かに書簡を送り、翌年、同盟を結んでいる。
活発に動く後藤貴明の目的は、打倒・大村純忠であり、大村の家督を乗っ取った打倒・有馬だった。
それが実行に移されたのが、1563年だったのだが、それは・またの話 by^-^sio

【肥前後藤氏・六~貴明・4】西肥前強化期間リサーチ8武家目


ひ~~~
松浦と波多と渋江と後藤の点在するデータを時系列に組み直すので、脳みそ沸騰しそう!!

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有馬が敗れた龍造寺との戦いは、1562年説と1563年説の二説あります。
後藤貴明が打倒・大村純忠に向けて動いたのが1563年なので、1563年だったのかもしれません。
(てか、これだけ大物同士の激突で年代が二説ある肥前って・・・( ̄ω ̄A;アセアセ)

とにかく直接のキッカケは大村純忠の受洗でした

受洗の動機は「南蛮との交易」とか「勢力拡大してきた龍造寺へ対抗する為」とか、色々あるようです。
とはいえ傾倒ぶりは大友宗麟とイイ勝負で、こういう場合に迷惑を蒙るのは家臣なのも一緒。

大友純忠・・・じゃなかった(爆)大村純忠は、熱心なあまり領内の神社仏閣を破壊し、家臣へも改宗を迫ったそうです。
この手の話は、どこまで信憑性があるのか、判断しようがないので困る^^;
でも神社仏閣が破壊されたなら、大村関連データが乏しく大村藩史を検証しようがないのも頷けます。
何といっても神社仏閣は一次史料の宝庫ですから。
で「家臣へ改修を迫った」も全くの中傷デマではないかもです。

何故なら、純忠の受洗に反感を覚えた大村家臣が、大挙して武雄・後藤貴明に寝返ったからです

後藤貴明は大村家臣の寝返りで、大村領であった北部波佐見、川棚、彼杵を労せずしてゲッツ(=^・ω・^=)v ブイ

いずれも東彼杵郡の土地で、後藤が手にしたのは総面積のザックリ1/4くらいでしょうか。
波佐見の北部というと、武雄市に近い方ってことでしょう。
いやそれよりも川棚町と彼杵町です。
そこは大村湾に面した土地・・・後藤貴明は大村エリア内の港を手に入れたんです!ゎーィ♪ヽ(*´∀`)ノ
佐世保湾の奥にある南蛮交易港・横瀬浦を狙える位置に足場を確保。

1563年7月、後藤は大村家臣にクーデターを起こさせ、自らも出陣して大村領の平定を試みるがコッチは敗退^^;

針尾島に兵を出して佐志方城を攻め落とし、かつ、佐世保、日宇、早岐、針尾島の四ヶ村もゲッツ

ちなみに、この針尾島の南端に、現在のハウステンボスがあるんでつ( ̄ko ̄)

同年7月27日、後藤に寝返った横瀬浦奉行・針尾伊賀守とともに貿易港・横瀬浦を焼き討ちし、港として使えなくしちゃいました


この勢いで憎い大村純忠の首を~~~~~~~~と行きたいところに「待った」がかかる。
龍造寺の肥前須古城攻略が始まったからなのだが、それは・またの話 by^-^sio

【肥前後藤氏・六~貴明・5】西肥前強化期間リサーチ8武家目


龍造寺の台頭と同時期に生まれた後藤貴明は、不運だったのかもしれない。
とにかく有馬だ龍造寺だと、邪魔が入るので大村純忠攻めに集中する事が出来ず、貴明は忙しい人生を送る事になり、
それをまとめてるシオも、脳みそが汗だくになってます,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!




1563年、大村純忠の受洗を嫌った大村家臣の寝返りで、打倒・純忠に向けて畳み掛けるチャンスだった後藤貴明の行動に「待った」がかかる。

ほぼ同時期に龍造寺勢が北方方面に迫ってきたからです。
大村純忠に集中してた後藤にとっては「まさかの緊急事態」で、まったり善後策を講じてる暇がない。
てか、このチャンスを逃したくない~~「龍造寺とは和睦!」←これが7月の話。

同年8月、龍造寺勢の肥前須古城攻めが始まり、同盟関係から後藤も龍造寺勢の先鋒で参加⇒で、敗退

後藤貴明にすれば、こんな事で将兵を失うことがバカバカしかっただろう。
肥前須古城が容易に落ちる城ではないのを、実際に攻撃して理解すると方針をガラリと転換。

後藤貴明は須古城・平井氏と和睦、証として平井の娘を貴明の養子・惟明の室に迎えた。
ハッピーウェディングはピンク色文字(*´pq`)
嫡男・晴明クンが生まれた為に、(気持ちの中で)余してた養子の使い道見っけ~(・∀・)
須古城主・平井経治が有馬サイドの城で武将なのは、百も万も承知の上(`・ω・´)キリッ

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(須古城主・平井経治イメージ画像

龍造寺が六角川防衛ラインを突破するには、肥前須古城を軍事的に制圧することが必須なのだ。
逆を言えば、肥前須古城に頑張ってもらう事によって、龍造寺勢を足止め出来る。

翌1564年2月、再び龍造寺が須古城を攻撃するが、後藤・平井の連合で戦い、これは勝敗つかずで終わる


同年3月、貴明は平戸松浦氏や諫早西郷氏と呼応して大村方の彼杵城を攻め落とす


同年8月、有馬・大村の連合軍が彼杵城奪還に動くが、後藤勢が撃退o( ̄Д ̄θ★ケリッ!


有明海側の鹿島方面からは有馬軍が塩田に迫り、更に渋江の潮見城へと迫る

潮見城を守ってた渋江公師Σ(´Д`;)はぅっ 
急ぎ後藤貴明に急報し援軍を派遣してもらう。
前回落城の汚名挽回・・じゃないか、名誉挽回とばかりに後藤勢と共に奮戦し、有馬勢を見事打ち破った(=^・ω・^=)v ブイ

1566年(永禄9)7月、貴明は大村に出陣し大村純忠を攻めるてるけど、これも失敗。
が~~純忠がしぶとい!!
なんか西郷とか深堀とか長崎とかリサーチしてるせいか、シオまで大村純忠にイライラ・・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ

1570年の今山合戦では、一般常識チョイスで大友側についた後藤だが、想定外の龍造寺勝利で再び肥前戦国史が灰神楽が舞ったようになる。

さらに1572年(元亀3)7月には、平戸松浦氏&諫早の西郷氏と呼応して、大村純忠の三城を兵1500を率いて包囲したのだが、またも大村が防ぎ切る。
(大村純忠の武運って強いんだか弱いんだか・・勝てないけど負けない^^;)

で、龍造寺と後藤なんですが、まだ他データと擦り合わせてないんですが、ウィキペディアによると、1571年、1572年、1574年と、ちょこちょこ交戦してたそうです。
このまま敵対関係が続くかと思いきや、後藤貴明の運命を大きく変える事態が発生したのだが、それは・またの話 by^-^sio

【肥前後藤氏・六~貴明・6】西肥前強化期間リサーチ8武家目

論文読んでる内に、寝ちゃってた,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
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1574年・・・養父・貴明41歳、養子・惟明29歳の時に破綻が起きた。

最初のキッカケは、貴明に実子・甫子丸が誕生(1562年)し、貴明が総領が受け継ぐ後藤家伝来の太刀などを我が子に与えてしまった事だった。
実子が産まれ、性別は男子と聞いた瞬間、貴明は養子を貰った事を後悔しただろう。
ふと思いついたが、貴明が打倒・大村純忠に拘ったのは、実子と養子の狭間で懊悩したからかもしれない。

後藤貴明は大村純前の実子で、本来なら大村の家督を継ぐはずの所を、有馬家から純忠が養子として押し込まれたからです。
貴明の存在が禍根になるのを危惧した有馬は、貴明の養子先として男子がいない後藤家を斡旋した。

大村純忠を倒し、大村領を取り戻した暁には、大村領を実子・甫子丸に継がせ、後藤家を養子・惟明に継がせる。
これが上手く行けば八方丸く収まるのだが、現実は大村純忠がしぶとくて死んでくれない^^;
そうこうしてる内に、養子・惟明の方が待ちきれなくなった。
サイトによっては、実父である平戸・松浦隆信が唆したともある。

6月22日、惟明が塚崎城の二の丸にて謀叛の意志を皆に伝えるが、貴明に露見したため、そのまま二の丸で籠城となった

後藤家は真っ二つに割れ、貴明は当主でありながら塚崎城を退去する羽目になる。
このピンチに後藤貴明は、止む無く龍造寺隆信へ助力を求め、それによって惟明に勝利した。

降伏した惟明は養子縁組を解消され、実家である平戸・松浦家へと返された。
松浦家でも処遇に困ったのだろう、惟明は平戸に住む事は出来ず日宇(佐世保市)で隠棲し生涯を終えた。
ただ幽閉とかでなく、平戸・松浦の一族として出陣もしてるので、日宇で幽閉とかいう訳ではなさそうです^-^

この件で和睦した龍造寺と後藤だったが、速攻で破たんした( ̄ω ̄A;アセアセ
後藤貴明には以前に和睦しておきながら、態度を翻し須古城の平井と同盟を組むと言う前科があるので、龍造寺が後藤の心底を疑ったんです。
だって後藤自身が、龍造寺の為に積極的にハッスルするアピールしてないんだもん^^;
後藤にしてみれば、助けてもらったから同盟したけど、配下になったつもりは無いからでしょう。
この2度目の和睦後に、後藤が龍造寺配下になる決断し赤心を見せていれば、もしかしたら違う運命だったかもしれない。

3年後の1577年2月に再和睦するんですが・・・・(後藤的に)条件が悪くなりました(´;ω;`)ウッ

それは、貴明の実子・晴明を龍造寺隆信に養子に出す代わりに

隆信の三男である家信を貴明の娘・槌市と結婚させ貴明の養子とするというものでした

この時の龍造寺は須古城に手こずってた頃の龍造寺ではありません。
てか、その須古城は今では隆信の隠居城・・・後藤貴明は出された条件を呑むしかなかった。

結局、後藤貴明は亡き父・大村純前と同じく、我が子に家督を継がせる事が出来ませんでした。
大村が後藤家に、有馬が龍造寺になっただけです。
晩年の貴明は光明寺(北方町)に隠棲したそうですが、その複雑な胸中は計り知る事は到底無理でしょう。

余談になりますが、後藤家の正史に「藤山考略」があります。
最近読んだ宮島先生の論文によると、この藤山考略に黒髪神社で紹介した大蛇退治が盛り込まれたのは、
後藤氏が武雄を支配する正当性アピールの為だと論じています。

「藤山考略」の成立年度は不明ですが、江戸初期と思われます。
龍造寺隆信の孫にあたる茂綱の頃、後藤家臣の一部に「茂綱さま(※自分らの主君)を廃し、鍋島家から当主を迎えるべきじゃね?」って動きがあったそうです。
あ~~~なるほどね~後藤家臣が不安にかられた気持ち判るわ~(゜゜)(。。)(゜゜)(。。)ウンウン

というのも茂綱は病気で「関ヶ原の戦い」動員時に遅参するという大失態をやらかして、鍋島・龍造寺の両方から白眼視された黒歴史があるからでつ ( ̄ko ̄)
過去記事「【公方栗毛】江上表・八院合戦編5栞88 」
http://blogs.yahoo.co.jp/tokino_siori/5534368.html

その後、西軍残党掃討戦である「江上・八院合戦」において先陣(第二陣)で、獅子奮迅頑張って名誉回復するんですが、
それでも後藤家臣(一部)にすれば不安で「御家存続の為に・・」って思ったんでしょうね。
茂綱サイドでは大慌てで「藤山考略」を編纂させ、後藤氏正当性アピールして家中統一を計ったと思われます。(ちなみに茂綱は、後年になって藩制を預かる立場になりますv(=^・ω・^=)v ブイ)

思えば後藤氏嫡流は職明(しきあき)までで、純明は系譜としては女系。
初めは(有馬から斡旋された)大村、次は龍造寺と、時の実力者に養子を捻じ込まれてきた後藤氏には、
表面に出せなかった「言い分」があったはずで、それが最も凝縮しているのが「実子を当主に出来なかった貴明」の存在だと思うのです。

貴明寺(武雄町大字永島)には、後藤貴明の木像があります。
貴明の死後5年後に造られたもので、生前の姿を模していると言われています。
とても意思が強うそうな鋭い眼光を宿しています。
造らせたのは貴明の実子・晴明(龍造寺家均)で、亡き父の姿を思い描きながら彫師に指示したのでしょう。
物言わぬ木像は今も凛と佇んでいます。

さ~次は松浦党よ~~~それは・またの話 by^-^sio

【コメ14000HIT御礼】(* ̄ヽ ̄)ナゲキッスヽ(* ̄・ ̄)ノ^☆チュッ♪



このたび、お蔭さまを持ちまして14000HIT(自爆)しました


ここんとこリサーチだ~論文だ~と堅苦しいマニア記事に御付き合い頂きありがとうございます^^
本編の方は、あくまでも「読みやすさ重視」のスタンスでまいりますので、今後とも宜しくお願いします^^

リサーチの方は、松浦党(宗家&分家)と同じく松浦党の波多氏で終わります。
1月中に終わる予定が、ちょびっとズレこみそうです^^;
本編の方では、おなじみのお絵かき・・・もとい合戦図も用意(これから描く)します^^

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こんなマニアックなブログを御愛顧頂き、本当にファン様には感謝感謝しかありません。
時にコメ返事もままならないシオですが、このような数字を達成できたのは偏に皆様のお蔭です。

これからも弛むことなく研鑚し精進して行きますので、今後とも宜しくお願いします^^


フラッシュ・画像は南洲さまから借りました^^
南洲さまのブログ
http://blogs.yahoo.co.jp/yuewannwann/33185189.html?vitality#33185189
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