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Channel: 九州戦国ブログ~室町末期から江戸初期まで~
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感想【肥前一宮「千栗(ちりく)八幡宮の歴史的変遷~太田順三】

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皆様、お待たせしました。論文感想の時間です(←待ってないか・爆)

肥前国には本来一つしかないはずの一宮が二つある。
與止日女神社(河上社)と千栗八幡宮の二つだ。
一宮争いをしていた両神社だが、未だ結論が出ていないのであろう。
全国一宮一覧では、シッカリ両方載ってます( ̄ω ̄A;アセアセ

論文は専門的な話やココ**論文参照ねってのが、チョコチョコあって参照論文未読のシオはポカーン。
(もっとも更に戦国から離れた専門的な論文になるので、読んでも判らない可能性大)
ま、とりあえず千栗八幡宮が川上社に圧倒された経緯は大体つかめたので、忘れない内に感想アップします^^

イメージ 1


千栗八幡宮は創立は別にして鎌倉中期には、宇佐八幡宮の九州五所・別宮の一つだったことが「旧記雑録前編(島津史料)」に記載されているそうです。
で、平安期から鎌倉中期にかけて千栗八幡宮が「肥前国一宮」として存在してたことが窺える文書があるとのこと。

ところが1309年に宇佐宮と弥勒寺が大火により悉く灰塵に帰した事から、宇佐八幡宮の衰微が始まる。
で、その余波で宇佐八幡別宮だった千栗八幡宮も衰退。
代わって河上社が肥前国一宮の神号を唱え台頭し始めた。
・・・・って、それじゃ自称・・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ

一宮争いで決着がつかない理由で一番大きいのは、千栗八幡宮側に中世(室町~戦国まで)の文書がゴッソリないことです

ガ━━━(゚ロ゚;)━━ン!! ガ━━━(゚ロ゚;)━━ン!! ガ━━━(゚ロ゚;)━━ン!!
一番、肝心な時代がぁぁぁぁ!
あ、別段陰謀じゃないです。何度も戦火にあって焼失=消失したんです。 (゜-Å) ホロリ
戦火にあってるのは河上社も同じで、やっぱり中世の文書量が前後と比較するとガクンと減ってます。

そうだ、基本的な事なんだけど現代人はピンと来ないので書いときますね。
明治以前は神仏習合ですので、神社には別院としての寺院がセットで付随してました。
カードで言えば表が神社で、引っくり返すと寺院。だから座主が両方を兼務するのは普通^^b
河上社の別院が実相院。
千栗八幡宮の別院が妙覚院。
おそらく往時の千栗妙覚院では、河上実相院の「如法経会」に匹敵する仏事が盛大に催されてたはず・・
と論文に書いてるけど、シオもそう思うな~だってでないと不自然なんだもん^^

論文では薩摩国で起きた一宮争いを参照として紹介してるんだが、さっぱりワカラン,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
で、千栗八幡宮衰微の決定的要因として、肥前国が東大寺造営料国になった事をあげてるけど、
多分、金銭的な圧迫(相応負担)があったって事なんだろうけど、それが千栗八幡宮にとって何がどう大変なのか具体的な事が書いてないので是もイマイチワカラン(-ω-;)ウーン

とにかく河上社を一宮とすべくプッシュしたのは、河上社11代目座主・辮髪だったそうだ。
11代目座主は鎌倉北条得宗家の専制体制確立と元寇という国家の大事に便乗。
「異国征伐の軍神=河上社祭神」であると強調し、一宮にすべく神格を押し上げたわけです。

これには河上社造営のために何としても予算確保したいって気持ちが嵩じての事だったようです。
肥前国が東大寺造営料国になった余波が河上社にも及んで、由緒ある神社には定期的にある造替が伸び伸び後回しにされてたから^^;

中世の文書~川上社激減・千栗八幡宮消失なので、ここから先は論文にないシオ推測です。
上記の経緯だけだと、さも河上社が独断で自称したみたいで、すぐ一宮争いに決着つきそうなものですが、そうは問屋が卸さない。

それは国衙(政庁)機能を有してた河上社が現実に肥前国一宮という待遇を受けてた・・・はずだからです

河上社の有する国衙機能を利用して肥前を支配するスタイルを完成させたのが、稀代の名将と謳われた九州探題・今川了俊です。
その後継者となったのが河上社の大宮司となった肥前千葉氏。

彼等、肥前国の支配者にとって河上社より権威ある神社仏閣があっては都合が悪いはずで、あくまでも肥前国一宮は河上社でなければならない。
中世の千栗八幡宮は何らかの圧力を受けてたと・・・・思うんだが、それを証明する文書がない件~(_´Д`)アイーン
とにかく、その時代の政治事情によって一宮の変遷があったため、どっちが一宮と一概に決めつけられなくなっちゃってるんです( ̄ω ̄A;アセアセ

>河上実相院の「如法経会」に匹敵する仏事
ですが、論文ではウッスラと窺える話が紹介されてました。
一宮争いで千栗八幡宮側では
「一宮社格の神号論拠を往古より今に至るまで千栗山が肥前国における廻国聖六十六部法華経奉納所であった事実を強調している点である
(「」内、論文よりママ引用)」
廻国聖とは法華経を六十六部書写して決められた霊場(奉納所=寺院)に納めるために行脚する事でして、
もともとは修行僧が行ってたのが民衆にも伝わりました(省略して行脚は6ヶ所も可)。
今じゃ殆ど見かけないですが、持ち物・装束やカンパで旅するスタイルは四国巡礼お遍路さんと、ほぼ同じです。
往時の千栗八幡宮では法華経に因んだ修行僧が集まる一大イベントが定期的にあったんじゃないでしょうか。

論文では(廻国聖が民間信仰として広く伝わったお蔭で)千栗八幡宮は衰亡しつつも民間信仰の聖地として命脈を保持しつづけた事は注目に値いする~という感じで結んでました。




期待してた中世(室町~戦国)部分がなかったのはショックでしたが、こればかりは仕方ないですね。

川上社が「肥前国一宮として台頭する」のと、
肥前千葉氏が肥前に土着し台頭するのは、密接にリンクしてます。

それは千栗八幡宮衰亡の歴史へと繋がることなんです。
千栗八幡宮に中世の文書があれば、探題・今川了俊との関係も含めて、もっと色々見えてくるんだけど~~残念!!

此処まで読んで下さった奇特な方・・・ありがとうございます^^
長くなるんで他の論文感想は、そのうちまたアップします^^
末筆ですが論文提供者様に心より感謝を述べて感想を終わりますm(__)m

【1・松浦(まつら)党~上と下と宗家と分家と】西肥前強化期間リサーチ9武家目

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文字投稿制限が2万文字になったそうですよ~
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北肥戦誌を見てたら・・・出て来た。

>下松浦・上松浦   

・・・・・・・・・・・・・・・松浦党にも上と下があるのか _| ̄|○ il||li


てことで、リサーチでつ~~~
松浦党は北肥前を中心に活動した大宰府の贄人たちの集合体です。
贄人とは「魚などを獲る人たち」であり、それを「御供物として治める人」でもあります。
彼らはやがて田畑を耕し勢力を広げ武士化して行ったのですが、単体では弱いので互いに結合し「松浦党」となりました。

だから鎌倉以前のことは不明で、その後は「基本は少弐の被官(紆余曲折はある)」
中心となったのが松浦氏なのだが、松浦党として諸氏が個々に動く場合もありで注意が必要。

南北朝では松浦氏は南朝となっている。(ただし親兄弟は北と南に別れて相克する)
室町時代には、松浦党の規約を定めて団結をさらに強化。

上松浦(地域)を中心として「波多・神田・志佐の諸氏からなる上松浦党」
下松浦を中心として「御厨・今戸・志佐・伊万里の諸氏からなる下松浦党」に分かれる。
戦国期を生き残るのが下松浦党所属で、宗家松浦氏の傍系である平戸松浦氏。

  ****【嫡流】相神浦松浦【江戸期旗本】****

松浦家祖は渡辺綱の曾孫ってことで、諱は武家には少ない一文字でして、
通字は?偏諱の場合は?ってシオにも謎です^^;

子沢山で子孫繁栄~「上松浦党」「下松浦党」も、そもそもが松浦氏から派生した庶家なんです。
「松浦党」は全部で48家or53家とも言われています。
一揆契諾して「党」となるあたりが、いかにも「板戸一枚下が地獄」の海の男らしい^^

分家の平戸松浦家が松浦義(平戸義)の時代に、足利義教の信任を受けて以来、宗家を凌ぐ勢力を保持するようになった。
そのため宗家である相神浦松浦と平戸松浦は激不仲。

戦国期は大智庵城が相神浦松浦の本拠地。
宗家相神浦は少弐氏がバックだったが、えっと色々あって地盤沈下。

平戸は明の商人を呼び寄せ貿易で利潤をあげ、経済的にも宗家を圧倒する。
最終的には力尽きて宗家相神浦は平戸に降り、平戸松浦氏が宗家の座をゲッツ(=^・ω・^=)v ブイ
その後、子孫を徳川家が拾い上げて旗本としたので、本家も武家としては残った。

  ****【分家】平戸松浦【平戸藩6万石】****

北松浦半島を制圧し、宗家を遂に屈服させたのは松浦隆信の代。
龍造寺隆信からの圧迫で一時キツかったが「沖田畷の戦い」で龍造寺が没落したために独立維持。

隆信の子・鎮信も戦国期の舵取りを誤らず、関ヶ原の難しい政局(鎮信は東軍だが、息子が西軍で伊勢攻めに参加)を乗り切る。

イメージ 1


記事タイトルを変更して再アップです^^;
過去記事はリサーチ不足な為、推敲が未熟で恥ずかしい~~~~それは・またの話 by^-^sio

【2・松浦(まつら)党~上と下と宗家と分家と】西肥前強化期間リサーチ9武家目

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有馬と大村関連のデータが薄いので確証に乏しいのだが、
西肥前戦国史でキーとなるのが、松浦(まつら)氏における宗家と分家の争いのように思う。

実は上松浦と下松浦の区別が未だに曖昧^^;
要するに地域別区分けなんだけど、佐賀県と長崎県にまたがるから何処から何処までを上と下に分けてたのか・・・ヽ(。_゜)ノ ワカランチン
とにかく京都に近い方が上になるんで、とりあえずザックリと佐賀県側が上松浦、長崎県側は下松浦になります。
肝心なのは、宗家と平戸(分家)の争いです。

明との交易で経済力をつけた平戸が、例の「万人恐怖&籤引き(神意で選ばれた)将軍・足利義教」の信任受けて宗家松浦と対等な立ち位置になった事から揉め始めた。
そういや肥前千葉氏が最初に分裂した時も、この足利義教が家督簒奪した弟を公式当主認定してたわ。
無能な将軍も困るが、義教みたいに果断すぎる将軍も、家督に介入された方は結局揉めるのよネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

まぁ、ここまでは家督アルアルなのだが、松浦氏の争いは少弐氏が絡んだので話が大きくなった。
少弐政資の孫娘が、宗家松浦氏に嫁いで縁戚関係だったそうです。
それと平戸松浦は、明との交易絡みで大内サイドでした。

1491年、有馬貴純による平戸松浦攻め

とあるのが一般的な扱いなんですが、
そもそもこれが有馬単独ではなく少弐政資が、千葉氏、龍造寺氏、高木氏を率いて参戦。
有馬貴純は有馬尚純、諫早の西郷尚善、大村純伊の連合軍でした。
詳細データが判らないんですが、介入したのは有馬が先でも、身分からいって総大将は少弐政資だったと思います。

だから・・・1491年、少弐政資と有馬連合軍による平戸松浦攻め・・・が正解,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
とにかくコテンパンにされた平戸松浦は城落ち延びて、筑前に更に山口へ亡命し大内の保護下に入った。
この戦いによる戦功で、有馬氏は少弐政資から領地を安堵されたとか(出典・詳細などは未確認)

有馬貴純は南肥前(島原半島の事らしい)で既に勝ち組だったんですが、西肥前に本格的に勢力拡大したのが、この戦いからだったそうです。
少弐政資が大内に敗れて少弐が没落したので「少弐政資と、連合軍」の部分が歴史的に割愛されました(-人-)☆彡

何しろ松浦党は53氏あったので彼等が宗家と平戸、どちらのサイドだったのかを全て調べるのは無理でした^^;

ただ一つ言えるのは、この1491年の合戦で松浦宗家サイドに馳せ参じた松浦党武家は

少弐政資の軍役に応じた事にもなるので「大枠で少弐被官」に分類されます

(自分が把握してる範囲では、宗家サイド~波多氏、鶴田氏です^^;コレダケ・・・)

以前自分は、偏諱(へんき=諱の一文字プレンゼント)はネコのマーキングと同じで、誰が誰の配下か一目瞭然だって言いました。
「軍役に応じる」もそうです。

「少弐政資の軍役に応じた=少弐被官」というマーキングは、数十年・・・いえ文献が残る限り消えません。
そして外交ルートは表面上無くなったように見えても、政治情勢の変化で復活します。

なぜなら少弐氏が「衰退⇒滅亡⇒リベンジ⇒プチ復活⇒また負けた⇒衰退(以下略)」のループを繰り返すからなのだが、それは・またの話 by^-^sio

【3・松浦(まつら)党~上と下と宗家と分家と】西肥前強化期間リサーチ9武家目

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最近読んでる「筑前戦国史(吉永正春)」によると、五州太守としてブイブイ言わせてた頃の少弐政資は、
守護代・宗貞国の下に博多代官を配置して、ダイレクトに朝鮮貿易なぅで稼いでたそうだ。(朝鮮側の記録)

1497年(明応6)4月19日、その少弐政資が大内に敗れて自害

翌1498年、少弐滅亡でチャンス~~山口に亡命してた平戸・松浦弘定が宗家・松浦政を攻め滅ぼす

ちなみに、平戸・松浦弘定の弘は大内氏からの偏諱です。
一文字諱の松浦一族ですが、偏諱受けると二文字の普通ネームになるみたい^^
逆に言うと、松浦一族で二文字諱の人がいれば、それは誰かから偏諱受けてる事になります。

平戸に滅ぼされた宗家は、正室と嫡男(親・ちかし)が人質にとられる大ピンチ!Σ(´Д`;)はぅっ
前回も話したけど、松浦宗家正室が、亡き少弐政資の孫娘(嫡男・高経娘)でした。
で、今度は宗家のリベンジの番^^b

人質(正室と若君)奪還は家臣の活躍ですが、松浦宗家復活と少弐氏復活はリンクしてます。
1512年に蜂起した松浦宗家と平戸・松浦弘定は、龍造寺阿波(安房?)守の仲介で和睦します。
蜂起された時、平戸・松浦弘定は、大内氏に同行し京へ上洛してて不在だったんです( ̄ω ̄A;アセアセ
この仲介した龍造寺阿波守が、龍造寺一族の誰にあたるのかが特定出来なかったil||li _| ̄|○ il||l

更に宗家・松浦親(←成長した若君)の実叔父にあたる少弐資元の奔走で、旧領復活に成功します。
それが1531年で、少弐資元が大内勢に勝利した「田手畷の戦い」の翌年の事です。

旧領復活した宗家・松浦親は、更に体制安定の為に少弐資元の息子を養子に迎えました。
一安心と思ってたら、1536年に少弐資元が(また)大内に敗れて自害  ガ━━━(゚ロ゚;)━━ン!!

宗家が復活してから、わずか5年後~~やべーーアタヽ(´Д`ヽ ミ ノ´Д`)ノフタ
松浦親、今度は有馬晴純から養子を迎えた。それが宗家・松浦盛です。
少弐氏から迎えてた養子・鎮が、どうなったかはシオレベルでは辿れませんでした

平戸松浦では弘定が1515年に没し、源三郎興信が当主でした。
はい諱が二文字ですね^^/
これは大内義興からの偏諱です(=^・ω・^=)v ブイ

平戸・松浦興信は、大内義興亡き後は大内義隆に仕え、朝鮮・明との交易で莫大な利益を得たそうです。
が、金があるからといって家中盤石とはいかなかった。

この源三郎興信は、亡き弘定が男子に恵まれず養子に迎えた甥っ子なんです。
でもって亡き弘定自身も長男でなくて次男でした。
長男(興信パパ)は他家を継いでて、まぁそれでゴタゴタ揉めて、兄弟和解の証として弘定は兄の子である興信を養子にしたって流れがありました。
1491年の宗家VS分家も、元の元は平戸の兄弟確執が始まりの始まりだったんです^^;ヤヤコシイ

そういう不安定要素が根っこにある中での1541年に、平戸・松浦興信が死亡する。

ちなみに松浦興信の法号は「高齢」で(ビックリ)なのだが

それは・またの話 by^-^sio

【終・松浦(まつら)党~上と下と宗家と分家と】西肥前強化期間リサーチ9武家目

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松浦興信が亡くなった1541年、嫡男・源三郎は12歳で元服も未だだったらしい。
若年すぎるということで相続で家中が揉めて、正式に相続したのは1543年だった。

大内義隆から偏諱を受けて、松浦隆信となる。
龍造寺隆信も大内義隆から偏諱なんで諱が被ったΣ(´Д`;)はぅ
お蔭で隆信と諱だけしか記載されてないデータは、前後で龍造寺か松浦か判断しなきゃならない^^;

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松浦隆信イメージ画像

平戸・松浦隆信は、宗家との攻防を繰り返すのだが、宗家のバックアップしてた有馬(有馬から養子・盛を迎えてます)の顔を立てて、1543年に和睦してます。

1550年、南蛮交易を始め鉄砲&大砲購入(明との交易で元々金持ち)交易による莫大な富を得て力を付けました。
宗家押しだった少弐氏は衰退したけど、有馬や波多が宗家と同盟関係で中々トドメを指すところまで行かない。
そこで平戸も味方を増やすために、後藤貴明と養子縁組による同盟を結んだわけです。

局面が変化するのは1562年(or1563年)ネタバレになるが有馬が龍造寺に敗れたからです

さらに宗家押しだった上松浦の波多氏も御家騒動でゴタゴタになり、宗家の味方は身動きとれなくなった。

1563年、平戸・松浦隆信による宗家攻撃が始まる

1564年に平戸・松浦隆信は嫡男・鎮信と諫早・西郷純尭の娘と縁組し同盟関係となり、更に勢力を広げる。
有馬からの援軍もないなか、宗家は3年間も抵抗を続けた。
有馬は1566年に最盛期当主だった有馬仙巌(晴純)が死亡し、勢力が徐々に衰えてました。
この3年間、宗家と平戸では細かい戦が複数あって、ちょっと辿りきれません^^;
で、龍造寺の隆信が仲裁に入り、宗家と平戸は和睦するのだが・・・実質は宗家が平戸・松浦隆信に降伏したんです。

宗家は平戸から養子・親(ちかし)を迎える事になり・・・シオが涙目になる。
つまりね。
降伏した宗家・松浦親==養子==松浦親(コッチは平戸・松浦隆信の次男)
親(平戸に降伏した養父の方)は困った・・・養子と諱が被るからではない。
有馬から援軍なしだったので、平戸に降伏する話も相談してないわけで・・・
ぶっちゃけると、有馬から迎えてた養子・盛の扱いに困ったんです^^;

やむなく親(平戸に降伏した養父の方)は入道して宗全と号して、完全隠棲する。
有馬からの養子・盛は、唐船城主として有田氏を継がた。
あ、有田の方は殆ど宗家に併呑されてた状態なんで無問題です^^b

平戸・松浦隆信次男、丹後守親が宗家・・いえ相神浦・松浦氏を継ぎ、遂に宗家と分家の地位が逆転する

(元宗家・相神浦松浦氏の当主が世襲する官位名は丹後守^^b)
元・宗家は1でチラっと書いたように、最終的には子孫が幕府旗本として残ります。

1568年、新宗家・松浦隆信嫡男・鎮信(数え二十歳)が家督を継ぐ


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松浦鎮信イメージ画像

武家の子弟は二十歳前後で家督を譲られる慣習でした。
諱は大友義鎮(宗麟)からの偏諱です。
父・隆信は1599年関ヶ原直前まで長命(死亡時80歳)し、実権を握り続けたそうです。
とはいえ鎮信は無能じゃないです。関ヶ原の難しい政局の舵とりしたのは鎮信ですから^-^

新宗家・平戸松浦は、龍造寺の台頭で配下になるのを余儀なくされますが、龍造寺が沖田畷で敗れたので再び自立。
九州の役、朝鮮の役、関ヶ原を乗り越え平戸藩として明治まで完走します。
さて、まとめ~ラストは松浦党最大の勢力だった波多氏なのだが、それは・またの話 by^-^sio

辛口感想「龍造寺氏の戦国大名化と大友肥前支配の消長・堀本一繁」

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まず初めに、自分は堀本氏の論を全否定してるわけではありません。

耳川の戦いで大友氏が敗れるまで、大友による肥前支配は続いていた

この骨子には異論があろうはずがなく、全面的に同意です


【今山合戦は後世の編纂物による過大評価されて、間違った史実が創作された】
近年の研究で「今山合戦は局地戦であり、龍造寺隆信が大友宗麟に降伏したのが史実である」
というのは少なくとも戦国史ファンには、かなり流布されつつあるかと思います。

ただ、大友による肥前支配の傍証になるはずの「肥前国人の動向」に関し「少し違うのではないか」
と思い、感じたところを述べたいと思います。
(以下、論文より引用部分は緑枠文字で表記)

当方の参照文献は「北肥戦誌(九州治乱記)」「三瀬村史」「富士町史」「実相寺文書」




天文5年(1536年)7月9日付龍造寺民部大輔宛大友義鑑知行充行状である。
義鑑が龍造寺胤久に筑後国内の所領を充行った(中略)
(巻末参照より:加判衆連著施行状発給は8月28日)
この頃、胤久と筑後方分 入田親廉との間で進物贈答もみられる。

論文では、この事実をもって「肥前国衆への軍事動員の事実と、その服属化を裏付けるものである」と結論を導いているが、
では具体的に、どの戦で大友氏が肥前国衆を軍事動員したのでしょうか。

この年に大内義隆は「大宰大弐」に任官され、秋に陶興房と(東)千葉興常が動員され、9月初めに少弐攻撃が始まってます。
少弐資元が自害したのは9月4日。
陶興房が帰国したのは10月29日。
この間、龍造寺は動いていません。
ただし、少弐再興に関し、大友義鑑が龍造寺胤久に相談をしています(月日不明)

大友義鑑が龍造寺の実権を握る龍造寺家兼でなく、村中宗家当主・龍造寺胤久に接触した思惑は自分にも判りません。
また、龍造寺胤久は天文8年(1539)に40歳という壮齢で死亡しています。
胤久に充行った筑後国内の所領は、18代目である胤栄に相続安堵されたのでしょうか?
18代目当主は、父と同じく西千葉氏から偏諱を受けており、肥前千葉氏被官であるスタンスは崩れていません。
次世代への継承がなされてなければ、義鑑が胤久に充行ったのは政治的思惑から来た一過性のものという事になるのではないでしょうか。

肥前では永禄2年(1559年)1月、少弐冬尚が龍造寺隆信・神代勝利・江上武種の共謀によって、討滅されるという事件が発生した。

江上に関しては「少弐を裏切っていた」という話もあるので判るが、
神代勝利を仲間にしている根拠は何でしょうか?

大友氏はこの肥前の争乱にも積極的に介入し、敵勢力を駆逐して同年9月には、隆信・勝利に対して
「一、此の一着以後、小城・佐嘉・神埼・三根四郡之間、為 上意、為三老、向後聊不可あり違儀事」
と、所領安堵を約している。

この年は筑紫惟門が博多に侵攻し、それに呼応した秋月種実が古処山城で籠城しています。
鎮圧の為に出兵したのが田北鑑生であり、この9月時点では未だ筑前の謀反は鎮圧されていません。
大友氏にとっては、一にも二にも博多の安全が最優先のはずです。

ただし戦線が膠着した田北鑑生は陣を移動し、肥前を窺う姿勢を見せました。(8月28日)
この豊後勢の動きに対し、龍造寺隆信は和議を申し出てます(9月15日)
和議は田北鑑生に受け入れられており、文中にある【此の一着】とは、この時の和議の事を指すのではないでしょうか。
田北は和議が調うと、すぐに筑前へ戻り再び秋月の古処山城包囲に戻ってます。(後に秋月・筑紫共に降伏)

大友氏が大内義隆の死亡を契機に九州支配に乗り出したのは、衆目の一致するところです。
ですが、引用される肥前情勢が、あまりにも前後を端折られすぎてて、首を傾げざるをえない。

永禄元年(1558年)12月3日には、龍造寺隆信・神代勝利・江上武種の三名が少弐冬尚を誅伐するにあたり
その成功を祈願して共同で(川上社)の遷宮を行うことを誓約した。

これは蓮華院住持・増純を仲介に千葉・少弐・龍造寺・江上・神代で和議をした時の起請文です。
起請文が「龍造寺山城守藤原隆信」・「神代大和守武辺勝利」・「江上左馬大輔大蔵武種」の三名なだけです。

この頃の川上社は戦火で荒廃し、御神体は実相院に避難してました。
遷宮の件は「川上社再建を悲願とした増純」が和睦の条件として盛り込んだものじゃないでしょうか。

この二日前の12月1日まで、龍造寺隆信と少弐の援軍として駆けつけた神代勝利は合戦してるんです。
たった数日で、どういった経緯で、敵対していた龍造寺と神代と江上が、共謀して少弐誅伐という事になるのか、さっぱり理解できません。
さらに神代勝利側の記録には、少弐を裏切っていたような記述はありません(但し大和町史・背振村史は未確認)

その後の論文では、寄進の記録を列記してますが、その中に共謀してたはずの江上氏の名前がありません。
共謀して誓約したのなら、江上も寄進してなければならないはずですよ。

・永禄13~隆信~宝殿
・元亀3~神代長良~南大門を造営
・元亀4~鎮賢(政家)&神代長良~門・御供屋
・天正3~鎮賢(政家)~拝殿

南大門は川上合戦で戦場となった場所です。
神代長良の異母弟、一族、家臣多数が討死しており、その慰霊と川上社領を神代本陣として使用した事への謝意から来る寄進ではないですか?

元亀4年の寄進は実相院文書に残る棟木(写)によると、願主は増純です。
共謀による誓約ならば、願主は三名のいずれかになりませんか?
寧ろ、これら一連の寄進は、増純による川上社再興運動の啓蒙による影響が多分に含まれているのではないですか?

繰り返しますが、自分は大友肥前支配を否定していません。
耳川の戦いで敗れて大友が衰退するまで、大友の肥前支配体制は機能してました。
氏が論証されたように、龍造寺と敵対する肥前国衆は、大友に訴え調停を願い出ています。

守護職にして九州探題である大友氏は、国衆の揉め事に対し調停・裁定しうる権限を有しており、
従わない者に対し軍事力を行使する実力も権能も有してます。
さらに博多支配と、文字通りの九州王です。

その大友という高いハードルをクリアしなければ、戦国大名化したとは言えないと言うのなら、
耳川の戦い以前に、島津も含めて九州において戦国大名化した国衆は一人もいなかった事になります。

戦国大名の定義は未だ定まっておらず、ケースバイケースが多過ぎて到底一律に線引きできるものではありません。
ですから大友氏だけを線引きの対象にするのは、極論のように感じます。

1563年、龍造寺隆信は少弐氏の居城だった与賀城を破却し、その上に龍泰寺を建立しています。
与賀城の鬼門を鎮護していた与賀神社は、龍泰寺の鬼門の鎮護へと変化しました。
少弐冬尚本人を亡ぼすだけでなく、主家の事跡を滅するという行為。
龍造寺は1563年時点で、紛れもなく下克上を果たしています。

大友に対し龍造寺隆信本人は偏諱を受けてません。
隆信の近親者が府内へ人質として出仕することもなかったです。
大友家臣が忠誠を誓う儀式たる豊後参りもしてないです。

時には大友に従属し、時には形上で安堵を受け、恭順しているようで大友の調停には従わない。
彼我の実力差は途方もなく大きい。
けれど、それでも龍造寺は大友相手に虚虚実実の外交戦を展開していた・・と言うのは、身贔屓に過ぎるでしょうか。
龍造寺における戦国大名化の時期に対しては、耳川の合戦でもなく、今山合戦でもなく、もっと細かい検証を要すると自分は考えます。

最後に素人で県外在住である自分には、これら一次史料を目にする機会は、ほぼありません。
地元図書館ですら佐賀県との提携がないので、史料は借りられない。
ですから一般に公開されてない一次史料を新たな知識として自分が得るには、こうした論文を糧にするしか方途がありません。
典拠とされた膨大な史料の数々には、ただただ圧倒されるばかりです。

辛口でしたが、大友の肥前支配に関するDATAは少なく、肥前方分の任命期間もハッキリしてません。
その中で、これだけ纏まったものを見たのは自分も初めてで、堀本氏の労苦には心から感謝したいと思います。

さらに末筆になりますが、この論文の存在を御教示下さったブログ友様への御礼を述べて、感想を締めくくります。

アカン、風邪が治らん

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回復するまで、更新をサボり、、、もとい休みます。

訪問と返信は体調と相談してボチボチ行きますので、
よろしくお願いします。m(_ _)m

【肥前後藤氏・六~貴明・4】西肥前強化期間リサーチ8武家目

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ひ~~~
松浦と波多と渋江と後藤の点在するデータを時系列に組み直すので、脳みそ沸騰しそう!!

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有馬が敗れた龍造寺との戦いは、1562年説と1563年説の二説あります。
後藤貴明が打倒・大村純忠に向けて動いたのが1563年なので、1563年だったのかもしれません。
(てか、これだけ大物同士の激突で年代が二説ある肥前って・・・( ̄ω ̄A;アセアセ)

とにかく直接のキッカケは大村純忠の受洗でした

受洗の動機は「南蛮との交易」とか「勢力拡大してきた龍造寺へ対抗する為」とか、色々あるようです。
とはいえ傾倒ぶりは大友宗麟とイイ勝負で、こういう場合に迷惑を蒙るのは家臣なのも一緒。

大友純忠・・・じゃなかった(爆)大村純忠は、熱心なあまり領内の神社仏閣を破壊し、家臣へも改宗を迫ったそうです。
この手の話は、どこまで信憑性があるのか、判断しようがないので困る^^;
でも神社仏閣が破壊されたなら、大村関連データが乏しく大村藩史を検証しようがないのも頷けます。
何といっても神社仏閣は一次史料の宝庫ですから。
で「家臣へ改修を迫った」も全くの中傷デマではないかもです。

何故なら、純忠の受洗に反感を覚えた大村家臣が、大挙して武雄・後藤貴明に寝返ったからです

後藤貴明は大村家臣の寝返りで、大村領であった北部波佐見、川棚、彼杵を労せずしてゲッツ(=^・ω・^=)v ブイ

いずれも東彼杵郡の土地で、後藤が手にしたのは総面積のザックリ1/4くらいでしょうか。
波佐見の北部というと、武雄市に近い方ってことでしょう。
いやそれよりも川棚町と彼杵町です。
そこは大村湾に面した土地・・・後藤貴明は大村エリア内の港を手に入れたんです!ゎーィ♪ヽ(*´∀`)ノ
佐世保湾の奥にある南蛮交易港・横瀬浦を狙える位置に足場を確保。

1563年7月、後藤は大村家臣にクーデターを起こさせ、自らも出陣して大村領の平定を試みるがコッチは敗退^^;

針尾島に兵を出して佐志方城を攻め落とし、かつ、佐世保、日宇、早岐、針尾島の四ヶ村もゲッツ

ちなみに、この針尾島の南端に、現在のハウステンボスがあるんでつ( ̄ko ̄)

同年7月27日、後藤に寝返った横瀬浦奉行・針尾伊賀守とともに貿易港・横瀬浦を焼き討ちし、港として使えなくしちゃいました


この勢いで憎い大村純忠の首を~~~~~~~~と行きたいところに「待った」がかかる。
龍造寺の肥前須古城攻略が始まったからなのだが、それは・またの話 by^-^sio

【前篇・陸(おか)の松浦(まつら)党】西肥前強化期間リサーチ10武家目

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え~鼻かぜが鼻炎になりまして、ただいま漢方薬から抗生物質にクラスチェンジなぅ。
薬効のせいか、頭が冴えて来たんで復活します^^
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まず松浦党(53家)のザックリとした区分け~
・上松浦~佐賀県側
・下松浦~長崎県側(一部佐賀県にまたがる)
(上下の区別基準は、京都に近い方が上、遠い方が下)

で、上松浦で松浦党最大の勢力だったのが、波多氏。
松浦党=水軍のイメージだが、実は波多氏エリアは海に面してない為、港がない。

本城:岸岳城(佐賀県唐津市北波多稗田)
・・・・実は、ここ・・・知る人は知る超心霊スポット・・・(((((( ;゚Д゚)))))ガクガクブルブル
遊び半分で遺構を訪問しないようにね!(-人-)☆彡

岸岳城は標高300mの岸岳山頂にある連結式山城。
岸岳は非常に峻厳な山ですが、現代では道路整備されてるので遺構まではスンナリ行けます。
で、日常の居城としは2kmほど離れた波多城を使ってました。

他の港を持つ松浦党が交易で利潤をあげてるのにひきかえ、
エリアが内陸の波多氏は、思うように分け前が手に入らなかった。

1472年(文明4)波多氏は隠岐島を襲って支配下に治め、隠岐島(←え?)を海外交易の拠点として・・・
データ見間違い壱岐島(長崎県)だ!,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
ゲホグホ・・壱岐島を海外交易の拠点として財をなし、上松浦地方の首領と仰がれるまでになる。

波多氏の系図は色々混乱してて、見れば見るほど判らなくなるという状態^^;
とにかく波多氏が最も勢力あったのが、下野守興の代。
1518年、宗家・松浦親は波多興の娘を正室に迎え同盟関係となる。

波多興の跡目は盛(さこう)が継ぎ、盛は後室に有馬晴純の娘(or孫)真芳を迎えていました。
つまり宗家・松浦は、有馬(養子縁組)波多(有馬の姫と婚姻関係)と二重三重に同盟関係を強化して、平戸・松浦に対抗してたんです^^b
この関係に綻びが出るのは波多氏からでした。

1547年(別説有り)実子がないまま波多盛が没した事から御家騒動となる

未亡人真芳押し~実家である有馬晴純の孫藤童丸(後の親)
波多一族~~~~亡き盛の弟・志摩守の息子3人のいずれか

1557年、未亡人強行突破~藤童丸を独断で後継として岸岳城に迎える


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(大人の波多鎮~後の親)

元服した藤童丸は大友義鎮から偏諱を受けて、「波多下野守鎮(しげし)」と称し家督を継いだのだ、それは・またの話 by^-^sio

【後篇・陸(おか)の松浦(まつら)党】西肥前強化期間リサーチ10武家目

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洗濯機凍った~~~~~~~~,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
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宗家に、有馬からの養子に、波多に・・・親(ちかし)多すぎ!!

これだから一文字諱ってやつは・・・・ブツブツ




実弟系譜に男子がありながら、未亡人のゴリ押しで有馬から養子を迎えた事で、波多氏は家中が二分する。
さらに上松浦一族全体が、有馬から養子を迎えた事に猛反発した。

1564年(永禄7)未亡人真芳は、反対派の中心は日高大和守資であろうとして、資を城中で毒殺

実は松浦サイトによると1556年に平戸・松浦隆信が、波多の岸岳城を表敬訪問してるんです。
更に1559年にも松浦隆信が岸岳城に訪れ51日間滞在し、日高資と喜親子と交友してました。
未亡人真芳は、平戸・松浦が動いた事で日高が何事か企んだと思い、先手を打って日高を殺したんじゃないでしょうか。

案外、波多氏内部を更に揉めさせるのが目的で、平戸・松浦隆信は岸岳城に長期滞在したのかもだな~
松浦党最大の勢力だった波多氏が宗家サイドである限り、平戸は宗家攻撃に踏み切れなかったからです。

さらに未亡人真芳、家中を掌握するため、重臣から人望を集める鶴田直を取り除くことを企てた

同年、今度は鶴田直を岸岳城に招きその帰途を急襲して殺害する


くどいようですが、1562年(or1563年)に、有馬が龍造寺に敗れた事が各方面に影響したんです。
以前のように実家の勢力を背景にしづらくなって、未亡人真芳は焦ったのだと思います。

ですが、鶴田氏まで殺ったのは、やりすぎ・・・( ̄ω ̄A;アセアセ
もしくは禍根を断つために、いっそのこと日高息子・喜も殺るべきでしたな ( ゚Д゚)y─┛~~
(((((( ;゚Д゚)))))ガクガクブルブル・・・重臣の有浦氏は、この状況に耐えきれず岸岳城からトンズラ。
(有浦は未亡人から勘気を蒙り所領没収されたとか^^;)
(没収時期は鶴田殺害前だとか、史料によってゴニョゴニョ~)

一方、毒殺された日高の嫡男・喜は、以前と変わらぬ風情で出仕してたそうです。
で、未亡人真芳が油断した頃に、当主を殺された日高・鶴田がタッグを組んで反撃!
まだ若年だったらしい波多鎮(後の親)は、岸岳城を追放された^^;

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波多鎮(=親)家紋別バージョン

日高喜は鶴田を上松浦の頭領として祭り上げ、勝手横暴専横の振る舞いをする。
鶴田は閑居してた有浦に「コッチに味方したら、有浦を≪安堵・して・あげる≫」よ~」と誘いをかけた。
頭領面して上から目線で言われた有浦は「わが家と鶴田は本来同格!カチーン★(-ω-#)ビキビキ」となった。
有浦大和守高は「事、ここに至っては下野守鎮(=親)を当主とするのが筋である(`・ω・´)キリッ」と値賀・青山らによびかけ、波多鎮復活運動を開始。

1569年、波多鎮(=親)は龍造寺&有馬の支援を受けて岸岳城に復帰する

武家家伝サイトでは「岸岳城を占拠していた日高喜を壱岐に追い出すことに成功したのである」とあるが、
シオは逆だと思う・・・日高を壱岐に逃がすべきじゃなかった。

1472年に波多氏が壱岐島を支配下に治めた時、初期の壱岐代官は日高一族だったからです。
地の利・人脈・胆力もある日高喜は、たちまちのうちに壱岐島における波多勢力を駆逐し占拠。
交友のあった平戸・松浦隆信配下となる。

波多鎮は、数年後に日高ら残党派と何とか和睦するんですけど、一連の騒動・戦で波多氏の勢力は大きく減退しました。
若年で御家騒動に巻き込まれた波多鎮(=親)には、本当に同情します(´;ω;`)ウッ
散々引っ掻き回した未亡人真芳の没年など、その後はシオレベルでは不明です。
まぁ波多鎮から見れば義母なので、最期まで粗略にはされてないでしょうね。

波多鎮は、岸岳城復帰に尽力してくれた一人である青山采女から妻を迎えていました。
ところが龍造寺隆信からの圧力で悲劇がおきるのですが、これは本編で紹介しますね^^

波多鎮は龍造寺隆信から偏諱を受けて、一時期「信時」と名乗ってて「親(ちかし)」に改名したのは、その後のようです。
従五位下三河守任官は秀吉から推挙された正式なものです(天正16年)。
もちろん波多一族の力を、来たるべき「唐入り」に利用する為だったんですが、波多親はイマイチ理解してなかったっぽい。
龍造寺との時も味方になったり敵対したりとフラフラで、どうも決断力に乏しい性格だったようです。

波多氏は上松浦衆の頭領・・・いわば山内の英雄・神代勝利の海バージョン。
こういう○○衆の頭領って、神代勝利公のように個人的カリスマがあるか、大きな後ろ盾があるかでないと纏めるのは並大抵の事ではありません。
ましては波多親は、他家からの養子なんです。

波多親のブレは、頭領として一族をまとめる事の困難さの表れでしょう。
波多氏の没落で上松浦衆諸氏も離散の憂き目となります。





さて、ほんとの事を言いますと、やりだせばキリがないのがリサーチです^^;
佐世保戦国史や隠岐島などなど多数あり、自分のリサーチは極一部なんです。
が、有馬と大村関連の欠落が多いだけでなく、各武家も不明な点が多いため全体の流れを掴む程度で留める事にしました。

一つ言えるのは、西と東の戦国が大きく交差し始めるのが、現在中断してる佐賀戦国史本編の1562年(or1563年)有馬VS龍造寺だと言う事です。
少弐氏が衰退した事により、東肥前で台頭したのが龍造寺で、西肥前で台頭したのが有馬氏です。
東西決着は「沖田畷の戦い」になるのですが、それは・またの話 by^-^sio

【鶴田氏~1・松浦(まつら)最前線】西肥前強化期間リサーチ11武家目

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ふんふんふん~♪浮かれてます。

今まで書いてなかったけど、実は松浦党のなかで自分が一番好きなのが鶴田氏なんです 川* ̄д ̄*川ポッ 
動機は例によって単純で「獅子ヶ城」のネーミングセンスが(・∀・)イイ!
そういう意味では草野氏の鬼ヶ城も悪くない・・・ゲフゴホ

とはいえWEB上では鶴田氏のデータが少なくリサーチを断念してたんですが、
伝手で論文~鈴木 敦子著「肥前東松浦地域における国人領主鶴田氏の動向」が入手できたの~(*´pq`)ウフフ
まだ脳に浸透しきってないですが、頑張ってまとめてみます。






さて松浦党が上と下に別れてるのは何度か書きました。
下松浦でブイブイいわせてるのが、交易でガッツリ&宗家を圧倒する実力の平戸・松浦氏。
上松浦で、衰退する松浦宗家を支え、交易でガッツリ~盟主として頭角を現したのが波多氏。

鶴田氏は波多氏から派生した一族で、波多氏重臣です。
ただし単なる家臣ではなく、自立した勢力として単独行動もします。

これは鶴田氏に限らず、国人領主の連合体としては全国どこでもある、ごく一般的な事です。
例えば、神代氏が盟主の山内26豪族で最大勢力である杠(ゆずりは)氏は、単独で少弐氏や肥前千葉氏から領地安堵を受けてます。

山内勢が26豪族なのに比して、松浦党は53氏と二倍の規模でして、シオが何処から手をつけたら良いのか涙目になったのは御理解いただけるかと思います。


話変わって龍造寺が西肥前を攻略する場合、初めに突破しなければならないのが六角川防衛ライン。
そこは馬渡氏と須古城・平井経治が護ってましたが、その平井経治と同盟してたのが、武雄の後藤貴明です。
その武雄・後藤貴明と同盟してたのが、平戸の松浦隆信でした。

防衛ラインの外交関係を簡単に書くと↓

馬渡氏←(偏諱)←平井経治←(政略結婚)←後藤貴明←(養子縁組)←平戸・松浦隆信

ここで話が複雑になるのは「馬渡~平井までが有馬サイド」で「後藤から平戸松浦が反有馬サイド」な点です。
これに松浦党の宗家と分家(平戸)の争いが絡み、有馬との複雑な縁戚関係により人間関係ドロ沼です^^;
そんな彼等を協力させていたのは、ひとえに「VS龍造寺」という共通項。

で、その龍造寺が六角川防衛ラインを突破し、松浦地方を攻略しようとすれば、最前線となるのが鶴田氏(と草野氏)でした

平戸の松浦隆信は複雑な縁戚関係とは無関係で、かつ松浦党53氏全体にとって重要拠点の護りを担う鶴田氏に接触。
鶴田氏は平戸・松浦隆信と武雄・後藤貴明との仲介というキーパンソンの役割をしてます。

これは盟主である波多氏の頭越しに、鶴田氏が独自の判断でダイレクトに行ってる外交交渉でした。
波多氏と鶴田氏が揉めたのもあるんですが、それ以上に龍造寺隆信からの圧迫が強くなってたからです。

龍造寺の侵攻を度々防いでいたレオン・・・もとい獅子ヶ城は、鶴田分家の方^^b
鶴田宗家は日在(ひあり)城で、実は侠客元祖・幡随院長兵衛は鶴田宗家・家臣の子だったのだが、それは・またの話 by^-^sio

【鶴田氏~2・両鶴田誕生】西肥前強化期間リサーチ11武家目

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上松浦最大勢力である波多氏から派生した支族・鶴田氏。
松浦党なんで、もち一文字諱^^b

鎌倉時代、元寇での活躍により佐里・泊・牛牧などの所領を安堵される。
南北朝~室町期の動向はハッキリしておらず、松浦党一族として一緒に行動してたんじゃなかろうか~
と推測されてます。(松浦党そのものは北朝方)

1494年(明応3)、少弐政資が筑前高祖城を攻撃した時に、惣領家波多氏、相知・有浦らと共に、鶴田氏も少弐氏の求めに応じて出陣してたそうです。

記録としてハッキリしだすのが天文年間で、鶴田因幡守伝の代です。
ちなみに鶴田氏宗家が継ぐ官位は因幡守^^b
伝には5人の息子がいました。

で、日在(ひあり)城主・大川野氏に後継者が絶えて、伝の嫡男・直(ただす)が大川野氏姫と婚姻し日在城を継承した。
嫡男を婿養子?かと思いきや、そうではなくて鶴田氏は拠点そのものを日在城に移したんです。
どうやら大川野氏は鶴田氏に乗っ取・・・ゲフゴホ・・・吸収されたみたい^^;

松浦党では、少弐だったり千葉だったり龍造寺だったり、とにかく東肥前の勢力が度々侵攻してくるのを防ぐため、
協議した結果、廃城だった獅子ヶ城を防衛拠点として再構築する事になった。
これが後に「両鶴田」と呼ばれた日在城・鶴田(宗家)と獅子ヶ城・鶴田(分家)誕生の経緯です。

獅子ヶ城を再築城して入ったのは、「仁・智・武」の三徳を兼ね備え、龍造寺の侵攻を度々撃退した勇将・鶴田越前守前(すすむ)!(`・ω・´)キリッ

(人´∀`).☆.。.:*・  (人´∀`).☆.。.:*・  (人´∀`).☆.。.:*・
これシオ依怙贔屓のオーバーな表現でなく、前(すすむ)の仁政を恋しがった領民が、彼の死後に鶴田氏を祀る鶴田神社を建立したほどです。

獅子ヶ城(唐津市厳木町浪瀬)は、標高193mの低い山に築城されてるんですが、周囲が物凄い断崖絶壁。
二の丸周囲なんかは「垂直に切り立った岩」に囲まれてました。( ̄ω ̄A;アセアセ
この天然の要害に龍造寺は剛忠(家兼)の代から、てこずってます。

http://blog-imgs-49.fc2.com/s/i/o/siori20120901/20121201204642038.jpg
久々に出たけど負ける話に渋い顔な家兼・爆

例の少弐の龍造寺抹殺計画で、少弐は偽りの有馬討伐(実は裏で有馬と組んでた)を剛忠(家兼)に命じます。
で獅子ヶ城が裏切ってるからと偽情報を流し、龍造寺勢に攻撃させました。
獅子ヶ城は、いったん落ちるけど、即・奪い返され~と、中々落とせないので、龍造寺勢は兵を分散し波多の岸岳城や鶴田の日在城を攻撃しようとします。
で、兵力分散したところを波多に前後を挟み撃ちされて、龍造寺は一族を多数討ち取られました。

とにかく少弐&有馬が「龍造寺の勢力を削ぐための囮城に使おう(・∀・)ピコーン★!」と思いつくほど、獅子ヶ城は要害だったんです~川* ̄д ̄*川ポッ 

ちなみに龍造寺では、獅子ヶ城の「一度は落ちるけど奪い返される」を隆信の代でもやられてます^^;
天然の要害だけに、獅子ヶ城には鶴田一族しか知らない秘密の抜け道があったんじゃないでしょうか。

秘密の道と言えば、鈴木敦子先生の論文によると、宗家鶴田の日在城と分家鶴田の獅子ヶ城には「直道」と呼ばれた連絡ルートがあったそうです。
「鶴田勝書状」には「平山(地名)まで遣い出すなら直道通すね~」てな感じで書かれてて、連絡ルートは日常的に使われてたそうです。

獅子ヶ城と日在城は直線距離で約7km離れてるんですが、この連絡ルートにより宗家と分家は「両鶴田」と称されるほどの緊密かつ一心同体として行動を共にしてました。

その「両鶴田」が盟主&総領家である波多氏と離れ、独自の外交路線を歩むキッカケが、
波多未亡人・真芳による鶴田宗家当主・直(ただす)謀殺だったのだが、それは・またの話 by^-^sio

【鶴田氏~3・波多氏との対立】西肥前強化期間リサーチ11武家目

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風邪、ようやく治って来た(*´pq`)
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兄・直が謀殺されたのを知った弟・鶴田前(すすむ)は、岸岳城を攻めたが要害堅固な岸岳城を落とす事は出来なかった。
が、この時の果敢な攻めにより、鶴田越前守前の武勇は一気に全松浦党の知る所となり、御家騒動で衰退した波多氏に代わって頼みとされるようになる。
つまり平戸のドン・松浦隆信が、ダイレクトに鶴田氏に接触するような立ち位置になるんです^-^

鶴田宗家は、直と前の弟・勝が嗣子となって継いだ。
直には息子が二人いたのだが、直は若くして謀殺されてるので、未だ幼かったんでしょう。
鶴田氏の実質的な惣領は鶴田前だったらしく、鶴田勝は前回話した「直道=連絡ルート」を使い、大小何事も優れた兄と相談してたようだ。

1564年(永禄7)暮れに日高喜(このむ)が謀反を起こして岸岳城を奪い、波多未亡人・真芳と有馬から迎えた新当主・波多鎮をo( ̄Д ̄θ★ケリッ! と城から追い出した。
これは喜の父・日高大和守資(もとし)を未亡人・真芳が邪魔ものとして毒殺したからと言われてるんですが、詳細はハッキリしてないそうです(一次史料で検証するまでに至ってない)

未亡人・真芳と波多鎮は草野氏を頼って亡命しました。
で、波多氏リサーチでは武家家伝サイトに紹介された話に準拠したんですが、これ実は真偽ハッキリしてません。

通説だと日高&鶴田が岸岳城を占拠し、やりたい放題して義憤にかられた有浦が有志を集め波多鎮復帰運動した~
って流れになってます。
ただ仁徳を慕われた鶴田前(すすむ)の性格を考えると、弟(鶴田本家当主)勝が暴慢な振る舞いするのを看過するタイプじゃないんだよな~

鈴木先生の論文ですと、波多復帰運動してたと言われる有浦氏の「有浦文書」では、日高と鶴田が岸岳城を占拠してるような記述が見当たらず。
そもそも波多鎮が岸岳城に帰還するのを、日高と鶴田が反対してるような雰囲気もないらしい。

年不詳ですが有馬義純・義貞が連著で有浦に対し書状を送ってます。
ぶっちゃけた内容は「ゴルァ!!!(# ゚Д゚)・;'.波多鎮が岸岳に戻れるように取り成せ!」と圧力かけてるんです。

かつて有浦氏は未亡人・真芳の勘気を蒙り出入り禁止・所領没収されてた時期がありました。
それを獅子ヶ城・鶴田前(もしくは亡き鶴田直)が取り成し従前通りになるように計らったそうです。
ですが、波多と鶴田&日高が対立した時に、有浦は鶴田に味方せず騒動から距離を置きました。
このあたり有浦氏は心中モヤモヤがあったのかな~って推測してます。

鶴田氏から受けた厚意を公式に「御恩」としてしまうと、有浦氏は鶴田氏の下風にたつことになりかねません。
このあたりが同族による連合体の難しさでしょう。
有浦氏が今まで通りの立ち位置をキープするには、波多氏という総領を戴く必要があるんです。

そのあたりの空気を、有馬氏に見抜かれてしまい、書状で圧力かけられた。
それで有浦は波多鎮を迎えるべく働きかけた・・・てのが真相に近い気がします。

この波多氏のゴタゴタに、平戸・松浦隆信が大いなる関心を抱いたのは言うまでもないだろう。

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平戸・松浦道可(隆信)

1570年(永禄13)3月24日、松浦道可(隆信)・鎮信親子が、鶴田因幡守勝(日在城・鶴田本家)宛に出した起請文がある

1)後藤貴明に同心し、波多鎮については帰還なくば鶴田勝に今後無沙汰はしない事
2)波多鎮とは今後入魂にはならないと約す

反波多(=反有馬)として、平戸・松浦と両鶴田が同盟関係となったんです。

1573年(元亀4)3月吉日、日高喜(このむ)が一族と連著し両鶴田氏宛に起請文を出す

両鶴田と日高間で友好関係を結ぶこと
両鶴田・日高氏、共に波多氏に与しないこと

鈴木先生は、もともと同盟関係だった両家が改めて起請文を出したのは、龍造寺による松浦地方侵攻が現実のものになってきたからと解釈してます。
自分も同感です。
日高喜は花押だけでなく血判もしてます( ̄ω ̄A;アセアセ

龍造寺のターゲットは今山合戦で大友方についた、波多・鶴田・草野の三氏。
波多と鶴田が対立せずに連携してたら、歴史は違ったでしょうか。
龍造寺の侵攻が本格化するにつれ、龍造寺に対抗する勢力間での起請文の数が急に増えだすのだが、それは・またの話 by^-^sio

【鶴田氏~4・近づく最前線】西肥前強化期間リサーチ11武家目

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風邪~あと鼻声だけ~長かったわ~
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元亀元年(1570年)今山合戦で何とかピンチを脱した龍造寺のターゲット。
それは大友に与した波多・草野・鶴田ら「三氏への報復」という大義をかざした西肥前侵攻でした。





鶴田氏は上松浦一族の盟主である波多氏と対立。
かつて龍造寺勢を撃退した時のような、連携した軍事行動は望めない。

てか「鶴田宗家当主である兄を謀殺した波多とは【絶対に】与しない!(`・ω・´)キリッby鶴田越前守前&鶴田一族」
というほど関係が拗れてました( ̄ω ̄A;アセアセ
そこで鶴田氏は、反波多の旗頭であり松浦一族実力のドン・松浦道可(平戸松浦の方)と同盟する。

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 松浦道可(隆信)イメージ画像

平戸松浦氏との同盟が永禄13年(1570年)3月24日。
大友が6万の大軍で龍造寺討伐のために肥前へ侵攻した頃です。
ちなみに大友では必勝を期して、筑後側から有明海の海上封鎖もしてました。

少弐による一族抹殺の時もですが、「龍造寺が、このピンチを生き残るのは無理だろう」と周辺国衆の誰もが思ってた筈です。
ところが意外にも戦線が膠着し長期化、局地戦では夜襲で龍造寺が勝利してしまい、大友と龍造寺は9月末に和睦し10月には陣を引き払っちゃう。ヽ(。_゜)ノ へっ?

もちろん和睦と言っても内実は龍造寺の敗北でして、龍造寺側から人質が出されてます。

ところがです。
龍造寺から大友に出された人質は、すぐ返されてるみたいなんですよ~~~^^;
大友にすれば「大友が勝ったど~」という形式が調ってれば良かったみたいで、そこが大物の大物たるユトリ?

「ゴルァ!!!(# ゚Д゚)・;'.人質は府内(大友氏・豊後国首都)へ差し出せ~常識ダァロ!」
ってキッツーーイ要求された筑前・秋月種実とは、対応がえらく違う^^;

これは、やっぱ大友にとっての優先順位として、肥前という国の価値を重要視してなかったからだと思います^^;
大友にとって本貫地である豊後を別格として、優先順位第一位は博多のある筑前なんです^^;;

誤解があると困るんですが「肥前国は大友が支配してます。」
これは絶対の大前提でして、耳川の合戦で島津に敗れて衰退するまで、きっちり機能してました。

が、その統治方法というのが曲者でして、あくまでも「室町体制の延長における守護職としての調停機関」ってスタンスなんです。
だから、方分(守護代みたいなもん)や、城督(方面軍司令官みたいなもん)が在任地、
または直参衆が配置してたなどの筑前・豊前・筑後より、肥前への支配が緩く感じます。
(肥後は完全フリーダム~肥後守護職の大友は直接統治を諦めて、各国衆による自治になってます)

実際に、守護職と被官は緩やかな支配関係ですから、戦国期カオスになると拘束力は一層弱くなります。
という状況の中で、大友軍が撤収し人質も形だけで龍造寺に返還されたんです。

http://blog-imgs-49.fc2.com/s/i/o/siori20120901/blog_import_5042c81e7a834.jpeg 九州武将の憧れ~大友家紋ロゴ

「大友へ与した裏切り者」への龍造寺の報復は速攻で始まった( ̄ω ̄A;アセアセ
手始めに東肥前の者たち(詳細は本編にて)が・・・・゜・(つД`q。)・゜・御贔屓のアソコやアレがカナスイ・・・

この間、波多氏はフラフラしてまして、北肥戦誌だと1573年の段階で、龍造寺の求めに応じて援軍を出してる事になってます。
草野・鶴田・・・来る~来る~貞○じゃなくてR氏が・・・(((((( ;゚Д゚)))))ガクガクブルブル

で、1573年3月吉日に、元々同盟関係だった日高一族と鶴田氏が再度起請文を交わし関係強化を図ってます。
前回チラ出ししたように、この時も「波多氏に与しない」と念押ししてます。
元々両家ともに波多氏に身内を謀殺されてますが、この頃になると波多氏の帰趨が龍造寺サイドになってるっぽいのも「与しない」に含まれてると思われます。

1573年12月、ついに龍造寺軍が東松浦地方に侵攻!

「岩屋家譜(獅子ヶ城鶴田氏の方)」曰く
「波多氏敢テ敵セズ、其臣八並武蔵守・福井山城守ヲ出シテ、龍家ノ先駆タリ、
 龍家既ニ前(すすむ=鶴田越前守前の事)公ノ大友氏ニ属セラルルヲ憤リ、仍兵ヲ遣テ獅子城ヲ攻ム」

波多氏の援軍が龍造寺軍の先陣&「道案内」な件~ ガビ━━━(゚ロ゚;)━━ン!!
おにょれ波多氏~~獅子ヶ城の攻めに有利な間道をバラしたな~~~(▼A▼怒)
勇将・鶴田前も圧倒的な龍造寺の大軍に抗しきれず和議を結んで城を出た!・゜・(PД`q。)・゜・

ちなみに北肥戦誌では、鶴田前が鶴山前と思いっ切り間違っているのだが、それは・またの話 by^-^sio

【鶴田氏~5・大友への忠誠】西肥前強化期間リサーチ11武家目

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大友の肥前支配・・・
龍造寺の動きに気を取られると、大友が何もしてないようにしか見えないが、何もしてなかった訳じゃないんです。

堀本一繁氏の論文によると・・・って、あれ?どこに置いたっけ?
やべ~神代勝利公に対する解釈部分が気に入らなくて、どっかに突っ込んじゃった アタヽ(´Д`ヽ ミ ノ´Д`)ノフタ

あ~あったあった・・・ゲフゴホ、ちょっと横岳氏の話に逸れます。
(少弐一門で、西千葉氏当主は横岳一門から入った養子です^-^)
少弐氏滅亡後、横岳氏は大友氏に属し、1570年11月8日に横岳鎮貞は三根郡矢俣300町&西町200町を安堵されてました。
それを1572年4月に龍造寺隆信が横岳の西島城を攻撃。
(横岳の前に筑紫氏も攻撃してます)

領地を侵された横岳氏は大友氏へ訴状出してまして、大友では紛争解決の為に働きかけてます。
堀本氏の論文によると1572年9月時点で、調停の為に文書の遣り取りしてますが、既に龍造寺では横岳から分捕った米田村100町を配下の姉川さんに与えちゃってました^^;

大友は横岳に対し「堺目静謐之儀」に背く隆信へ「申談じた上」で、それでも「止めない場合には討伐する」と回答してます(参照:同論文、出典:横岳文書)
肥前守護職として大友は紛争解決に対し
「当事者間による解決を促す⇒不首尾⇒大友から紛争調査の検視派遣⇒不首尾⇒ここで討伐軍発動」
と言う手順を踏むのを律儀に貫いてまして、つまり時間がかかるんです。

この間に龍造寺は自由に動き回ってるわけで^^;
調停に従わない龍造寺に対し、大友が軍事権を再発動しなかった理由は・・・う~ん自分も判りません。
配下の国人に何か命じてたかもですが、WEB上ではデータなし^^;
この頃は筑前でも大きな謀反なかったんで、その気なら動けたと思います。

とにかく大友義鎮は対話(調停)による解決を模索し、どうしてもダメな最終手段としての軍事権発動という認識だったみたい。(どっかの国連軍みたいだ)
で、横岳が領地を侵されてる状態(現在進行形)は、最終手段を行使する状態と判断されなかったんでしょうか?(横岳涙目)
このあたりが「典型的な守護による領国統治」として、研究者が大友氏をあげる理由なのかもです。

http://blog-imgs-49.fc2.com/s/i/o/siori20120901/blog_import_5042c81fc9ff3.jpeg

時間がかかる調停の間に龍造寺はヒャッハー~1573年12月には、鶴田の獅子ヶ城を攻撃したのだった。
大軍に抗しきれず鶴田越前守前は降伏開城。獅子ヶ城には龍造寺から城番が置かれた。

んだけど、鶴田前(すすむ)は早々(4日後だったらしい)に獅子ヶ城を奪還(=^・ω・^=)v ブイ
再び本家である日在(ひあり)城・鶴田因幡守勝(前の実弟)と同一行動に戻ってます。
ちなみに北肥戦誌では鶴田勝の事も思いっ切り鶴山勝になって・・・il||li _| ̄|○ il||lトホホ

この直ぐあとの12月21日に、両鶴田は草野鎮永と起請文を交わしてます。
緊迫した情勢の中での起請文でしたので、草野は血判してます。

・鶴田と草野の間で一致して後藤貴明につくこと
・(龍造寺からの)攻撃に共闘し防戦すること
などが盛り込まれてました。

が、1574年(天正2)1月に草野氏は龍造寺からの攻撃で抗しきれず和議となり、龍造寺隆信の猶子を養子にする事態になる。
同年2月3日、松浦鎮信が両鶴田に宛てた書状によると、
「両鶴田から龍造寺軍侵攻(草野攻撃の事か?)の情報が入ったので(両鶴田に)加勢を出す」と連絡してます。
同書状には「武雄の貴・惟(貴明と惟明)にも連絡したから!」って書いてたそうです。

後藤貴明(養父)と惟明(養子・松浦隆信の実子)の、家督問題から来る対立は燻ってたんですが、
この2月時点では松浦・後藤の連携は生きてて、それを軸とした国人領主間の同盟も未だ生きてたようです。

で、1月に龍造寺に降伏した草野鎮永は本意ではなかったらしく、同年5月に鶴田本家・鶴田因幡守勝と分家・鶴田越前守前に起請文を(別々に)出してます。

1)「豊州(大友家)」に忠誠を尽くす事
2)草野鎮永と鶴田と同盟関係になる事

同じく5月に大友家臣・原田可真と戸次道雪からも両鶴田に対し、起請文が出されてます。
この原田可真というのが、大友が紛争調停のために臨時に派遣した検視役なんです。
草野氏の記録が欠落してるんで推測になるんですが、起請文の流れからいって草野鎮永が大友に「龍造寺の悪行」を訴えたんじゃないでしょうか。

ちなみに起請文だと龍造寺だけでなく、波多鎮と原田鎮種(誰?)も悪行仲間に入ってます^^;
東松浦地方の最前線である両鶴田は、大友の肥前支配にとっても重要視されていたのでしょう。
詳細は不明ですが、肥前守護職として大友の調停機能が発動してたようです。

横岳(と筑紫)に続き草野と鶴田ですから、さすがの大友も重い腰?をあげて・・・
が、事態が急変!!!

翌月6月22日に、養子・後藤惟明が家督を実力で奪うべく、養父・貴明に対して謀反!
後藤貴明は止む無く龍造寺に援軍を恃むという緊急事態発生 Σ(´Д`;) はぅ!

パワーバランスが崩れたと見るや、龍造寺では再び須古城攻略開始!
同年8月、須古城が落ち平井経治は城を落ち延びる。
遂に有馬氏の六角川防衛ラインを突破した龍造寺隆信。

龍造寺の早い動きに大友の調停機能は追いつかない件~~~それは・またの話 by^-^sio

【鶴田氏~6・勇将・鶴田越前守前、死す!】西肥前強化期間リサーチ11武家目

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後藤貴明の養子・惟明が家督を実力で養父から奪おうと謀反したのが1574年(天正2)6月22日。
城を占拠された貴明は、奪還のために敵対してた龍造寺から援軍を受けました。

惟明は、後藤貴明が平戸・松浦との同盟の証として貰い受けた養子なので、松浦関係者からの援軍は100%無理。
貴明は反有馬だから有馬から援軍してもらうのも絶対(´・д・`)ヤダ
残る援軍のアテは龍造寺だけだったんです。

で、翌月の7月8日には、後藤貴明を両鶴田との間で起請文の交換がありました。
「鶴田越前守殿父子三人之儀、貴明身命之限、差捨申間敷候」
後藤貴明は、今回の件で両鶴田が離反し政治的に孤立するのを恐れてました。
ですが二日後の7月10日には、後藤貴明は龍造寺隆信との和議を余儀なくされます。

当然、松浦道可(隆信)は怒ってました。
松浦道可から鶴田前への手紙に「武雄の取り乱しようはけしからん!」と言ってます。

一方、後藤貴明からも両鶴田氏宛に手紙が送られてます。
「佐賀への同心(和睦のこと)も戦法です~もしウソだったら詰め腹切ります!」
さらに追記で
「両鶴田と私は永久に不滅・・・(._+ )☆\(-.-メ)ヤメンカ!

「永久に両鶴田と私(後藤貴明)は一体であるから、見届けて欲しい」
「今度なんとか渋江山城守には腹を切らせた」

あちゃ~実は本編で話すつもりで後藤貴明編では敢えて紹介しなかった渋江ネタです。
元々は後藤氏の主筋で今では後藤配下に転落した渋江氏の公師なんですが、どういう訳か惟明謀反に際して惟明に味方してたらしい素振りがあったんです。
また後藤が激しく憎んでた大村純忠。
彼の助命に関しても渋江公師が仲介してて、後藤貴明はダブルで怒りMAX。

ですが肝心の謀反加担の確証が掴めず、渋江一族の者に詰め腹を切らせる事で怒りの鉾を治めたらしい^^;
ちなみに渋江公師は、これを機に後藤家を離れて龍造寺に直接帰服しました。

上記・後藤から両鶴田への手紙では「鶴田と平戸・松浦との関係は前々通りである事を望む(-人-)☆彡オネガイ」
と書かれており、松浦道可(隆信)との関係修復を鶴田前に頼んでたようです。

鶴田氏は松浦・後藤・波多などが絡む複雑な人間関係とは無縁だったので、後藤貴明・松浦道可の双方にとって本音を言いやすい相手だったみたい。
間に挟まれる方は大変だったと思うけど^^;

北肥戦誌には書かれてないですが、岩屋家譜によると鶴田越前守前が戦死したのは1576年(天正4)6月18日です。
城外に打って出た壮烈な戦死だったと伝えれらてます。 (゜-Å) ホロリ

サイト武家家伝ですと「波多鎮・伊万里治・有田盛らが有馬氏にそそのかされて、隆信に従っていた獅子ケ城を攻撃してきた。」
となってるんですが、岩屋家譜だと「公(鶴田前)は佐賀に背いた」とあり、情報が錯綜してて状況がイミフです^^;

くどいようですが、後藤貴明と平戸・松浦道可との仲介役は、勇将・鶴田前の仁徳あったればこそでした。
龍造寺との和睦が本意でなかった後藤は、1575年に龍造寺と決裂してたんですが、
前(すすむ)が死んだ翌年1577年2月に、後藤は隆信の実子に後藤の家督を継がせるという厳しい条件を含んだ再和睦を受け入れました。

鶴田前の死去に関しては、1576年8月19日に大友宗麟も鶴田氏に対し書状を書いてます。
「父越前守死去之由、無是非候」とあり、前の息子たちへ今後も兄弟で大友に尽して欲しいと書き送ってます。

大友の守護職としての肥前支配における調停機能には、国衆の間でキーパーソン(仲介役)だった鶴田前の存在は必要不可欠でした。
前(すすむ)の戦死は、大友の東松浦地方における支配において、大きな損失だったんです。

そして1576年から、両鶴田と称されるほど同一行動してた鶴田宗家と分家の動きが別々になるのだが、それは・またの話 by^-^sio

【鶴田氏~7・龍造寺四家、武雄・後藤家信系誕生!】西肥前強化期間リサーチ11武家目

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今夜はシングルよ~おおおおおおぉーo(* ̄○ ̄)ゝーいぃぃぃぃぃぃ!
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1576年(天正4)1月、この段階では獅子ヶ城は、龍造寺長信(隆信実弟)の多久勢と小待で合戦してました。
ちなみに最近読んだ論文で知ったんですが、龍造寺長信の「長」は大内義長からの偏諱でした。シランカッタ
大内義長とは大友義鎮の異母弟で大内義隆亡き後に、陶晴賢が擁立した傀儡当主です。
(相変わらず、龍造寺隆信は自分では大内義隆以外からの偏諱は受けないのね^^)

ところが同年3月15日付の後藤貴明が出した起請文によると

日在(ひあり)城本家・鶴田氏の相談なしに、獅子ヶ城鶴田氏が龍造寺サイドに寝返ってる事が記されてます

後藤貴明は鶴田因幡守(本家当主)に対し(寝返った)獅子ヶ城とは別儀・・関係を絶ったと表明してます。

3月の段階では鶴田越前守前は存命してました。
今までの彼の行動では、何事も日在城鶴田本家と連携してたので、相談なしにってのは不自然です。
もしかしたら連絡したくても出来ない・・・直道(連絡用ルート)を龍造寺勢に押さえらたのかも。
直道ったって、秘密の地下道や鍾乳洞って訳でなく、ちょっと?クネクネした山坂峠ある間道だってだけで隠してる訳じゃないからネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

獅子ヶ城の龍造寺寝返り(降伏?)が本気だったのか、いつものように帰順したと見せかけてリベンジするつもりだったのか。
同年6月22日に鶴田越前守前が戦死してしまうので、今となっては不明です。

同年12月12日付、龍造寺下総守康房(鍋島直茂実弟)が、日在城鶴田本家当主の弟に起請文を出してます

要約すると
1)佐賀・武雄の間で和議が行われたら、後藤貴明&晴明(=貴明嫡男)に対し隆信親子は粗略にしないように、下総守兄弟(=鍋島直茂兄弟)が尽力する
2)後藤貴明から人質を出してくれたら、佐嘉から難題を出さないように下総守兄弟(以下同文な件~)
龍造寺では、日在城鶴田氏本家を後藤との交渉パイプとして認識してて、和睦の為に水面下で交渉してたようです。
この段階で和睦交渉がスンナリ進んでいたら、後藤家の歴史が違ってたかもだな~
1577年(天正5)2月に提示された和睦条件は、もう龍造寺による後藤氏家督乗っ取りでした。

一方、龍造寺に与した獅子ヶ城鶴田氏ですが、前(すすむ)以降は足並みが乱れまくってます。
前亡き後に分家当主となった鶴田賢に対し弟が「兄とは同心しない(`・ω・´)キリッ」と分裂しちゃんです(天正5・3・14)。
獅子ヶ城の龍造寺帰服時期の出典は「歴代鎮西志」なんですが、鈴木先生は「帰服は前の死後じゃないだろうか」って書かれてます。
兄弟決裂は、一族をガッチリまとめてた前(すすむ)死後の政治的混乱から来た、と解釈するのが自然だからです。

1577年(天正5)4月24日、隆信三男・善次郎家信が後藤貴明の養子に、後藤貴明嫡男・晴明が龍造寺隆信の養子に、双方の養子縁組が正式に整った


同年7月2日、後藤氏の家督を継いだ善次郎家信(隆信三男)に対し、日在城(本家)鶴田因幡守勝と嫡男・明が忠誠を誓う

これによって日在城・鶴田本家も、龍造寺の傘下に入った。

この時期の後藤家には、各方面からの起請文が次々と舞い込んでます^^;
武雄後藤氏新当主・家信に対し忠誠を誓う起請文でして、従来の利権を認めてもらう為ですから周辺地侍は必死です。
家信は彼等への返信・起請文___φ(.. )花押カキカキ に追われた事でしょう。

さて、武雄後藤氏が龍造寺一門に組み入れられた事で、鶴田氏の運命も大きく変化するのだが、それは・またの話 by^-^sio

【鶴田氏~8・本家と分家、最後の明暗】西肥前強化期間リサーチ11武家目

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あぁ・・・・悲しい朝ですた(´;ω;`)ウッ・・・明朝は笑顔で締めくくれますように・・・
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日在城鶴田明(本家嫡男)は後藤家信に対し、忠誠を誓うと同時に「波多との関係修復復活はない!(`・ω・´)キリッ」と起請文(1578・4・14)しちゃってます^^;

鶴田明は波多に謀殺された直(ただす)ジーちゃの顔も知らないんですけどネー(*´・д・)(・д・`*)ネー
当主だけでなく、嫡男の明も起請文することで本家一族の総意であることをアピールしたのかもです。

と、いいますのも。
龍造寺隆信は波多鎮へ自身の養女を嫁がせ縁戚関係になると、上松浦の諸氏に対して波多氏の幕下につくように命じたからです。( ̄ko ̄)

波多に従属するのを頑強に拒む日在城・鶴田因幡守勝に対し、隆信は当然立腹。
鶴田本家は助命されたものの、本城である日在城を追われちゃいました ショボーン..._φ(・ω・` )
領地を失った鶴田本家は後藤家信を頼り、正式に後藤家臣となります。

一方、獅子ヶ城の鶴田賢ですが、彼は非常に信仰心厚い温厚な人柄で、父の前と違い波多氏との親睦も復活させてました。
で、龍造寺の命に従い波多氏家臣となります。
兄に同心しないもん~~と飛び出してた賢の弟も、日在城鶴田氏が後藤家臣となったので、獅子ヶ城に戻りました。

これでめでたしめでたし・・・にならない。
波多氏が豊臣秀吉によって改易されちゃったからです・・・il||li _| ̄|○ il||l

波多家臣は四散しちゃって鶴田分家がどうなったか素人では辿れませんでした。
ですが獅子ヶ城鶴田氏の記録である「岩屋家譜」の成立年度は宝暦年間なので、子孫は続いてたようです。



話は飛んで慶長年間。
自分は過去記事で後藤で龍造寺で武雄で鍋島な茂綱が、一時廃嫡ピンチになったことを何度か書いてます。

WEB上で詳細が判らず、てっきり関ヶ原の動員に病で遅参した失敗のせいかと早とちりしてたんですが、
違った( ̄ω ̄A;アセアセ
廃嫡ピンチは「朝鮮の役」での話でした。

父・家信が病になり現地でダウン~公務不可で帰国したために、嫡男である茂綱が代理で朝鮮へと赴いてました。
当時、茂綱は数えで18歳。
家臣たちは未だ若年ゆえ公務は無理じゃね?(*´・д・)(・д・`*)っと家督相続について論議した。

その結果、後藤家臣の主だった30人ほどが連判でもって鍋島忠茂(直茂の次男)を家督にと申し出ようとした。
(てとこを見ると、病中の家信に意向を尋ていない家臣の暴走っぽい)

その時に鶴田善右衛門明が

ゴルァ!!!(# ゚Д゚)・;'.「茂綱、若年といえど朝鮮御陣を務め、諸国の大名とも知り合っているのに何が不足だぁ!!!」

と、茂綱当主を強く支持して、家督問題に関する衆議を取りまとめた(出典:後藤家戦功記)

素晴らしい~鶴田一族のキーパーソンスペックは孫の代にも引き継がれてます(*´pq`)ルン!

慶長3年11月8日付の鶴田文書には茂綱の家督継承が鍋島直茂&勝茂に承認された事が記されており、
後藤家戦功記との記述と一致してます。(裏付けとったのは鈴木先生ネ)
この時のリーダーシップ・器量をかわれた鶴田善右衛門明は、後藤家の家老として茂綱を支えたそうです^-^






今回の記事に関しては鶴田氏・1で紹介したように、鈴木 敦子著「肥前東松浦地域における国人領主鶴田氏の動向」を参照しました。

お蔭で北肥戦誌にはない、上松浦の動向がかなりクリアになり非常に勉強になりました^^
論文を紹介して下さったブログ友様には、心から御礼申し上げます。

さて西肥前リサーチシリーズはひとまず終了です^^
思わぬ記事数の多さに自分でもビックリ^^;

次からは本編に戻ります~ちとブランクあいちゃったんで、じょじょにエンジンかけていきますので、宜しくお願いします。
ではでは。。。それは・またの話 by^-^sio

2020東京オリンピック、パラリンピック組織委員会会長の有り得ない発言(怒

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まず、自分のブログは九州戦国史に特化してるので、時事ネタは滅多に扱いません。
でも今回は頭に来たので記事にしました。

こちらの記事を拡散協力お願いします。
http://blogs.yahoo.co.jp/yuewannwann/33291056.html


さて、始めは元首相の発言全文を載せようかと思いましたが、
「擁護」と思われるのも不本意なのでやめました。

発言全文を読めば、違う事を言いたかったのは解る。
だけど悪気が無ければ何を言っても許される(本気で相手にしない)のは、幼稚園児までじゃね?
元首相で組織委員会会長ともあろう人物が、親戚の空気読めない困ったオジさんレベルの言動って、どうなの?

例えば、受験当日に、日頃から「落ちる・転ぶ・滑る」をバンバン発言する(季節的な挨拶に混ぜこんで言うので本人は無自覚)御近所様宅前は通りたくないです。
第一志望がダメだった時に「○○ちゃんは肝心な時にダメよね~」
と、傷口に塩を擦り付けるような発言する方とは、今後の付き合いを考えます。

何故なら「悪気なく無神経な言動する方」は、その言動で周囲から嫌われていても全く気付かないほどの鈍感無双で、ただただコチラの神経だけが摩耗していくからです。


さて、ここ数年間は真央ちゃんの周囲は試練の連続でした。

まず競技人生を左右するジャッジ。
何故か真央ちゃんへのジャッジが厳しく、他の選手が減点されないような僅かなミスでも減点。
某選手が尻もちついても銀河点がついたりとか。
真央ちゃんのジャンプ前の沈む姿勢より、~~~ピーで★○のガニ股が評価されたりとか。
審査員の主観で大きく左右される出来栄え点の結果に、モヤモヤしたのは自分だけではないでしょう。

真央ちゃんはジャッジへの不満・批判・批評は一切口にせず、代わりにスケーティングの全てを基礎から替えました。
いわば、宮本武蔵が現代日本の剣道を一から習い直すようなもので、
天才であればあるほど、一度完成した自分のスタイル全てを崩すのは、我々が想像もつかない程の苦労と忍耐の日々だったと思います。

でも真央ちゃんは、僅か4年でソレを遣り抜きソチオリンピック前に完成させたんです!!
私たちファンは、真央ちゃんが苦労して苦労して努力し続ける姿を見守ってきました。

そんな真央ちゃんに対しマスコミは「取材・報道」と称した「真央ちゃん潰し」と言っても言い過ぎじゃない酷い対応でした。

真央ちゃんをスタジオに招いてインタビューなのに、バックの大画面に使うのが転倒した瞬間だったり。
つい最近ではドーピングに関する特番で、全く無関係の真央ちゃんの画像を流して視聴者を混乱させたり。
真央ちゃんにだけじゃなく、羽生クンの金メダルインタビューの途中で思いっ切りCMで中断。
外国選手が日本のファンに対して日本語で「ありがとう」と言った部分をスルーカット。
えっと・・・今見てる番組は確か日本の放送局だったはずだけど~~とモヤモヤモヤモヤ~~~(-ω-#)

発言全文(検索すると出ます)を読んだ人は「マスコミが悪い」というけれど、それ以前に元首相の言い方が悪い!!

(何気にリード姉弟にも失礼な言い方してる・汗)
「見事に転んじゃった」とか、マスコミが飛びつきそうな餌を無自覚にバラまくな!

確かにフィギア団体に出たために、調整は大変だったでしょう。
元首相の発言には無いけど、今回の審査員に自国選手を依怙贔屓してると噂されてる人物が入ってたのも気持ち的にキツかったはずです。

どうも元首相は本人なりに真央ちゃんをフォローしたかった・・・らしい(あれで?)
ですけど、全然っフォローになってない!
逆に、マスコミの真央ちゃん弄り・潰しに利用されちゃってます!!・゜・(PД`q。)・゜・

最初に報道を見聞きした皆さんは「どうか真央ちゃんが、コレを見てませんように~~」と思ったはずです。
本来なら組織委員会会長は、こうしたマスコミの異常・過剰な報道から選手たちを守る立場です。

ですが、会長ご本人が無自覚に悪気なく失言して、マスコミにネタ提供する方です。
既に各方面から苦言を呈されているますが、本人は何処吹く風の鈍感無双ですから、おそらく今後も何かやらかすでしょう。
今からでも遅くありませんので、他の適任者を捜して~~~~~~~~~~~~~~~!!!

今夜というか深夜に、エキシビジョンです。
推薦枠で高橋選手と真央ちゃんが出ます 川* ̄д ̄*川ポッ
日本選手の最高の笑顔を見て、今宵は気持ちよく終わりたいですね(*´pq`)

【エリア横辺田~龍造寺VS有馬1】龍造寺隆信「展」の巻1

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久々~新シリーズにて本編再開~
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肥前国における西と東の最前線・・・・一番、判り易いのが六角川を目安にする事です。
で、彼らが激突する時に、しばしば史料に登場するのが「横辺田」という地名です。

肥前の皆さん、何故ここでばっかり戦うのでせうか・・・
今更なんだが、やっぱり気になって【ぐーぐる】__φ(.. ) 検索検索

横辺田という地名は現代では残って無くて、杵島郡大町になります。
で、江戸時代は代官所がありました。
代官所がある場所って、色々便利な要衝地の事が多いです。

(-ω-)ん~~どう要衝地なんだろう・・・
検索しても具体的なものが出なくて、ちょっと苦労しましたがヒントは旧長崎街道でした。

横辺田は旧長崎街道が通ってて、横辺田から半径7km四方に小城市、多久市、白石町、武雄市と通じてます。
集合離散?するには持って来い。

さらに河川から程よく距離があるので、逆流現象による浸水の心配がない。
ちょっと北に行けば山野なので、地形を利用し布陣可。
山野から下がれば平坦な土地で適度に広く、陣を展開するのに丁度(・∀・)イイ!

六角川流域は有明海の満干潮からくる逆流現象で湿地帯や泥土が多く、
足元を気にせず人馬が駆け回れるバトルフィールドは、自ずと限定されます。
それが「エリア横辺田」でした。

1562年(1563年説有り)有馬VS龍造寺隆信の本格的ガチンコが起きるのだが

その始まりの引き金を引いたのは、キングオブ九州・大友宗麟だった


http://blog-imgs-49.fc2.com/s/i/o/siori20120901/blog_import_5042c81fc9ff3.jpeg

豊後の大友義鎮(宗麟)は、長年同盟関係だった少弐氏再興のために

資元の三男・政興(つまり冬尚の弟)を立てんと図った


少弐氏が中々滅びないのは、ご本人が子沢山・亡命し慣れてる~
というだけでなく、神輿として担ぎ出す勢力が必ずあるからです^^;

自分は九州専門なので他の土地は知らないんですが、九州という地方は守護の権威が失墜するのは早かったと思います。
ただそれはそれで、地域によってバラつきがあるんですけども^^;

更に「守護職はOKだけど、探題職に従うのが(´・д・`)ヤダ」って気持ちも大きい^^;
これはやはり九州が南北朝の争乱を引きづり過ぎたからではないかな~とボヤンと思ってます。

が、失礼ながら遠国(京都から遠いという意味)なので「守護職という権威を敬う気持ち」も色濃く残ってます。
(と言いつつ北肥後だけは完全にフリーダムだったりする,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!)
この矛盾する状態が、名門といわれる武家が中々滅びない事の最大の理由だと思います。

それと大友が少弐再興を言うのは、上位権力者である大友の義務というか・・・
とにかく九州探題にして肥前守護職である大友氏は、同じく守護職に連なる名門少弐氏を保護すべき立場なんです。
少弐氏本人が大友に直接噛みついて来ない限りは、バックアップし続けたと思います。

だからこそ少弐という武門の家が持つ「守護職の権威」に対し、最後のトドメを指すまで手を緩めなかった龍造寺隆信は新しい時代の英雄だと感じます。
北肥戦誌曰く
大友は政興を筑後へ呼び寄せた上で、上松浦の波多鎮(後の親)、その実父である高来の有馬越前入道仙巌(晴純)へ少弐再興を相談する。
大友義鎮が有馬にコンタクトをとったのは、肥前で龍造寺に対抗できる勢力というだけではないかもです。
西肥前リサーチ期間に知ったんですが、かつて有馬氏は少弐氏被官(ひかん=家臣)だった過去があるのだが、それは・またの話 by^-^sio
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