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Channel: 九州戦国ブログ~室町末期から江戸初期まで~
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感想1★中世後期における国人領主と地方寺社ー肥前千葉氏と「公権」の構造

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如水ヒストリアをチラ見しながら、肥前千葉を読む・・・(*´pq`)
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ここ最近、自分が密かに悩んでたのは「自分の肥前戦国史知識」が、「どの程度のレベルか判らない」って事でした。

手前味噌ですが、肥前戦国史に関してだけであれば、自分より詳しいブログは見た事はないです。
(肥前千葉から始まって、通史みたいに全部ヤル系がない)

でも、各地域・個々の武家となると、自分より詳しい系HP・ブログは、たくさんあります。
道産子の自分の周囲に「同好の士」があろうはずもなく、今更ながら知識面で「ぽつーーん・ぼっち感」が・・・(´;ω;`)ウッ

もや~ん、としてたところに入手したのがアレコレ論文とか専門書とかとかでした。
で、どうやら自分は、肥前戦国史に関して(のみ)「研究者のガチ論文」を読んでも、内容を理解するのに全く困らない程度のレベルにはあるみたいです(=^・ω・^=)v ブイ

出典元を見れば一次史料か二次史料か見分けがつくし、
神社仏閣なら、主だったところは由緒から住所まで知ってるし、系図は自作するほどなんで当主の名前で年代は大体判ります。
ただ、それが「素人なら凄い事」でも「郷土史研究者なら、当然の基礎知識」になるのか、
やっぱり自分では判らないんですけどネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

とにかく今は、一次史料を典拠とする論文を読んで「知識欲」が満たされて幸せでつ・・・川* ̄д ̄*川ポッ

で、結論から言うと、すっごい面白かった!ゎーィ♪ヽ(*´∀`)ノ~~~感動を忘れない内に感想なぅ


肥前千葉氏は東国御家人として肥前に土着した一族。
探題でもなければ守護でもない。それが「肥前国主様」と仰がれるほどの栄華を誇った。
肥前千葉氏が、いかに支配力を手に入れたかを河上社を通じて論証されてます。

自分でも肥前千葉と河上社の関係がキーになると感じてたので(でも素人なんで論証出来ない^^;)
何というか「自分の考え裏付けでくれて、ありがとう!」な気分です(←図々しくてスイマセン)

文章だけじゃ退屈ですね~よっこらせ~
http://img5.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/cb/40/tokino_siori/folder/360567/img_360567_5735842_9?1342420576
肥前千葉氏、略系図

系図でいうと肥前千葉氏・栄華の土台キーマンは、5代目胤泰になります。
宮島氏の論文は、一次史料が典拠で論を構築されてるので、説明を省かれたのだと思いますが、
肥前千葉氏が本当の意味で肥前に土着したのは、5代目胤泰からです。

それまでは「打倒・下総千葉氏」「返してよ!宗家の座」で、肥前千葉氏は本貫地である下総千田庄と肥前小城を行き来してたんです。
南北朝争乱期に入り、離れた土地の両方を維持するのが大変だったのか、他の要因があったかは不明ですが、とにかく肥前千葉は「肥前土着組」と「本貫地に残る組」に分裂します。

それが「肥前(小城)千葉氏」と「千田庄千葉氏」です。
「打倒・下総千葉氏」は、「千田庄千葉氏」が真正・宗家として引き継ぎました。

2代目胤貞と5代目胤康は異母兄弟なんですが、パパ初代が若い頃からハッスルしたらしく、兄弟は親子ほど年の差があったそうです。
そのため胤康は兄である胤貞に養育されました。
2代目胤貞は、本貫地・千田庄を嫡流として我が子(長男・次男死亡の為、三男)に継がせ、肥前小城は傍系として実弟である胤康が継いだという訳です。

論文を読んで得心したんですが、肥前千葉氏が「河上社大宮司職」をゲットしたのは、この5代目胤康の代(文献に登場する)のようです。
で、肥前千葉氏が「領地宛行状(安堵状)」を発給し始めるのが、5代目胤康の当主期間である応永年間(室町時代)。

くどいようですが肥前千葉氏は探題でも守護でもない。
にもかかわらず、こうした「安堵状」を発給するに至るのは、九州探題・今川了俊の解任がキーになってました。

いま現在、興奮と萌えで'`ァ'`ァ'`ァ(;´Д`)'`ァ'`ァ'` してるのは、感想を書いてる自分だけだと思うのだが、それは・またの話 by^-^sio 

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