自分は歴史記事を書くためのリサーチは、年代をガンガン遡ります。
因果関係のキーとなる≪始まり≫を、どの時点にするか自分なりに推論を構築するためです。
因果関係のキーとなる≪始まり≫を、どの時点にするか自分なりに推論を構築するためです。
それで経験的に感じた事は「戦国史を真に理解するには、中世史(室町期)の知識が必要になる」です。
さらに中世を真に理解するには、ほんとう~~は、鎌倉期の知識がいるわけで、キリねーよ!(涙目)
で、素人の脳みそではパンクするので、最低限として室町期で、何とか踏みとどまるわけです。
(でも一応、関連武家の鎌倉期はザックリとチェック入れます)
(ちなみに武雄の後藤は平安後期までマーキングが必要だった(´;ω;`)ウッ←声にならない)
さらに中世を真に理解するには、ほんとう~~は、鎌倉期の知識がいるわけで、キリねーよ!(涙目)
で、素人の脳みそではパンクするので、最低限として室町期で、何とか踏みとどまるわけです。
(でも一応、関連武家の鎌倉期はザックリとチェック入れます)
(ちなみに武雄の後藤は平安後期までマーキングが必要だった(´;ω;`)ウッ←声にならない)
河上社が気になる気になる・・・だってだって♪だってだって♪「肥前国一の宮」なんだもん♪
古(いにしえ)より日本国において、一年の計は神事に始まり神事に終わる
権威ある神社の神事においては、敵も味方もなくHKB(肥前・国衆・ベスト)メンバーが勢ぞろい~
室町期、有馬も龍造寺も河上社の神事の為なら、ご一緒に~レッツ流鏑馬(`・ω・´)キリッ
てことで、権威ある神社の支配構造ネットワークを、そっくり頂いちゃった方が、
「近隣の領地に侵攻して切り取る」てな地道な労力を使うより、遥かに大きく勢力を広げる事が可能になる。
それほど神社(仏閣も含む)というのは、武家から領民、全ての生活に密着してたんです。
「近隣の領地に侵攻して切り取る」てな地道な労力を使うより、遥かに大きく勢力を広げる事が可能になる。
それほど神社(仏閣も含む)というのは、武家から領民、全ての生活に密着してたんです。
自分が肥前戦国史の記事で、肥前千葉氏が川上社の大宮司だった~~って事に注目して書いてたのは、
河上社の支配構造ネットワークが、肥前千葉氏の手中にあった事を意味してたからなんです。
素人の自分では、だろうな~って推測しか出来なかったのを、宮島先生は史料を元に検証されてるわけです。^^
河上社の支配構造ネットワークが、肥前千葉氏の手中にあった事を意味してたからなんです。
素人の自分では、だろうな~って推測しか出来なかったのを、宮島先生は史料を元に検証されてるわけです。^^
注目しなければならいないのは、千葉氏の安堵したのが「当知行」だと言う点です。
本来の知行(領地)安堵は、所有の証となる証文を持つ者に安堵されるべき・・・なのですが、
まぁ時代が下れば色々と乱れて来るのが世の常・・・( ̄ω ̄A;アセアセ
本来の知行(領地)安堵は、所有の証となる証文を持つ者に安堵されるべき・・・なのですが、
まぁ時代が下れば色々と乱れて来るのが世の常・・・( ̄ω ̄A;アセアセ
過去の所有権ガン無視、今現在、知行(領地)に居座り・・ゲホゴホ
・・今現在の「占有者」に安堵される領地が「当知行」です。
・・今現在の「占有者」に安堵される領地が「当知行」です。
経緯はともかく、本来の所有者がいたはずの土地を「いま占有してるんだから、お前のもので良いよ~」
と安堵してもらえるのだから、肥前千葉氏から安堵されは側にとって「御恩」であり、
「御恩」を受けた者は肥前千葉氏の被官(家臣)となる訳です。
と安堵してもらえるのだから、肥前千葉氏から安堵されは側にとって「御恩」であり、
「御恩」を受けた者は肥前千葉氏の被官(家臣)となる訳です。
で、ここで思い出さなければならないのは、肥前千葉氏は探題でも守護でもないって事です。
「知行」だろうが「当知行」だろうが、「安堵状」を発行する資格を有するのは、探題職か守護職なんです。
「知行」だろうが「当知行」だろうが、「安堵状」を発行する資格を有するのは、探題職か守護職なんです。
さらに言うと、河上社の神事や建物の造営・補修に関する事の命令権者も、探題職であり守護職なんです。
そこが、その辺の神社と一の宮と呼ばれる神社の差。
だから大宮司の地位をゲットしただけでは、河上社の支配構造ネットワーク全てをゲッツまでは出来ない。
そこが、その辺の神社と一の宮と呼ばれる神社の差。
だから大宮司の地位をゲットしただけでは、河上社の支配構造ネットワーク全てをゲッツまでは出来ない。
肥前千葉氏は、命令権者だった九州探題・今川了俊と、その弟で肥前守護職だった今川仲秋が、肥前を離れ駿河へと帰還した時に、河上社に関する権能を引き継いだんです。
だから河上社・社領に関わる小城郡・佐嘉郡が、そのまま肥前千葉エリアへと染まっていったわけです。
だから河上社・社領に関わる小城郡・佐嘉郡が、そのまま肥前千葉エリアへと染まっていったわけです。
で、またまた忘れちゃ(・A・)イクナイ!!
というのが九州探題職&肥前守護職は、今川了俊の後任に抜擢された渋川氏だって事なんです。
というのが九州探題職&肥前守護職は、今川了俊の後任に抜擢された渋川氏だって事なんです。
ところがですよ・・・肥前においては
肥前千葉氏>>>>>>>>超えられない壁>>>>>>>>九州探題で肥前守護の渋川氏
だったみたい^^;
渋川氏は最盛期の当主・教直ですら、活動範囲が三根郡・杵島郡・神埼郡のみ。
教直パパの満直にいたっては書状しかなくて、安堵状を発行したことがないんですって。。( ̄ko ̄)
渋川氏は最盛期の当主・教直ですら、活動範囲が三根郡・杵島郡・神埼郡のみ。
教直パパの満直にいたっては書状しかなくて、安堵状を発行したことがないんですって。。( ̄ko ̄)
ふ・・・腹筋が地味に揺れる・・・
陰が薄いとは思ってたけど・・・安堵状を一度も出した事ない探題職って、力なさすぎ(爆
陰が薄いとは思ってたけど・・・安堵状を一度も出した事ない探題職って、力なさすぎ(爆
もともと渋川氏では「探題職&守護職」には実力不足と危惧されてたんですが、
ここまで影が薄くなった一番の要因は、少弐VS大内の巻き添え食った事です。
ここまで影が薄くなった一番の要因は、少弐VS大内の巻き添え食った事です。
宮島先生の論文で初めて知った事なんですが、
少弐氏が一時、本拠地としてた佐嘉郡の与賀と川副は、室町期は渋川氏の領地だったんですって( ゚д゚)ンマッ!!
少弐氏が一時、本拠地としてた佐嘉郡の与賀と川副は、室町期は渋川氏の領地だったんですって( ゚д゚)ンマッ!!
てことは、何かい?
少弐資元は、渋川氏の領地だった土地(川副千町)を、龍造寺家兼ジーちゃんに与えちゃった事になるってか,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
少弐資元は、渋川氏の領地だった土地(川副千町)を、龍造寺家兼ジーちゃんに与えちゃった事になるってか,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
もっとも鎌倉時代だと与賀郷は少弐氏が地頭だったわけで、
少弐にしてみれば大内の庇護?保護を受けてる渋川氏を、九州探題&肥前守護とは毛筋ほども認めてなかったのだろう。
少弐にしてみれば大内の庇護?保護を受けてる渋川氏を、九州探題&肥前守護とは毛筋ほども認めてなかったのだろう。
話戻って、肥前千葉氏が「河上社に関する権能を引き継いだ」のは、一足飛びにゲットしたのではなく、
完全に掌握するには数代要した。
でキーになのが、100年ほどしか歴史がないのでコア扱いの肥前今川家なのだが、それは・またの話 by^-^sio
完全に掌握するには数代要した。
でキーになのが、100年ほどしか歴史がないのでコア扱いの肥前今川家なのだが、それは・またの話 by^-^sio