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Channel: 九州戦国ブログ~室町末期から江戸初期まで~
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感想3★中世後期における国人領主と地方寺社ー肥前千葉氏と「公権」の構造ー宮島敬一著

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感想と言いつつ、密かに自分の過去記事チェックも兼ねてたりする(爆
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基礎知識1)よく私たちが言う「神主」という職業はありません。正式には「神職」です

基礎知識2)「神職」の中に「宮司(ぐうじ)」があります。更に細かく階級あるけど省略^^

基礎知識3)寺社仏閣のトップを「座主(ざす)」と呼びます(宗派によっては違う呼称あり

基礎知識4)明治以前まで、日本では神仏習合(神道と仏教がマゼマゼ~

それでは上記・基礎編を踏まえた上で・・・

江戸期に権勢を誇った河上実相院の座主と肥前国一の宮河上社の座主は、兼務でした

従って、河上社の研究には、実相院文書チェックが必要で、逆に実相院の研究には河上文書チェックが必要になります

もちろん宮島先生の論文には、参照文献として実相院文書があります。

で、個人的見解なんだけど、河上社の支配構造ネットワークには実相院も絡むんじゃないかな~と思うんです。
宮島先生の論文は河上社と千葉氏の関係のみに焦点を絞ってるんで、実相院に関しては安堵状関連にしか触れてないのよネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

地味トリビア)徳川家康の正室・築山殿(今川義元姪)は、稀代の名将と謳われた今川了俊系譜の姫君でした^^b


http://img5.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/cb/40/tokino_siori/folder/360567/img_360567_5735842_12?1342920899

さて鎌倉時代地頭だった肥前千葉氏は、国人衆たちに訴訟問題があると、当事者と共に政所に出向き裁定を仰いでいました。
南北朝争乱~室町期に入ると、鎌倉時代の体制は崩れるので、地頭の権能はアボン~~

ですが肥前千葉氏は河上社の大宮司職に就く事で、再び肥前国人衆との濃い繋がりが出来ます。
何故なら、一番偉いのは座主(基礎知識3)でも、実際に神事や祭事に関する実務を担い国人衆と遣り取りするのは大宮司だからです。
「大宮司」の地位がキーになるというのは、そういう事です。

東国御家人だった肥前千葉氏は河上社の大宮司になることで、完全に肥前へ土着することに成功しました^-^
シオが肥前に本腰入れて土着したのは五代目胤泰からだ~と繰り返し記事に書いてたのは、その為です。

一方、九州探題・今川了俊(兄)と肥前守護・今川仲秋(弟)は、駿河衆。
大内氏の支配も嫌がった肥前国人衆です。
他国者である今川兄弟から、肥前国一の宮・河上社の支配構造ネットワークを握られ、それを通じて支配される事に、モヤモヤしてたようです。

今川了俊・仲秋兄弟が駿河に帰還したことで、
大宮司とはいえ探題でも守護でもない肥前千葉氏が河上社の支配構造ネットワークを手にする事に肥前国衆からのクレームがないのは、
それが他国人から国衆へと、河上社の支配構造ネットワークを取り戻す事になるからです。

ただし、この時点では完全じゃない。
駿河衆は全員が帰還した訳でなく、肥前に土着した肥前今川家がいるからです。
肥前今川家は系図にあるように、5代目胤泰の孫・国秋が祖になり、肥前千葉氏の保護下にありました。

了俊と仲秋の系譜を引き継ぐ肥前今川家がある限り、河上社の支配構造ネットワークを全て引き継いだ事にはならない。
でも頼られてる以上は保護しなきゃならないのが、力ある領主の辛い所。

その力ある肥前千葉氏が最初の分裂ピンチを迎えたのが、7代目胤鎮の時。
大内氏が胤紹を担ぎ出し、家督を簒奪したんです。
西国のドンにぬかりはない。
胤紹は大内氏のバックアップで室町幕府から当主として公式に認められ8代目としてカウントされます。

既に記事にしてるので、経過すっとばして、とにかく胤鎮がリベンジで挙兵。

その7代目胤鎮VS8代目胤紹で、今川国治が胤紹サイドでした


まいがぁあああああああああ!!今川国治ネタを肥前千葉氏編に盛り込むの忘れてたぁぁ~

ちゃんとリサーチしてたんですぅううう
グーグルで今川国治を検索すると、シオの過去リサーチ記事がTOPに出てる件~(´;ω;`)ウッ
https://www.google.co.jp/search?sourceid=navclient&hl=ja&ie=UTF-8&rlz=1T4AURU_jaJP499JP499&q=%E4%BB%8A%E5%B7%9D%E5%9B%BD%E6%B2%BB

うぅっ、せっかく下調べしてたのに~~~自分のバカバカバカバカバカバカバカバカバカバカバカバk@★♪グギグ
宮島先生の論文を読むまで完全に忘れてたでつ ・゜・(つД`q。)・゜・
萌えと興奮と、ぐやじざで~、論文を初めて読んだ当日は2時間しか眠れんかった~~~
(こういう事があったんで、感想記事を書かなきゃと思った次第でして・・)

ゲホグホゴホ・・・スン(鼻水かみかみ)・・・この胤鎮リベンジ合戦で、今川国治は戦死し肥前今川家は一気に衰退。
千葉胤鎮は、河上社の支配構造ネットワークを完全掌握(=^・ω・^=)v ブイ
肥前千葉氏最盛期の当主となり、肥前国人衆から「肥前国主様m(__)m」と仰がれたのでした。
ちなみに肥前今川家が持永家として、肥前千葉家臣の列に入るのは11代目胤朝の代です^-^

前回書いた探題領・佐嘉郡の与賀と川副ですが、肥前今川領でした。
今川衰退と共に肥前千葉氏がゲット。
そこへ少弐氏が居座ったあげくに、一部(川副千町)を龍造寺剛忠(家兼)に与えたという流れ^^b

さて、論文の感想はここまでで、次は論文を読んだ上でシオ推測なのだが、それは・またの話 by^-^sio

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