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Channel: 九州戦国ブログ~室町末期から江戸初期まで~
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ワハハハ~深堀氏 「大・海・賊」

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= 大河クロカン・・2回目も微妙!(`・ω・´)キリッ =
少しくらいスィーツでも、今更だし、まぁいいけど「雷、きゃっ」は・・・王道すぎな気が^^;
毎回、微妙なうちに年末になったりして,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
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= 戦国期における有明海の交通体系ー兵船動員と海賊・国人領主ー鈴木敦子著 =
の、感想をリクエストされてたんで、ちょっぴりと・・(*´pq`)プププ

というのも既にアップ済の肥前千葉関連と違って、
この論文の場合は「あんまり詳しく書くと」「これから展開する歴史記事のネタバレ」になるんです。
てことで、軽めにいきます~ゎーィ♪ヽ(*´∀`)ノ

自分はズブの素人から九州戦国史に入った為に、こうした専門家・論文の存在すら知らず、北肥戦誌をツールに独学(WEB検索)で、ここまでの知識を得て来ました。(←凝り性なんで徹底して調べるから)
だから今まで記事に盛り込んでたオタ推論が、こうした論文で展開されてるのを読むと、自分の方向性がズレてない事が確認できて、物凄~くホッとしてます^^;

自分は「肥前において、一定の力がある国人領主は自前の津(港)があったはず」「船は現代のマイカーのように、持ってるのが当たり前感覚だったはず」
って、何度か書いてますが、論文読むと、やっぱそうでした~ゎーィ♪ヽ(*´∀`)ノ

ただし、それは筑前だけでなく、筑後もだった Σ(´Д`;)はぅっ

論文読んで、筑後の河川河口船便が自分にとって盲点だった事が判明(_´Д`)アイーン
道産子の悲しさで、地理感覚がスコーーンと抜けてたんです^^;;
言われてみれば筑後も有明海に面してるのよネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

で、ちょっぴりネタバレ・・・論文によると

1570年の今山合戦において、大友宗麟は筑後国人衆に有明海の海上封鎖(準備)命令出してました

何と!(゚ロ゚屮)屮 シランカッタ~~~
筑後と筑前は歴史的に双方向で行き来してました。
神代家や犬塚家が筑後で没落して肥前に土着したように、
龍造寺も剛忠(家兼)や隆信も、ピンチになると筑後へ亡命してました。

ですが有明海の筑後側津(つ=港)や航路を海上封鎖されたら、今までのピンチみたいに筑後へ一時退避が出来ない ガビ━━━(゚ロ゚;)━━ン!!
今山合戦で乾坤一擲の夜襲に全てを賭けるしかないほど、陸からも海からも龍造寺は本当にピンチだったようです。

イメージ 1

論文は、今後のネタに関わるので、付箋に棒線やらイパーイ (*´pq`)クスッ

それと海上交通ルールが室町中期には既に法文化されてたって( ゚д゚)ンマッ!!
「大船廻法」って言うんですが、論文によると写本が全国に流通してて、九州でも海難法として広く普及してたそうです。
自分のオタ推論以上に、活発だった・・・( ̄ω ̄A;アセアセ

でもって安堵に関する部分だと、海夫船の所有と船の係留地が「先祖譲状」の対象になってました。
海の民にとって、絶対必要なものだから当然といえば当然なんですが、キッチリ明文化してたんだな~

あと「海賊」ですが、論文では2パターンに分けてました

・ホントに海賊行為で生業たててる漁民(田畑なし)たち

・在地領主(田畑あり)で海賊行為もするけど、戦時においては水軍として活躍する国人領主


海賊行為で生業立てる人たちには、そうせざるを得ない事情がありました。
それが諫早・西郷氏で紹介した、急こう配の多良山系です。

そのため耕作地に出来る土地に限界があり、それぞれの河川河口流域が肥沃な穀倉地帯となるのは江戸期の大規模干拓以降。
耕地を持たない海沿いに住む漁師たちは、漁だけでは収入が不安定、倭寇などの海賊行為で食べるしかなかったんです。
戦時になると、国人領主から召集がかかる人々でもあります^-^

で、海賊もするけど水軍として活躍する国人領主の代表例として論文に紹介されてるのが「深堀氏」です。
フロイスの日本史によると「深堀殿は大海賊」ってバッチリ書かれちゃってるんだって,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

秀吉の出した朱印状によると、深堀氏は海賊禁止令以降も海賊行為を継続してたみたいです^^;
深堀の意思じゃなくて、領内の漁民が止めなかったのかもだけど^^;
朱印状(公式文書)の中には「彼者(深堀から)人質を取置、屋敷早々可引崩」とあり、
深堀氏は大ピンチ~~これを、どう切り抜けたのかも書いて欲しかった(爆

http://img5.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/cb/40/tokino_siori/folder/522707/img_522707_9840125_0?1387728615
その後の歴史と系図から推測するに、深堀純賢が石井氏後家と再婚し、その息子を養子にしたのは、このピンチを生き残る為だったのでしょう。

独立した国人領主である事は難しくなり、鍋島家臣になった。
でも同じ家臣でも石井氏は、鍋島直茂正室の実家・・・華麗なる閨閥(=^・ω・^=)v ブイ
深堀氏は本貫地を動く事なく、しかも佐賀藩家老職で幕末まで続いたんです。素晴らしい!

この縁組が成立したのは、鍋島氏にとって「水軍として活躍する国人領主としての深堀氏」が必要だったからです。
「朝鮮の役」の頃ですから、より優秀な水軍ゲッツは、軍役を果たすため必要不可欠でした。
深堀純賢は、自家の水軍としての実力の価値を判った上で、鍋島の殿と上手く交渉したんだろうなぁ^^

http://img5.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/cb/40/tokino_siori/folder/475261/img_475261_9973896_0?1389550258

てことで、論文2つ、すっごい面白かったです (人´∀`).☆.。.:*・シアワセ☆.。.:*

「戦国を駆ける武将たち」も読んだというか見た~
水ヶ江城古図・・・メチャクチャ、くまなくクリークだらけでつ,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!

さて、明日からは中断してた肥前後藤氏の続きに戻ります^^/
それは・またの話 by^-^sio

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