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Channel: 九州戦国ブログ~室町末期から江戸初期まで~
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【肥前後藤氏・六~貴明・3】西肥前強化期間リサーチ8武家目

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1560年8月、有馬勢3千が潮見城を攻撃。
渋江勢は数百人だったが、鉄砲を駆使して良く防戦していた。
そんな最中、潮見明神が不思議な神託を出した。
城内にある鉄砲で人を殺すことは当域の穢れであり、急ぎ鉄砲を城外に運び出せ、敵がくれば神力をもって退治する
と戦の真っ最中に、時代の流れに逆らう保守的な神託に、
若い世代の公重?(。_゜)?と公師?(。_゜)?

いや、いかに累代大事にしてる明神の神託でも、これは従えないとクレームを入れると、
父の公親が「ゴルァ!!!(# ゚Д゚)・;'.明神さまの神託にクレームとは何事かぁ」と息子たちを叱った。
パパ公親は「本貫地の長島に戻れたのは、これひとえに(後藤の力だなんて認めない)明神さまの御庇護の賜物!(-人-)☆彡」
「御神託に従え!それ運ぶのじゃ」と鉄砲を城外に運び出してしまった。(出典:橘家渋江由来記)

これが有馬の謀略だった・・・

累代の庇護者であっても支配力が衰えちゃうと、巫女さんも敵に買収されちゃうのネー(*´・д・)(・д・`*)ネー
巫女の神託は真っ赤な偽物だったんです。

同年9月21日、謀略に公親が引っかかったのを知るや否や、有馬は潮見城攻撃開始。
有馬勢の猛攻撃で鉄砲のない渋江は押され、公重が討死。城は落城する。
急報を受けた後藤貴明が出陣し直ちに奪い返したが、渋江親子は貴明の怒りを恐れて出奔してしまったとさ^^;

同年12月、後藤貴明は肥前須古城(有馬サイド)を攻撃して失敗

打倒・大村純忠の為には、大村のバックにいる有馬とも敵対する事になります。
後藤勢も肥前須古城周囲の湿地帯に苦戦したかな?

1561年(永禄4)、塩田(嬉野市塩田町)の塩吹城を攻め、領主・原直景(有馬サイド)を降伏させる

1562年(永禄5)4月、手が回らなかったのか、後藤は公師を帰参させ潮見城を守らせた

偽神託に引っかかったのはパパ公親で、息子の公師は反対してたからネー(*´・д・)(・д・`*)ネー
城は元々の持ち主に守らせるのが一番。住民感情も害さずにすみます(^ -)---☆Wink

同じく1562年(永禄5)後藤貴明に長男・晴明が産まれる

ほらネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

これだけでも揉めそうなところへトドメ。

1563年(永禄6)平戸の松浦隆信が、宗家である相神浦松浦氏を攻撃開始

イメージ 1
(平戸・松浦隆信イメージ画像)
平戸松浦の宗家攻撃開始が、こんなに早いとは貴明(養父)も惟明(養子)も思わなかっただろう。
これには複数の要因が重なってます。
1)1562年(or1563年)龍造寺VS有馬の激突で、有馬が負けちゃった事⇒すぐ他方面への軍行動不可。
2)松浦党の波多氏が家督を巡る御家騒動で、宗家と平戸の対立どころじゃなくりフォロー不可。
3)長年、宗家・相神浦松浦を支えていた少弐氏が、龍造寺によって滅ぼされた。
松浦関連データを集めてて、少弐が松浦党では「宗家押し(少弐氏から嫁を迎えて縁戚関係)」だったのを、最近になって知りました^^;
その為、平戸松浦氏は少弐政資から討伐されたり(平戸は一時、筑前⇒山口へ亡命)
少弐資元の奔走で、平戸松浦は(しぶしぶ)宗家と和睦したりしてたんです。

こうした要因が重なり、平戸松浦が宗家を攻撃しても、宗家を援ける為に直ぐ動ける勢力がいなくなりました。
宗家は数年間抵抗を続けますが、他から邪魔がなければ、平戸松浦だけで充分。
平戸松浦には、改まって後藤の力を借りる必要がなくなり、貴明嫡男誕生もあいまって、惟明の後藤家における立場が弱まってしまう。

皮肉にも貴明は、実父である大村純前と同じような状況を招いてしまった。
我が子・晴明に自分と同じ思いをさせてなるものか・・・!
次第に後藤貴明と養子・惟明の関係が、ギクシャクし始める。

この間(1562年~1563年)、貴明は豊後のキング・大友宗麟に秘かに書簡を送り、翌年、同盟を結んでいる。
活発に動く後藤貴明の目的は、打倒・大村純忠であり、大村の家督を乗っ取った打倒・有馬だった。
それが実行に移されたのが、1563年だったのだが、それは・またの話 by^-^sio

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