ひ~~~
松浦と波多と渋江と後藤の点在するデータを時系列に組み直すので、脳みそ沸騰しそう!!
松浦と波多と渋江と後藤の点在するデータを時系列に組み直すので、脳みそ沸騰しそう!!
有馬が敗れた龍造寺との戦いは、1562年説と1563年説の二説あります。
後藤貴明が打倒・大村純忠に向けて動いたのが1563年なので、1563年だったのかもしれません。
(てか、これだけ大物同士の激突で年代が二説ある肥前って・・・( ̄ω ̄A;アセアセ)
後藤貴明が打倒・大村純忠に向けて動いたのが1563年なので、1563年だったのかもしれません。
(てか、これだけ大物同士の激突で年代が二説ある肥前って・・・( ̄ω ̄A;アセアセ)
とにかく直接のキッカケは大村純忠の受洗でした
受洗の動機は「南蛮との交易」とか「勢力拡大してきた龍造寺へ対抗する為」とか、色々あるようです。とはいえ傾倒ぶりは大友宗麟とイイ勝負で、こういう場合に迷惑を蒙るのは家臣なのも一緒。
大友純忠・・・じゃなかった(爆)大村純忠は、熱心なあまり領内の神社仏閣を破壊し、家臣へも改宗を迫ったそうです。
この手の話は、どこまで信憑性があるのか、判断しようがないので困る^^;
でも神社仏閣が破壊されたなら、大村関連データが乏しく大村藩史を検証しようがないのも頷けます。
何といっても神社仏閣は一次史料の宝庫ですから。
で「家臣へ改修を迫った」も全くの中傷デマではないかもです。
この手の話は、どこまで信憑性があるのか、判断しようがないので困る^^;
でも神社仏閣が破壊されたなら、大村関連データが乏しく大村藩史を検証しようがないのも頷けます。
何といっても神社仏閣は一次史料の宝庫ですから。
で「家臣へ改修を迫った」も全くの中傷デマではないかもです。
何故なら、純忠の受洗に反感を覚えた大村家臣が、大挙して武雄・後藤貴明に寝返ったからです
後藤貴明は大村家臣の寝返りで、大村領であった北部波佐見、川棚、彼杵を労せずしてゲッツ(=^・ω・^=)v ブイ
いずれも東彼杵郡の土地で、後藤が手にしたのは総面積のザックリ1/4くらいでしょうか。波佐見の北部というと、武雄市に近い方ってことでしょう。
いやそれよりも川棚町と彼杵町です。
そこは大村湾に面した土地・・・後藤貴明は大村エリア内の港を手に入れたんです!ゎーィ♪ヽ(*´∀`)ノ
佐世保湾の奥にある南蛮交易港・横瀬浦を狙える位置に足場を確保。
1563年7月、後藤は大村家臣にクーデターを起こさせ、自らも出陣して大村領の平定を試みるがコッチは敗退^^;
針尾島に兵を出して佐志方城を攻め落とし、かつ、佐世保、日宇、早岐、針尾島の四ヶ村もゲッツ
ちなみに、この針尾島の南端に、現在のハウステンボスがあるんでつ( ̄ko ̄)この勢いで憎い大村純忠の首を~~~~~~~~と行きたいところに「待った」がかかる。
龍造寺の肥前須古城攻略が始まったからなのだが、それは・またの話 by^-^sio
龍造寺の肥前須古城攻略が始まったからなのだが、それは・またの話 by^-^sio