龍造寺の台頭と同時期に生まれた後藤貴明は、不運だったのかもしれない。
とにかく有馬だ龍造寺だと、邪魔が入るので大村純忠攻めに集中する事が出来ず、貴明は忙しい人生を送る事になり、
それをまとめてるシオも、脳みそが汗だくになってます,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
とにかく有馬だ龍造寺だと、邪魔が入るので大村純忠攻めに集中する事が出来ず、貴明は忙しい人生を送る事になり、
それをまとめてるシオも、脳みそが汗だくになってます,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
1563年、大村純忠の受洗を嫌った大村家臣の寝返りで、打倒・純忠に向けて畳み掛けるチャンスだった後藤貴明の行動に「待った」がかかる。
ほぼ同時期に龍造寺勢が北方方面に迫ってきたからです。
大村純忠に集中してた後藤にとっては「まさかの緊急事態」で、まったり善後策を講じてる暇がない。
てか、このチャンスを逃したくない~~「龍造寺とは和睦!」←これが7月の話。
大村純忠に集中してた後藤にとっては「まさかの緊急事態」で、まったり善後策を講じてる暇がない。
てか、このチャンスを逃したくない~~「龍造寺とは和睦!」←これが7月の話。
同年8月、龍造寺勢の肥前須古城攻めが始まり、同盟関係から後藤も龍造寺勢の先鋒で参加⇒で、敗退
後藤貴明にすれば、こんな事で将兵を失うことがバカバカしかっただろう。肥前須古城が容易に落ちる城ではないのを、実際に攻撃して理解すると方針をガラリと転換。
後藤貴明は須古城・平井氏と和睦、証として平井の娘を貴明の養子・惟明の室に迎えた。 |
嫡男・晴明クンが生まれた為に、(気持ちの中で)余してた養子の使い道見っけ~(・∀・)
須古城主・平井経治が有馬サイドの城で武将なのは、百も万も承知の上(`・ω・´)キリッ
(須古城主・平井経治イメージ画像
龍造寺が六角川防衛ラインを突破するには、肥前須古城を軍事的に制圧することが必須なのだ。
逆を言えば、肥前須古城に頑張ってもらう事によって、龍造寺勢を足止め出来る。
逆を言えば、肥前須古城に頑張ってもらう事によって、龍造寺勢を足止め出来る。
有明海側の鹿島方面からは有馬軍が塩田に迫り、更に渋江の潮見城へと迫る
潮見城を守ってた渋江公師Σ(´Д`;)はぅっ急ぎ後藤貴明に急報し援軍を派遣してもらう。
前回落城の汚名挽回・・じゃないか、名誉挽回とばかりに後藤勢と共に奮戦し、有馬勢を見事打ち破った(=^・ω・^=)v ブイ
1566年(永禄9)7月、貴明は大村に出陣し大村純忠を攻めるてるけど、これも失敗。
が~~純忠がしぶとい!!
なんか西郷とか深堀とか長崎とかリサーチしてるせいか、シオまで大村純忠にイライラ・・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ
が~~純忠がしぶとい!!
なんか西郷とか深堀とか長崎とかリサーチしてるせいか、シオまで大村純忠にイライラ・・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ
1570年の今山合戦では、一般常識チョイスで大友側についた後藤だが、想定外の龍造寺勝利で再び肥前戦国史が灰神楽が舞ったようになる。
さらに1572年(元亀3)7月には、平戸松浦氏&諫早の西郷氏と呼応して、大村純忠の三城を兵1500を率いて包囲したのだが、またも大村が防ぎ切る。
(大村純忠の武運って強いんだか弱いんだか・・勝てないけど負けない^^;)
(大村純忠の武運って強いんだか弱いんだか・・勝てないけど負けない^^;)
で、龍造寺と後藤なんですが、まだ他データと擦り合わせてないんですが、ウィキペディアによると、1571年、1572年、1574年と、ちょこちょこ交戦してたそうです。
このまま敵対関係が続くかと思いきや、後藤貴明の運命を大きく変える事態が発生したのだが、それは・またの話 by^-^sio
このまま敵対関係が続くかと思いきや、後藤貴明の運命を大きく変える事態が発生したのだが、それは・またの話 by^-^sio