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Channel: 九州戦国ブログ~室町末期から江戸初期まで~
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【肥前後藤氏・六~貴明・6】西肥前強化期間リサーチ8武家目

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論文読んでる内に、寝ちゃってた,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
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1574年・・・養父・貴明41歳、養子・惟明29歳の時に破綻が起きた。

最初のキッカケは、貴明に実子・甫子丸が誕生(1562年)し、貴明が総領が受け継ぐ後藤家伝来の太刀などを我が子に与えてしまった事だった。
実子が産まれ、性別は男子と聞いた瞬間、貴明は養子を貰った事を後悔しただろう。
ふと思いついたが、貴明が打倒・大村純忠に拘ったのは、実子と養子の狭間で懊悩したからかもしれない。

後藤貴明は大村純前の実子で、本来なら大村の家督を継ぐはずの所を、有馬家から純忠が養子として押し込まれたからです。
貴明の存在が禍根になるのを危惧した有馬は、貴明の養子先として男子がいない後藤家を斡旋した。

大村純忠を倒し、大村領を取り戻した暁には、大村領を実子・甫子丸に継がせ、後藤家を養子・惟明に継がせる。
これが上手く行けば八方丸く収まるのだが、現実は大村純忠がしぶとくて死んでくれない^^;
そうこうしてる内に、養子・惟明の方が待ちきれなくなった。
サイトによっては、実父である平戸・松浦隆信が唆したともある。

6月22日、惟明が塚崎城の二の丸にて謀叛の意志を皆に伝えるが、貴明に露見したため、そのまま二の丸で籠城となった

後藤家は真っ二つに割れ、貴明は当主でありながら塚崎城を退去する羽目になる。
このピンチに後藤貴明は、止む無く龍造寺隆信へ助力を求め、それによって惟明に勝利した。

降伏した惟明は養子縁組を解消され、実家である平戸・松浦家へと返された。
松浦家でも処遇に困ったのだろう、惟明は平戸に住む事は出来ず日宇(佐世保市)で隠棲し生涯を終えた。
ただ幽閉とかでなく、平戸・松浦の一族として出陣もしてるので、日宇で幽閉とかいう訳ではなさそうです^-^

この件で和睦した龍造寺と後藤だったが、速攻で破たんした( ̄ω ̄A;アセアセ
後藤貴明には以前に和睦しておきながら、態度を翻し須古城の平井と同盟を組むと言う前科があるので、龍造寺が後藤の心底を疑ったんです。
だって後藤自身が、龍造寺の為に積極的にハッスルするアピールしてないんだもん^^;
後藤にしてみれば、助けてもらったから同盟したけど、配下になったつもりは無いからでしょう。
この2度目の和睦後に、後藤が龍造寺配下になる決断し赤心を見せていれば、もしかしたら違う運命だったかもしれない。

3年後の1577年2月に再和睦するんですが・・・・(後藤的に)条件が悪くなりました(´;ω;`)ウッ

それは、貴明の実子・晴明を龍造寺隆信に養子に出す代わりに

隆信の三男である家信を貴明の娘・槌市と結婚させ貴明の養子とするというものでした

この時の龍造寺は須古城に手こずってた頃の龍造寺ではありません。
てか、その須古城は今では隆信の隠居城・・・後藤貴明は出された条件を呑むしかなかった。

結局、後藤貴明は亡き父・大村純前と同じく、我が子に家督を継がせる事が出来ませんでした。
大村が後藤家に、有馬が龍造寺になっただけです。
晩年の貴明は光明寺(北方町)に隠棲したそうですが、その複雑な胸中は計り知る事は到底無理でしょう。

余談になりますが、後藤家の正史に「藤山考略」があります。
最近読んだ宮島先生の論文によると、この藤山考略に黒髪神社で紹介した大蛇退治が盛り込まれたのは、
後藤氏が武雄を支配する正当性アピールの為だと論じています。

「藤山考略」の成立年度は不明ですが、江戸初期と思われます。
龍造寺隆信の孫にあたる茂綱の頃、後藤家臣の一部に「茂綱さま(※自分らの主君)を廃し、鍋島家から当主を迎えるべきじゃね?」って動きがあったそうです。
あ~~~なるほどね~後藤家臣が不安にかられた気持ち判るわ~(゜゜)(。。)(゜゜)(。。)ウンウン

というのも茂綱は病気で「関ヶ原の戦い」動員時に遅参するという大失態をやらかして、鍋島・龍造寺の両方から白眼視された黒歴史があるからでつ ( ̄ko ̄)
過去記事「【公方栗毛】江上表・八院合戦編5栞88 」
http://blogs.yahoo.co.jp/tokino_siori/5534368.html

その後、西軍残党掃討戦である「江上・八院合戦」において先陣(第二陣)で、獅子奮迅頑張って名誉回復するんですが、
それでも後藤家臣(一部)にすれば不安で「御家存続の為に・・」って思ったんでしょうね。
茂綱サイドでは大慌てで「藤山考略」を編纂させ、後藤氏正当性アピールして家中統一を計ったと思われます。(ちなみに茂綱は、後年になって藩制を預かる立場になりますv(=^・ω・^=)v ブイ)

思えば後藤氏嫡流は職明(しきあき)までで、純明は系譜としては女系。
初めは(有馬から斡旋された)大村、次は龍造寺と、時の実力者に養子を捻じ込まれてきた後藤氏には、
表面に出せなかった「言い分」があったはずで、それが最も凝縮しているのが「実子を当主に出来なかった貴明」の存在だと思うのです。

貴明寺(武雄町大字永島)には、後藤貴明の木像があります。
貴明の死後5年後に造られたもので、生前の姿を模していると言われています。
とても意思が強うそうな鋭い眼光を宿しています。
造らせたのは貴明の実子・晴明(龍造寺家均)で、亡き父の姿を思い描きながら彫師に指示したのでしょう。
物言わぬ木像は今も凛と佇んでいます。

さ~次は松浦党よ~~~それは・またの話 by^-^sio

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