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【前篇・陸(おか)の松浦(まつら)党】西肥前強化期間リサーチ10武家目

え~鼻かぜが鼻炎になりまして、ただいま漢方薬から抗生物質にクラスチェンジなぅ。
薬効のせいか、頭が冴えて来たんで復活します^^
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まず松浦党(53家)のザックリとした区分け~
・上松浦~佐賀県側
・下松浦~長崎県側(一部佐賀県にまたがる)
(上下の区別基準は、京都に近い方が上、遠い方が下)

で、上松浦で松浦党最大の勢力だったのが、波多氏。
松浦党=水軍のイメージだが、実は波多氏エリアは海に面してない為、港がない。

本城:岸岳城(佐賀県唐津市北波多稗田)
・・・・実は、ここ・・・知る人は知る超心霊スポット・・・(((((( ;゚Д゚)))))ガクガクブルブル
遊び半分で遺構を訪問しないようにね!(-人-)☆彡

岸岳城は標高300mの岸岳山頂にある連結式山城。
岸岳は非常に峻厳な山ですが、現代では道路整備されてるので遺構まではスンナリ行けます。
で、日常の居城としは2kmほど離れた波多城を使ってました。

他の港を持つ松浦党が交易で利潤をあげてるのにひきかえ、
エリアが内陸の波多氏は、思うように分け前が手に入らなかった。

1472年(文明4)波多氏は隠岐島を襲って支配下に治め、隠岐島(←え?)を海外交易の拠点として・・・
データ見間違い壱岐島(長崎県)だ!,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
ゲホグホ・・壱岐島を海外交易の拠点として財をなし、上松浦地方の首領と仰がれるまでになる。

波多氏の系図は色々混乱してて、見れば見るほど判らなくなるという状態^^;
とにかく波多氏が最も勢力あったのが、下野守興の代。
1518年、宗家・松浦親は波多興の娘を正室に迎え同盟関係となる。

波多興の跡目は盛(さこう)が継ぎ、盛は後室に有馬晴純の娘(or孫)真芳を迎えていました。
つまり宗家・松浦は、有馬(養子縁組)波多(有馬の姫と婚姻関係)と二重三重に同盟関係を強化して、平戸・松浦に対抗してたんです^^b
この関係に綻びが出るのは波多氏からでした。

1547年(別説有り)実子がないまま波多盛が没した事から御家騒動となる

未亡人真芳押し~実家である有馬晴純の孫藤童丸(後の親)
波多一族~~~~亡き盛の弟・志摩守の息子3人のいずれか

1557年、未亡人強行突破~藤童丸を独断で後継として岸岳城に迎える


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イメージ 1

(大人の波多鎮~後の親)

元服した藤童丸は大友義鎮から偏諱を受けて、「波多下野守鎮(しげし)」と称し家督を継いだのだ、それは・またの話 by^-^sio

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