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Channel: 九州戦国ブログ~室町末期から江戸初期まで~
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【後篇・陸(おか)の松浦(まつら)党】西肥前強化期間リサーチ10武家目

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洗濯機凍った~~~~~~~~,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
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宗家に、有馬からの養子に、波多に・・・親(ちかし)多すぎ!!

これだから一文字諱ってやつは・・・・ブツブツ




実弟系譜に男子がありながら、未亡人のゴリ押しで有馬から養子を迎えた事で、波多氏は家中が二分する。
さらに上松浦一族全体が、有馬から養子を迎えた事に猛反発した。

1564年(永禄7)未亡人真芳は、反対派の中心は日高大和守資であろうとして、資を城中で毒殺

実は松浦サイトによると1556年に平戸・松浦隆信が、波多の岸岳城を表敬訪問してるんです。
更に1559年にも松浦隆信が岸岳城に訪れ51日間滞在し、日高資と喜親子と交友してました。
未亡人真芳は、平戸・松浦が動いた事で日高が何事か企んだと思い、先手を打って日高を殺したんじゃないでしょうか。

案外、波多氏内部を更に揉めさせるのが目的で、平戸・松浦隆信は岸岳城に長期滞在したのかもだな~
松浦党最大の勢力だった波多氏が宗家サイドである限り、平戸は宗家攻撃に踏み切れなかったからです。

さらに未亡人真芳、家中を掌握するため、重臣から人望を集める鶴田直を取り除くことを企てた

同年、今度は鶴田直を岸岳城に招きその帰途を急襲して殺害する


くどいようですが、1562年(or1563年)に、有馬が龍造寺に敗れた事が各方面に影響したんです。
以前のように実家の勢力を背景にしづらくなって、未亡人真芳は焦ったのだと思います。

ですが、鶴田氏まで殺ったのは、やりすぎ・・・( ̄ω ̄A;アセアセ
もしくは禍根を断つために、いっそのこと日高息子・喜も殺るべきでしたな ( ゚Д゚)y─┛~~
(((((( ;゚Д゚)))))ガクガクブルブル・・・重臣の有浦氏は、この状況に耐えきれず岸岳城からトンズラ。
(有浦は未亡人から勘気を蒙り所領没収されたとか^^;)
(没収時期は鶴田殺害前だとか、史料によってゴニョゴニョ~)

一方、毒殺された日高の嫡男・喜は、以前と変わらぬ風情で出仕してたそうです。
で、未亡人真芳が油断した頃に、当主を殺された日高・鶴田がタッグを組んで反撃!
まだ若年だったらしい波多鎮(後の親)は、岸岳城を追放された^^;

イメージ 1

波多鎮(=親)家紋別バージョン

日高喜は鶴田を上松浦の頭領として祭り上げ、勝手横暴専横の振る舞いをする。
鶴田は閑居してた有浦に「コッチに味方したら、有浦を≪安堵・して・あげる≫」よ~」と誘いをかけた。
頭領面して上から目線で言われた有浦は「わが家と鶴田は本来同格!カチーン★(-ω-#)ビキビキ」となった。
有浦大和守高は「事、ここに至っては下野守鎮(=親)を当主とするのが筋である(`・ω・´)キリッ」と値賀・青山らによびかけ、波多鎮復活運動を開始。

1569年、波多鎮(=親)は龍造寺&有馬の支援を受けて岸岳城に復帰する

武家家伝サイトでは「岸岳城を占拠していた日高喜を壱岐に追い出すことに成功したのである」とあるが、
シオは逆だと思う・・・日高を壱岐に逃がすべきじゃなかった。

1472年に波多氏が壱岐島を支配下に治めた時、初期の壱岐代官は日高一族だったからです。
地の利・人脈・胆力もある日高喜は、たちまちのうちに壱岐島における波多勢力を駆逐し占拠。
交友のあった平戸・松浦隆信配下となる。

波多鎮は、数年後に日高ら残党派と何とか和睦するんですけど、一連の騒動・戦で波多氏の勢力は大きく減退しました。
若年で御家騒動に巻き込まれた波多鎮(=親)には、本当に同情します(´;ω;`)ウッ
散々引っ掻き回した未亡人真芳の没年など、その後はシオレベルでは不明です。
まぁ波多鎮から見れば義母なので、最期まで粗略にはされてないでしょうね。

波多鎮は、岸岳城復帰に尽力してくれた一人である青山采女から妻を迎えていました。
ところが龍造寺隆信からの圧力で悲劇がおきるのですが、これは本編で紹介しますね^^

波多鎮は龍造寺隆信から偏諱を受けて、一時期「信時」と名乗ってて「親(ちかし)」に改名したのは、その後のようです。
従五位下三河守任官は秀吉から推挙された正式なものです(天正16年)。
もちろん波多一族の力を、来たるべき「唐入り」に利用する為だったんですが、波多親はイマイチ理解してなかったっぽい。
龍造寺との時も味方になったり敵対したりとフラフラで、どうも決断力に乏しい性格だったようです。

波多氏は上松浦衆の頭領・・・いわば山内の英雄・神代勝利の海バージョン。
こういう○○衆の頭領って、神代勝利公のように個人的カリスマがあるか、大きな後ろ盾があるかでないと纏めるのは並大抵の事ではありません。
ましては波多親は、他家からの養子なんです。

波多親のブレは、頭領として一族をまとめる事の困難さの表れでしょう。
波多氏の没落で上松浦衆諸氏も離散の憂き目となります。





さて、ほんとの事を言いますと、やりだせばキリがないのがリサーチです^^;
佐世保戦国史や隠岐島などなど多数あり、自分のリサーチは極一部なんです。
が、有馬と大村関連の欠落が多いだけでなく、各武家も不明な点が多いため全体の流れを掴む程度で留める事にしました。

一つ言えるのは、西と東の戦国が大きく交差し始めるのが、現在中断してる佐賀戦国史本編の1562年(or1563年)有馬VS龍造寺だと言う事です。
少弐氏が衰退した事により、東肥前で台頭したのが龍造寺で、西肥前で台頭したのが有馬氏です。
東西決着は「沖田畷の戦い」になるのですが、それは・またの話 by^-^sio

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