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【鶴田氏~3・波多氏との対立】西肥前強化期間リサーチ11武家目

風邪、ようやく治って来た(*´pq`)
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兄・直が謀殺されたのを知った弟・鶴田前(すすむ)は、岸岳城を攻めたが要害堅固な岸岳城を落とす事は出来なかった。
が、この時の果敢な攻めにより、鶴田越前守前の武勇は一気に全松浦党の知る所となり、御家騒動で衰退した波多氏に代わって頼みとされるようになる。
つまり平戸のドン・松浦隆信が、ダイレクトに鶴田氏に接触するような立ち位置になるんです^-^

鶴田宗家は、直と前の弟・勝が嗣子となって継いだ。
直には息子が二人いたのだが、直は若くして謀殺されてるので、未だ幼かったんでしょう。
鶴田氏の実質的な惣領は鶴田前だったらしく、鶴田勝は前回話した「直道=連絡ルート」を使い、大小何事も優れた兄と相談してたようだ。

1564年(永禄7)暮れに日高喜(このむ)が謀反を起こして岸岳城を奪い、波多未亡人・真芳と有馬から迎えた新当主・波多鎮をo( ̄Д ̄θ★ケリッ! と城から追い出した。
これは喜の父・日高大和守資(もとし)を未亡人・真芳が邪魔ものとして毒殺したからと言われてるんですが、詳細はハッキリしてないそうです(一次史料で検証するまでに至ってない)

未亡人・真芳と波多鎮は草野氏を頼って亡命しました。
で、波多氏リサーチでは武家家伝サイトに紹介された話に準拠したんですが、これ実は真偽ハッキリしてません。

通説だと日高&鶴田が岸岳城を占拠し、やりたい放題して義憤にかられた有浦が有志を集め波多鎮復帰運動した~
って流れになってます。
ただ仁徳を慕われた鶴田前(すすむ)の性格を考えると、弟(鶴田本家当主)勝が暴慢な振る舞いするのを看過するタイプじゃないんだよな~

鈴木先生の論文ですと、波多復帰運動してたと言われる有浦氏の「有浦文書」では、日高と鶴田が岸岳城を占拠してるような記述が見当たらず。
そもそも波多鎮が岸岳城に帰還するのを、日高と鶴田が反対してるような雰囲気もないらしい。

年不詳ですが有馬義純・義貞が連著で有浦に対し書状を送ってます。
ぶっちゃけた内容は「ゴルァ!!!(# ゚Д゚)・;'.波多鎮が岸岳に戻れるように取り成せ!」と圧力かけてるんです。

かつて有浦氏は未亡人・真芳の勘気を蒙り出入り禁止・所領没収されてた時期がありました。
それを獅子ヶ城・鶴田前(もしくは亡き鶴田直)が取り成し従前通りになるように計らったそうです。
ですが、波多と鶴田&日高が対立した時に、有浦は鶴田に味方せず騒動から距離を置きました。
このあたり有浦氏は心中モヤモヤがあったのかな~って推測してます。

鶴田氏から受けた厚意を公式に「御恩」としてしまうと、有浦氏は鶴田氏の下風にたつことになりかねません。
このあたりが同族による連合体の難しさでしょう。
有浦氏が今まで通りの立ち位置をキープするには、波多氏という総領を戴く必要があるんです。

そのあたりの空気を、有馬氏に見抜かれてしまい、書状で圧力かけられた。
それで有浦は波多鎮を迎えるべく働きかけた・・・てのが真相に近い気がします。

この波多氏のゴタゴタに、平戸・松浦隆信が大いなる関心を抱いたのは言うまでもないだろう。

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イメージ 1
平戸・松浦道可(隆信)

1570年(永禄13)3月24日、松浦道可(隆信)・鎮信親子が、鶴田因幡守勝(日在城・鶴田本家)宛に出した起請文がある

1)後藤貴明に同心し、波多鎮については帰還なくば鶴田勝に今後無沙汰はしない事
2)波多鎮とは今後入魂にはならないと約す

反波多(=反有馬)として、平戸・松浦と両鶴田が同盟関係となったんです。

1573年(元亀4)3月吉日、日高喜(このむ)が一族と連著し両鶴田氏宛に起請文を出す

両鶴田と日高間で友好関係を結ぶこと
両鶴田・日高氏、共に波多氏に与しないこと

鈴木先生は、もともと同盟関係だった両家が改めて起請文を出したのは、龍造寺による松浦地方侵攻が現実のものになってきたからと解釈してます。
自分も同感です。
日高喜は花押だけでなく血判もしてます( ̄ω ̄A;アセアセ

龍造寺のターゲットは今山合戦で大友方についた、波多・鶴田・草野の三氏。
波多と鶴田が対立せずに連携してたら、歴史は違ったでしょうか。
龍造寺の侵攻が本格化するにつれ、龍造寺に対抗する勢力間での起請文の数が急に増えだすのだが、それは・またの話 by^-^sio

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