後藤貴明の養子・惟明が家督を実力で養父から奪おうと謀反したのが1574年(天正2)6月22日。
城を占拠された貴明は、奪還のために敵対してた龍造寺から援軍を受けました。
城を占拠された貴明は、奪還のために敵対してた龍造寺から援軍を受けました。
惟明は、後藤貴明が平戸・松浦との同盟の証として貰い受けた養子なので、松浦関係者からの援軍は100%無理。
貴明は反有馬だから有馬から援軍してもらうのも絶対(´・д・`)ヤダ
残る援軍のアテは龍造寺だけだったんです。
貴明は反有馬だから有馬から援軍してもらうのも絶対(´・д・`)ヤダ
残る援軍のアテは龍造寺だけだったんです。
で、翌月の7月8日には、後藤貴明を両鶴田との間で起請文の交換がありました。
ですが二日後の7月10日には、後藤貴明は龍造寺隆信との和議を余儀なくされます。
「鶴田越前守殿父子三人之儀、貴明身命之限、差捨申間敷候」後藤貴明は、今回の件で両鶴田が離反し政治的に孤立するのを恐れてました。
ですが二日後の7月10日には、後藤貴明は龍造寺隆信との和議を余儀なくされます。
当然、松浦道可(隆信)は怒ってました。
松浦道可から鶴田前への手紙に「武雄の取り乱しようはけしからん!」と言ってます。
松浦道可から鶴田前への手紙に「武雄の取り乱しようはけしからん!」と言ってます。
一方、後藤貴明からも両鶴田氏宛に手紙が送られてます。
「佐賀への同心(和睦のこと)も戦法です~もしウソだったら詰め腹切ります!」
さらに追記で
「両鶴田と私は永久に不滅・・・(._+ )☆\(-.-メ)ヤメンカ!
「佐賀への同心(和睦のこと)も戦法です~もしウソだったら詰め腹切ります!」
さらに追記で
「両鶴田と私は永久に不滅・・・(._+ )☆\(-.-メ)ヤメンカ!
「永久に両鶴田と私(後藤貴明)は一体であるから、見届けて欲しい」
「今度なんとか渋江山城守には腹を切らせた」
「今度なんとか渋江山城守には腹を切らせた」
あちゃ~実は本編で話すつもりで後藤貴明編では敢えて紹介しなかった渋江ネタです。
元々は後藤氏の主筋で今では後藤配下に転落した渋江氏の公師なんですが、どういう訳か惟明謀反に際して惟明に味方してたらしい素振りがあったんです。
また後藤が激しく憎んでた大村純忠。
彼の助命に関しても渋江公師が仲介してて、後藤貴明はダブルで怒りMAX。
元々は後藤氏の主筋で今では後藤配下に転落した渋江氏の公師なんですが、どういう訳か惟明謀反に際して惟明に味方してたらしい素振りがあったんです。
また後藤が激しく憎んでた大村純忠。
彼の助命に関しても渋江公師が仲介してて、後藤貴明はダブルで怒りMAX。
ですが肝心の謀反加担の確証が掴めず、渋江一族の者に詰め腹を切らせる事で怒りの鉾を治めたらしい^^;
ちなみに渋江公師は、これを機に後藤家を離れて龍造寺に直接帰服しました。
ちなみに渋江公師は、これを機に後藤家を離れて龍造寺に直接帰服しました。
上記・後藤から両鶴田への手紙では「鶴田と平戸・松浦との関係は前々通りである事を望む(-人-)☆彡オネガイ」
と書かれており、松浦道可(隆信)との関係修復を鶴田前に頼んでたようです。
と書かれており、松浦道可(隆信)との関係修復を鶴田前に頼んでたようです。
鶴田氏は松浦・後藤・波多などが絡む複雑な人間関係とは無縁だったので、後藤貴明・松浦道可の双方にとって本音を言いやすい相手だったみたい。
間に挟まれる方は大変だったと思うけど^^;
間に挟まれる方は大変だったと思うけど^^;
北肥戦誌には書かれてないですが、岩屋家譜によると鶴田越前守前が戦死したのは1576年(天正4)6月18日です。
城外に打って出た壮烈な戦死だったと伝えれらてます。 (゜-Å) ホロリ
城外に打って出た壮烈な戦死だったと伝えれらてます。 (゜-Å) ホロリ
サイト武家家伝ですと「波多鎮・伊万里治・有田盛らが有馬氏にそそのかされて、隆信に従っていた獅子ケ城を攻撃してきた。」
となってるんですが、岩屋家譜だと「公(鶴田前)は佐賀に背いた」とあり、情報が錯綜してて状況がイミフです^^;
となってるんですが、岩屋家譜だと「公(鶴田前)は佐賀に背いた」とあり、情報が錯綜してて状況がイミフです^^;
くどいようですが、後藤貴明と平戸・松浦道可との仲介役は、勇将・鶴田前の仁徳あったればこそでした。
龍造寺との和睦が本意でなかった後藤は、1575年に龍造寺と決裂してたんですが、
前(すすむ)が死んだ翌年1577年2月に、後藤は隆信の実子に後藤の家督を継がせるという厳しい条件を含んだ再和睦を受け入れました。
龍造寺との和睦が本意でなかった後藤は、1575年に龍造寺と決裂してたんですが、
前(すすむ)が死んだ翌年1577年2月に、後藤は隆信の実子に後藤の家督を継がせるという厳しい条件を含んだ再和睦を受け入れました。
鶴田前の死去に関しては、1576年8月19日に大友宗麟も鶴田氏に対し書状を書いてます。
「父越前守死去之由、無是非候」とあり、前の息子たちへ今後も兄弟で大友に尽して欲しいと書き送ってます。
「父越前守死去之由、無是非候」とあり、前の息子たちへ今後も兄弟で大友に尽して欲しいと書き送ってます。
大友の守護職としての肥前支配における調停機能には、国衆の間でキーパーソン(仲介役)だった鶴田前の存在は必要不可欠でした。
前(すすむ)の戦死は、大友の東松浦地方における支配において、大きな損失だったんです。
前(すすむ)の戦死は、大友の東松浦地方における支配において、大きな損失だったんです。
そして1576年から、両鶴田と称されるほど同一行動してた鶴田宗家と分家の動きが別々になるのだが、それは・またの話 by^-^sio