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Channel: 九州戦国ブログ~室町末期から江戸初期まで~
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【鶴田氏~5・大友への忠誠】西肥前強化期間リサーチ11武家目

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大友の肥前支配・・・
龍造寺の動きに気を取られると、大友が何もしてないようにしか見えないが、何もしてなかった訳じゃないんです。

堀本一繁氏の論文によると・・・って、あれ?どこに置いたっけ?
やべ~神代勝利公に対する解釈部分が気に入らなくて、どっかに突っ込んじゃった アタヽ(´Д`ヽ ミ ノ´Д`)ノフタ

あ~あったあった・・・ゲフゴホ、ちょっと横岳氏の話に逸れます。
(少弐一門で、西千葉氏当主は横岳一門から入った養子です^-^)
少弐氏滅亡後、横岳氏は大友氏に属し、1570年11月8日に横岳鎮貞は三根郡矢俣300町&西町200町を安堵されてました。
それを1572年4月に龍造寺隆信が横岳の西島城を攻撃。
(横岳の前に筑紫氏も攻撃してます)

領地を侵された横岳氏は大友氏へ訴状出してまして、大友では紛争解決の為に働きかけてます。
堀本氏の論文によると1572年9月時点で、調停の為に文書の遣り取りしてますが、既に龍造寺では横岳から分捕った米田村100町を配下の姉川さんに与えちゃってました^^;

大友は横岳に対し「堺目静謐之儀」に背く隆信へ「申談じた上」で、それでも「止めない場合には討伐する」と回答してます(参照:同論文、出典:横岳文書)
肥前守護職として大友は紛争解決に対し
「当事者間による解決を促す⇒不首尾⇒大友から紛争調査の検視派遣⇒不首尾⇒ここで討伐軍発動」
と言う手順を踏むのを律儀に貫いてまして、つまり時間がかかるんです。

この間に龍造寺は自由に動き回ってるわけで^^;
調停に従わない龍造寺に対し、大友が軍事権を再発動しなかった理由は・・・う~ん自分も判りません。
配下の国人に何か命じてたかもですが、WEB上ではデータなし^^;
この頃は筑前でも大きな謀反なかったんで、その気なら動けたと思います。

とにかく大友義鎮は対話(調停)による解決を模索し、どうしてもダメな最終手段としての軍事権発動という認識だったみたい。(どっかの国連軍みたいだ)
で、横岳が領地を侵されてる状態(現在進行形)は、最終手段を行使する状態と判断されなかったんでしょうか?(横岳涙目)
このあたりが「典型的な守護による領国統治」として、研究者が大友氏をあげる理由なのかもです。

http://blog-imgs-49.fc2.com/s/i/o/siori20120901/blog_import_5042c81fc9ff3.jpeg

時間がかかる調停の間に龍造寺はヒャッハー~1573年12月には、鶴田の獅子ヶ城を攻撃したのだった。
大軍に抗しきれず鶴田越前守前は降伏開城。獅子ヶ城には龍造寺から城番が置かれた。

んだけど、鶴田前(すすむ)は早々(4日後だったらしい)に獅子ヶ城を奪還(=^・ω・^=)v ブイ
再び本家である日在(ひあり)城・鶴田因幡守勝(前の実弟)と同一行動に戻ってます。
ちなみに北肥戦誌では鶴田勝の事も思いっ切り鶴山勝になって・・・il||li _| ̄|○ il||lトホホ

この直ぐあとの12月21日に、両鶴田は草野鎮永と起請文を交わしてます。
緊迫した情勢の中での起請文でしたので、草野は血判してます。

・鶴田と草野の間で一致して後藤貴明につくこと
・(龍造寺からの)攻撃に共闘し防戦すること
などが盛り込まれてました。

が、1574年(天正2)1月に草野氏は龍造寺からの攻撃で抗しきれず和議となり、龍造寺隆信の猶子を養子にする事態になる。
同年2月3日、松浦鎮信が両鶴田に宛てた書状によると、
「両鶴田から龍造寺軍侵攻(草野攻撃の事か?)の情報が入ったので(両鶴田に)加勢を出す」と連絡してます。
同書状には「武雄の貴・惟(貴明と惟明)にも連絡したから!」って書いてたそうです。

後藤貴明(養父)と惟明(養子・松浦隆信の実子)の、家督問題から来る対立は燻ってたんですが、
この2月時点では松浦・後藤の連携は生きてて、それを軸とした国人領主間の同盟も未だ生きてたようです。

で、1月に龍造寺に降伏した草野鎮永は本意ではなかったらしく、同年5月に鶴田本家・鶴田因幡守勝と分家・鶴田越前守前に起請文を(別々に)出してます。

1)「豊州(大友家)」に忠誠を尽くす事
2)草野鎮永と鶴田と同盟関係になる事

同じく5月に大友家臣・原田可真と戸次道雪からも両鶴田に対し、起請文が出されてます。
この原田可真というのが、大友が紛争調停のために臨時に派遣した検視役なんです。
草野氏の記録が欠落してるんで推測になるんですが、起請文の流れからいって草野鎮永が大友に「龍造寺の悪行」を訴えたんじゃないでしょうか。

ちなみに起請文だと龍造寺だけでなく、波多鎮と原田鎮種(誰?)も悪行仲間に入ってます^^;
東松浦地方の最前線である両鶴田は、大友の肥前支配にとっても重要視されていたのでしょう。
詳細は不明ですが、肥前守護職として大友の調停機能が発動してたようです。

横岳(と筑紫)に続き草野と鶴田ですから、さすがの大友も重い腰?をあげて・・・
が、事態が急変!!!

翌月6月22日に、養子・後藤惟明が家督を実力で奪うべく、養父・貴明に対して謀反!
後藤貴明は止む無く龍造寺に援軍を恃むという緊急事態発生 Σ(´Д`;) はぅ!

パワーバランスが崩れたと見るや、龍造寺では再び須古城攻略開始!
同年8月、須古城が落ち平井経治は城を落ち延びる。
遂に有馬氏の六角川防衛ラインを突破した龍造寺隆信。

龍造寺の早い動きに大友の調停機能は追いつかない件~~~それは・またの話 by^-^sio

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