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鍋島信昌(後の直茂)は退く味方を援けて槍を振るうが、畔(あぜ)に躓き倒れる。 これに、敵が良い敵と見定めて左右から信昌を討たんとするが、小河大炊助、百武志摩守、副島右近允が馳せ付けて信昌を救った。
けっつまづいて転んだ殿は、味方の応援で何とかピンチ脱出です( ̄ω ̄A;アセアセ
龍造寺勢は退却に難儀し、鴨打左馬大夫、副島式部少輔、野辺田左衛門尉の3人は軍勢の中程から返して、追い縋る敵を追い散らす。 このとき殿軍は龍造寺鑑兼・納富但馬守であったが、信昌もこれに加わり敵をどうにか諦めさせた。
だが、近辺の野伏らが落人狩りを目論見、小田に陣を布き、龍造寺勢を待ち構えた。 龍造寺勢はこれを風聞に聞き「今日(1562年7月28日)は日暮れなれば明日に通るべし、或いは別の道を通るべし」と述べるが、
信昌は「野伏如き何程の事も御座いませぬ(`・ω・´)キリッ 只今より私一人で駆け散らして通りますものを」
と述べると、隆信は尤もと頷き、鍋島が真前に立ち小田村を真一文字に駆け抜ける。 その威に呑まれ、野伏は悉く山中へと退いた。 龍造寺勢は無事に佐嘉へと帰還を果たす。
鍋島直茂イメージ画像
殿~大活躍です~(人´∀`).☆.。.:*・
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《別説》 隆信は横辺田へ退却した後、後藤貴明と語らい平井との再戦を企図するも、 「大友騎下の者共が隆信の留守を伺っているため、まず帰城あるべし」との佐嘉からの注進を聞き、 梶峰城へ弟・長信を置いて、佐嘉へ帰還したとも云われる。 また、この戦いは永禄6年(1563年)との説もある。
有馬VS龍造寺・・・隆信は有馬勢に勝利し、多久をゲットしたものの、須古城攻略には失敗し佐嘉へと撤退した。
で、ここで「有馬VS龍造寺1」を思い出して欲しい。
で、ここで「有馬VS龍造寺1」を思い出して欲しい。
有馬が出陣したのは、そもそも大友義鎮から「少弐氏再興の相談」を受けたからです
少弐再興において「最大の障害」は、龍造寺隆信であることは言うまでもない。
「龍造寺討伐」とまで言われてた訳じゃないが、有馬にすれば少弐再興を大義名分に六角川を越えて小城&佐嘉へ侵攻する絶好のチャンスでした。
有馬最盛期当主・晴純は1552年に義貞へ家督を譲り悠々自適だったのだが、1562年(or1563年)龍造寺に敗れた事により徐々に勢力が衰えはじめる。
「龍造寺討伐」とまで言われてた訳じゃないが、有馬にすれば少弐再興を大義名分に六角川を越えて小城&佐嘉へ侵攻する絶好のチャンスでした。
有馬最盛期当主・晴純は1552年に義貞へ家督を譲り悠々自適だったのだが、1562年(or1563年)龍造寺に敗れた事により徐々に勢力が衰えはじめる。
少弐冬尚を亡ぼすまで、隆信の主な活動範囲は東肥前(小城・佐嘉・神埼)でした。
ですが肥前守護職である大友義鎮が、調停機関として「少弐再興」に動き始めたことで、東と西の肥前国衆の運命が大きく交差し始める。
ですが肥前守護職である大友義鎮が、調停機関として「少弐再興」に動き始めたことで、東と西の肥前国衆の運命が大きく交差し始める。
肥前守護職にして九州探題・・・キングオブ九州・大友義鎮が望む「当事者間の話し合いによる調停」は、龍造寺が従わない為に常に不首尾に終わる。
だが大友義鎮という上位権力が存在する限り「堺目静謐(領土・国境問題)」を侵す咎人は龍造寺隆信の方なのだ
主君を亡ぼすという「下克上ハードル」を超えた龍造寺の前に立ちはだかるキング・大友。
大友が望む調停では、龍造寺が失うものが多過ぎて到底従う事はできない。
隆信の戦いは、新たなステージへと展開するのだが、それは・またの話 by^-^sio
大友が望む調停では、龍造寺が失うものが多過ぎて到底従う事はできない。
隆信の戦いは、新たなステージへと展開するのだが、それは・またの話 by^-^sio