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Channel: 九州戦国ブログ~室町末期から江戸初期まで~
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【須古城攻略・1回目~龍造寺VS有馬8】龍造寺隆信「展」の巻8

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まず須古城攻略は、白石町史と大町町史とでは記録に違いがあります。
白石町史だと攻略数4回、大町町史だと3回。

何度も書いてますが杵島郡大町は、かつて横辺田と呼ばれ1563年まで有馬領でした。
須古城があったのは杵島郡白石町なので、須古城攻略に関しては北肥戦誌と白石町史ベースで進めたいと思います^-^

で、1回目須古城攻略は、この「有馬VS龍造寺」の激突の一環として行われてます。
ちなみに白石町史(&大町町史)では1563年になっており、有馬VS龍造寺が1562年説と1563年説があるのは、この辺りから来てるかと推察してます。

さて、前回から続く・・・



7月28日、龍造寺勢は前田家定、井元上野介を案内者に、納富信景を先陣として2000騎をもって、高岳城主・平井経治を攻めるべく福母の南大橋口へ押し寄せる。

えっと・・・ます須古城ですが、位置データは佐賀県杵島郡白石町大字堤(須古小学校)。
江戸期の干拓で戦国期とは海岸線が大きく異なります。
まず戦国時代は牛津川と六角川は合流しておらず、河口が別々。
二つの河川合流地にある河川港・住ノ江は、江戸期開港で戦国期は完全に海の底です。

で、そこから干拓の歴史・地名などから類推すると、長崎本線か国道207号線あたりが戦国当時の白石町における海岸線。(土地名に堤とついてるのは全て江戸期以降の干拓によって新たに造成された部分)
従って戦国時代の須古城は、海から2km前後くらいしか離れてませんでした。

更に須古城には2つの支城がありました。
須古城の西へ500mほどの所に、杵島城。
同じく東へ800mほどの所に、男島城。
この3つの城が連携し、軍事的に機能してました。

ちなみに須古城は別名・高城~♪ヽ(*´∀`)ノ
北肥戦誌にある高岳城って、須古城のことなのネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

イメージ 1

(龍造寺勢を何度も撃退してるのに、ゲーム内評価だと全数値オール55と低い須古城主・平井経治)

平井経治は当代無双の勇将で、佐嘉勢来襲を聞き出陣、
一族の川津経忠、平井刑部大輔を始め、本田純秀、本田純親、白石純通、湯河・川崎・永池・村田らが大橋口にて出向き、互いに弓・鉄砲を打ち掛ける。
やがて両陣太刀打ちとなって干戈交えるが、龍造寺勢が打ち負けて引き退いた。
平井勢は勝ちに乗り追い縋る。
鍋島信昌(後の直茂)は退く味方を援けて槍を振るうが、畔(あぜ)に躓き倒れる。

Σ(´Д`;)はぅっ!殿のピンチ~~
須古城って丘陵に築城された平城ですが、実は地味に攻めづらい城なんです。
というのも、六角川流域の土壌は別名・ドタ土と呼ばれる泥土でして、平成現代でも宅地には不向き。
でもって六角川も半端なく蛇行してるので、満干潮で発生する河川逆流現象による周辺の浸水は平常運転。

須古城が六角川~有明海・防衛ラインの城でありながら、海岸(戦国当時)と六角川から一定の距離を置いて築城されてるのは、それら地理的要因がある為です。
須古城は、その地理的要因を巧みに利用して築城された要害の城です。
城の搦手周囲にある百町牟田と呼ばれた土地は、ものすごい湿地帯で踏み入れば膝まで没し、普通に歩く事すらままならい土地でした。

(*ノ・ω・)ノオオオオォォォォ 兜首~~~~~~!!!
転んだ殿を平井勢が狙う!それは・またの話 by^-^sio

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