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Channel: 九州戦国ブログ~室町末期から江戸初期まで~
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【少弐再興運動・元盛編】龍造寺隆信「展」の巻10

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1562年の北肥戦誌では、この後に【神代勝利公「道」の巻】で紹介した西川伊予守の裏切り工作の話に続き、
神代勝利公と龍造寺の和睦で終わる。

有馬VS龍造寺が1562年の事であれば、神代勝利公が有馬に勝利した龍造寺と和睦したのは理解できる。
龍造寺にとっても、西肥前攻略の為には神代&山内勢と戦ってるヒマはない。
ただ西肥前側の記録(白石町史・大町町史・松浦家世伝など)から類推する1563年説も捨てがたい。

とにかく大物同士の激突の年代が確定してないせいか、この前後における各方面の出来事に関する年代も、記録によってバラバラになっている。
多久文書に収められてる兵站に関する文書に至っては、年月日が全く記入してない(涙目)

佐賀市史でも1562年なのか、1563年なのか明言を避けており、おそらく年月日が明示された新たな文書でも出ない限り今後も結論は出ないだろう。




で、大友氏が少弐再興の為に担ぎ出したのが少弐冬尚の弟・政興なのだが、実は政興の下に更に弟がいた。
諱は元盛で1561年(永禄4)の時で27歳だったそうだ。

元盛で御家再興を目指したのが、少弐譜代の家臣・今泉朝覚。
朝覚の苦労バナ詳細は、北肥戦誌にあるのだがコアすぎ&長いので割愛^^;

とにかく朝覚は出家し公卿を通じて朝廷に働きかけた。
これはこれで方向性としては的外れではない。
綸言(天子の言葉)となれば、とりあえず話は聞いてもらえる( ̄ω ̄A;アセアセ
うまく同情をひけば、訪問先で「逗留&旅費」も用立ててくれ・・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ

で、天文7年に少弐再興の綸言ゲッツ~~~
朝覚は大喜びで準備して天文9年(1540年)には、あちこちと尋ねて勅書を披露し「少弐再興」を訴えた。

・・・・方向性は合ってるんだが、朝覚は微妙にズレてた。

なぜなら、朝覚が「少弐再興の勅書」を披露した相手と言うのが、大内義隆・渋川尹繁だったからです

,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
長年、少弐と敵対し「やっと叩き潰した少弐」の御家再興に大内義隆が動くはずもない。
朝覚は、九州の諸将を訪ね歩いたそうなのだが、何せ西国のドン・大内がピクリとも動かないのだ。
他の鎮西武将も大内義隆、右へならへで朝覚の訴えは徒労に終わる il||li _| ̄|○ il||l

ちなみに、この頃の大友は「勢場ヶ原の戦い」で大内勢に本国豊後を脅かされた事に懲りて、
大内と和睦し、表面上では北九州から手を引いてました。

http://blog-imgs-49.fc2.com/s/i/o/siori20120901/blog_import_5042c7bcda4c9.jpeg 大内花菱家紋ロゴ

で、永禄4(1561年)に朝覚は上洛し、再び朝廷へと少弐再興を訴え出た。
この時の綸言(天子の言葉)がふるってる。

伝奏(伝言の使者)より~朝覚上人が度々訴え出たため少弐再興を九州の武家へ勅定したが

彼の少弐という者は(室町)将軍家に対し度々弓を引き世を乱した者であるから皆が勅命に従わないのである

あ~~確かに少弐政資の時に調子に乗ってアレコレやらかして、室町将軍から勘気を蒙って亡命してましたわ~

強いてまたこれ(少弐)を立てんとすれば、勅裁を恨む者が現れ国家の乱れとなる

故に天意が及ばないのである

つまり武家の争いに首を突っ込んで、いらぬ恨みを買いたくないってことですよね。
が、ここで終わると「公家の処世術全開」すぎて角が立ちます。

この上はせめて少弐の末葉そのまま安穏に差し置くようにと、肥前の龍造寺に綸言を下される

朝覚は元盛の居る肥前川副庄へ下向した。
隔して龍造寺へも右の勅命が下れば隆信はこれを了承し、自ら川副の福満寺へ赴き元盛と対面、懇ろに言葉を添えそのまま元盛をこの寺へ差し置くとした。
福満寺・・・・佐賀市北川副町大字江上江上345・・・へー、北川副ね~~
って、佐賀城から1km前後しか離れてないじゃん!!( ゚д゚)ンマッ!!

何で、こんな目と鼻の先に少弐の遺児が~~~~~~~~~~~アタヽ(´Д`ヽ ミ ノ´Д`)ノフタ
じぇじぇじぇ!福満寺って、高倉院、亀山上皇、正親町院の勅願所だ!(゚ロ゚屮)屮 おぉっ

川上の実相寺がブイブイ権勢を誇る以前は、福満寺のお経会が隆盛で門前に出店が立つほどだったそうです。
なるほど~~昔っから尊崇受けた朝廷所縁の寺で保護されてたから、隆信も放っておいてたんだ (゜゜)(。。)(゜゜)(。。)ウンウン

勅命を持って来た朝覚の方が、隆信より上座だったろうな。
自分が滅ぼした冬尚の実弟と対面・・懇ろって、どんな言葉をかけたんだろう・・・
元盛の事歴ってハッキリしてなくて、恐らくは兄・冬尚が仕掛けた龍造寺抹殺計画とは無関係だったはず。

で、当時27歳だった元盛には男子が4人いて、どうも4人ともに龍造寺の保護に入ったっぽい。
というのは沖田畷の戦いで、元盛の男子4人は龍造寺配下で出陣してるからです(全員討死したけど・滝汗)

イメージ 1
 龍造寺隆信イメージ画像

隆信は少弐の血統を絶やそうとしたわけではないんです。
龍造寺は龍造寺なりに、少弐氏を保護してました。
御家再興だけは(´・д・`)ダメ

歴史IFですが、沖田畷で龍造寺隆信が島津に勝利していれば、
龍造寺一門が鍋島家臣になったように、少弐庶流・元盛系譜が龍造寺家臣で残ったと思います。

永禄5年に元盛は高野山で密乗の法水を請けて灌頂職位を得て大納言式部卿法印に任じ、下国してのち朝誉と名を改めて福満寺に住んだ。

今泉朝覚は天正8年正月20日、齢80にして大往生を遂げ、
元盛法印は同14年4月24日、齢52にて福満寺にて遷化した。
沖田畷の戦いは天正12年・・・少弐元盛は隆信より2年長く生きた。
戦死した息子たちの菩提を弔いつつ、自分の人生に何を思ったか・・・我々には知る由もない・・・

少弐旧臣による少弐再興は潰えた。
残るは大友主導で政興による少弐再興なのだが、それは・またの話 by^-^sio

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