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Channel: 九州戦国ブログ~室町末期から江戸初期まで~
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【感想1)君の名(氏)は?】野口朋隆「先祖の戦功を巡る「御家」内の動向について」より

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ちと仕事が押してて訪問が遅れますm(__)mスイマセン




またまた論文の感想と、そこからボヤンと浮かんだ推考です。

北肥戦誌、北肥戦誌と連呼してる管理人ですが、実は北肥戦誌は別名でして、正式名は「九州治乱記」なんです^^b
(既にブログ内で定着してから北肥戦誌が別名なのを知った)

編纂を命じ、治乱記と命名したのは佐賀藩5代目藩主・鍋島宗茂。
どっかで聞いた諱ですが、5代目藩主の「宗」は暴れん坊将軍・8代目吉宗からの偏諱です。

5代目宗茂公は2代目藩主・光茂公の庶子でして、それも15番目の子( ゚д゚)ンマッ!!
ちなみに末っ子じゃなくて、更に下に弟(複数)がいるんでつよ・・・( ̄ko ̄)

本来なら藩主になど到底無理な出自で、いったん神代家を継ぎます。
(ネタバレだけど山内の神代氏は、最終的に鍋島氏親類で生き残る)
ところが3代目も4代目も子宝に恵まれず、弟の吉宗公が藩主になった^^

旧主である龍造寺一門を家臣団として抱える特殊事情の佐賀藩です。
龍造寺一門は、庶子(しかも15番目)の宗茂公の出自を軽んじ、宗茂公の推し進める藩政改革の足枷になってたらしい。
九州治乱記編纂は、そんな時代背景の中で完成します。

編纂の目的は「鍋島氏の関する歴史の虚実を糺す(`・ω・´)キリッ」です


http://blog-imgs-49.fc2.com/s/i/o/siori20120901/blog_import_5042c907b9186.jpeg 鍋島家紋ロゴ

で、少弐元盛の話です。
長くなるんで御家再興バナで割愛した部分なんですが、

北肥戦誌曰く・・・
然るに朝誉法印(元盛の出家後の法名と僧階)に幼少より付き従う家人三人があった。
その中の一人は今泉朝覚(←朝廷に働きかけた人)、ならびに窪・平原である。
法印はこの三人の従者を召して申すのは、
「我は往日は一度少弐の名跡を継ぎ、汝らを股肱として生前の恩を報じようと思ったが、ついに本懐を遂げず仏門へと入り忍従の法衣を纏った。
誠に前業の感ずるところ悔いるべきにあらず。君臣、三世の宿縁あって主従の契りを結ぶと聞く。
然るに汝ら、今まで我に付き従い撫育せい忠心の程、思えば海よりも深く山よりも高い。
だが今となっては付き添っても詮無きことである。三人共に急ぎ禄を求め、どこぞの主にでも仕えよ」と述べた。
そして、名残も今は是までと、家に伝わる懐刀と名筆の八代集を今泉に与え、
また少弐の文書と錦の旗一流・太刀一振とを窪と平原に下賜した。
三人とも言葉もなく、むせび泣きながら退出した。

感動的な泣ける話です・・・ (゜-Å) ホロリ
が、野口氏論文によると、この部分は鍋島氏出自(藤原氏)アピールと繋がってるそうなんです。

出自といえば、葉隠にあるオタに間では割と知られてる・・・
初代藩主・勝茂公が、幕臣・太田資宗から先祖を尋ねられて咄嗟に
「えっと・・・(ピコーン)少弐っす(・∀・)」って答えちゃった逸話があります。

論文によると、上記にあげた「九州治乱記」の少弐元盛の記述と、葉隠の「先祖は少弐」発言とはリンクしてるそうな。
というのも少弐氏の本姓は源平藤橘で言う所の藤原姓。
で、5代目宗茂公の頃になると「先祖は藤原姓少弐氏」説が、佐賀藩内でも疑問視されてたそうなんです。

当然ですよね・・御当地国人領主からスタートしてる鍋島氏を、超名門・武藤少弐氏に繋げる方が無理ゲーな話( ̄ω ̄A;アセアセ
で、そのアピールの補完として盛り込まれたのが、九州治乱記における少弐元盛の話。

というのも(自分で自分の首を絞めた)勝茂公は、出自が藤原であることを証明する必要に迫られてしまい、
「少弐所縁の品!!!おぃ家臣で誰か持ってる奴いねーのか!!アタヽ(´Д`ヽ ミ ノ´Д`)ノフタ」
となって白羽の矢が立ったのが上記・三名の従者のうち平原さん。

勝茂公は平原から、少弐元盛より下賜された品々を召し上げ・・・(._+ )☆\(-.-メ)チガウ!
ゲフゴホ・・・譲り受けたそうです。

えっと・・・これって少弐所縁の品が旧少弐家臣から勝茂公に渡った流れの傍証になるけど、
先祖が藤原の証明とは、また別のような気が・・・・(._+ )☆\(-.-メ)チガウ!!

いえいえ、そういう些末?な系図上の話とは別にして、

葉隠とリンクさせた九州治乱記(北肥戦誌)の記述部分には、鍋島氏が少弐氏を引く継ぐ存在であるとする主張が潜んでいるのだ~~~

という内容が論文で展開されてる。( ゚д゚)ンマッ!!

佐賀藩の内部事情が複雑なのは、旧主一門を家臣(しかも大身)で抱えてるという単純な問題ではないんです。

これについて葉隠の著者:山本常朝は

龍家一門は、他家とは違い知行等は各々が自らの槍先にて得たものなので、上(鍋島氏)よりの御恩は無いのだ(原文プチ意訳)

と評しています。

佐賀藩主となった鍋島氏は、その誕生の経緯から、旧主龍造寺家と一門に対して常に優位性を保ち続けなければならない。という重い命題を抱えていました。

その重圧の中で藩政改革を進めたのが、庶子でありながら藩主となった5代目鍋島宗茂。
彼が編纂させた九州治乱記(=北肥戦誌)は官制の軍記物として、後世に大きな影響を与えたのだが、それは・またの話 by^-^sio

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