1563年、少弐政興の御家再興を支持する者たちを倒したあとなんですが、北肥戦誌では渋江氏の記述になってます。
西肥前リサーチ強化【肥前後藤氏・六~貴明・3】で紹介した部分です。
有馬の謀略で「鉄砲を戦で使用すると神罰あるぉ~」という偽神託を信じて、鉄砲を城外に移した為に城を落とされちゃった残念な渋江さんの話^^;
有馬の謀略で「鉄砲を戦で使用すると神罰あるぉ~」という偽神託を信じて、鉄砲を城外に移した為に城を落とされちゃった残念な渋江さんの話^^;
ちなみに偽神託を信じたのは、信心深い渋江パパ。
最前線で戦う若い息子たちは、この神託変じゃね?と反対したけど、渋江パパに押し切られたのネー(*´・д・)(・д・`*)ネー
最前線で戦う若い息子たちは、この神託変じゃね?と反対したけど、渋江パパに押し切られたのネー(*´・д・)(・д・`*)ネー
ちなみのちなみ・・・北肥戦誌では1563年になってる渋江エピソードですが、御当地である武雄の記録だと1560年なんです~~~(_´Д`)アイーン
とにかく、この少弐政興から始まり有馬VS龍造寺で波及した戦とかとか、西肥前と東肥前で記録が前後する現象が多発し、どれがホントの時期なのか訳が分からない状態です^^;
とにかく、この少弐政興から始まり有馬VS龍造寺で波及した戦とかとか、西肥前と東肥前で記録が前後する現象が多発し、どれがホントの時期なのか訳が分からない状態です^^;
で、渋江氏ネタの後に、北肥戦誌は突然、大友義鎮の悪口を書き始める
,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!個人的には「言い訳」と思ってます。
なぜなら上位権力・・つまり九州探題&肥前守護職として、紛争の調停を計ろうとする大友氏が「室町体制における正義」だからです。
だから「堺目静謐を侵す咎人=龍造寺隆信」で、本来なら断罪されてしかるべき存在。
まぁ少弐氏も龍造寺の台頭を恐れて龍造寺一族抹殺しようとしてるわけで、現代なら優秀な弁護士立てれば正当防衛で逃げ切れるかもだが、今は戦国。
そのくせ室町幕府は滅んでない。
軍事力・財力を併せ持つ実力の九州探題・大友氏は、上位権力としてキッチリ機能しているんです。
そのくせ室町幕府は滅んでない。
軍事力・財力を併せ持つ実力の九州探題・大友氏は、上位権力としてキッチリ機能しているんです。
大友の調停に従わない龍造寺が「うちは悪くないわ、だって大友ってばメチャクチャで仕方なかったの~」
と言う世論を導き出す最も手っ取り早い方法は「大友義鎮が暴君だった」と主張する事です。
と言う世論を導き出す最も手っ取り早い方法は「大友義鎮が暴君だった」と主張する事です。
従って江戸期に書かれた大友義鎮に対する人物評価は、その記録した藩の自己弁護アピールの為に不必要に貶められている・・・と言う前提を念頭に入れつつ読む必要があります。
てことで、鍋島氏による鍋島氏のための官制軍記物「九州治乱記(北肥戦誌)」の中の大友義鎮に関する記述に、楽しく突っ込み入れましょう(*´pq`)ぷぷぷ
肥前でも「このあたりまで大友勢が来たっけ?」って地域で「大友に燃やされたの」って伝承になってますヽ(。_゜)ノ アレ?
少なくとも本貫地である豊後国内においては、ガチ大量破壊行為はしてません。
もちろん国衆・家臣の反発を恐れたからです・・・( ̄ko ̄)
ただし、侵攻制圧した日向では思う存分にやっちゃってた・・・らしい^^;
というのが、まず素朴な疑問^^;
少なくとも義鎮がキリシタンになる前は、世評にあるほど不仲じゃなかったんじゃないでしょうか。
義鎮の女遊びが噂通りなら、庶子や隠し子がゾロゾロ出てくるはずです。
義鎮はザビエルと会ってるし、府内には本物の宣教師が在任して布教してたので、こんな胡散臭い連中いないはず。
このあたりは、禁教となったキリシタンへの偏見というか、悪口も入ってますね^^;
彼は宗麟の正室・奈多夫人の実兄にして、八幡奈多宮(はちまんなだぐう)大宮司の家柄だからです。
単に出自からだけでなく、彼のキリシタン嫌いはガチで、そういう点では奈多夫人と兄である田原は意気投合してたんです。
永禄6年のこの頃、豊後の屋形・大友義鎮は国政甚だ暴悪にして、諸人が疎み嘲ること大概であった。 その上、不意に入道し、また南蛮西洋国の耶蘇教に傾倒して仏神を蔑ろにして堂塔を破却した。大友勢に破壊された~って伝承の寺院仏閣は、九州各地にゴッソリありますが、何処までホントか不明です。
肥前でも「このあたりまで大友勢が来たっけ?」って地域で「大友に燃やされたの」って伝承になってますヽ(。_゜)ノ アレ?
少なくとも本貫地である豊後国内においては、ガチ大量破壊行為はしてません。
もちろん国衆・家臣の反発を恐れたからです・・・( ̄ko ̄)
ただし、侵攻制圧した日向では思う存分にやっちゃってた・・・らしい^^;
その根元を尋ね聞くに、義鎮は近年、専ら女色に溺れ、国中の上下を問わず、若く麗しい女を幾らともなく府内の城中に招き集め、あるときは庭上の花の下に踊りを興行し、あるときは深閨の月の前に酒宴を催し、日夜不行儀に過ぎる有様であった。大友義鎮って、実父・義鑑に疎んじられるほど病弱だったので、こんな不健康な生活連チャンするパワーあったかな~
というのが、まず素朴な疑問^^;
簾中(=正室・奈多夫人)はこのことを大いに嫉み、ある修験者を賺して金銀を与え、夫の義鎮を呪詛するよう密かに頼んだ。 これより義鎮は忽ち乱心し茫然として、ある時、府内の城中を迷い出て、更に行方も知れなくなった。 奉行を初め豊府の侍は大いに驚き、これは何とした事かと諸方を探し回ると、臼杵の丹生島の辺りにて見つけ出す。 これはどうした有様ですかと問えば、 「さればよと紅葉の影に誇らして」と答えたため、これは乱心であると思い、すぐさま丹生島の城へと入れた。義鎮と奈多夫人の不仲は有名ですが、義鎮子女の生母は殆どが奈多夫人で、しかもハイペースで出産してます。
少なくとも義鎮がキリシタンになる前は、世評にあるほど不仲じゃなかったんじゃないでしょうか。
義鎮の女遊びが噂通りなら、庶子や隠し子がゾロゾロ出てくるはずです。
その後、義鎮は正気に返り、簾中の呪詛を伝え聞くと大いに立腹、所詮は世の中に仏神があるから呪詛もあるのだと、仏神を疎むようになった。 その後、義鎮が34歳のとき、大徳寺の長老に請い、剃髪して法名《三非斎瑞峯宗麟》と号し、家督を嫡子の義統に譲って、自らは臼杵の別邸に居住した。 そんな折、元は禅僧である如露法師・因果居士という二人の南蛮西洋国の邪宗の者が、臼杵の丹生島に現れ上下老若共に邪宗を説き聞かせる。如露法師・因果居士って誰だろう?
義鎮はザビエルと会ってるし、府内には本物の宣教師が在任して布教してたので、こんな胡散臭い連中いないはず。
このあたりは、禁教となったキリシタンへの偏見というか、悪口も入ってますね^^;
府内六奉行の一人である《田原親賢入道紹忍》はこれに帰依して主の宗麟へも勧めると、 宗麟は元より仏神を疎んでおり、その上、賢しらからは遠く、愚には近い大将であるからすぐさまこの耶蘇教に傾き、偏に泥鳥を尊び仏神を敬わず、これより国中の神社・仏閣を悉く打ち破り、仏像・神体を一つ一つ焼き捨てる浅ましさであった田原親賢入道紹忍・・・彼がキリシタンに帰依する事だけは絶対にない。
彼は宗麟の正室・奈多夫人の実兄にして、八幡奈多宮(はちまんなだぐう)大宮司の家柄だからです。
単に出自からだけでなく、彼のキリシタン嫌いはガチで、そういう点では奈多夫人と兄である田原は意気投合してたんです。
泥鳥って何だろうヽ(。_゜)ノ へっ?
てか宗麟の事を「賢しらからは遠く、愚には近い大将」って、ボロクソ評価,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
大友義鎮に問題がなかったのか?というと暴君説が出る素地はありました。
てか宗麟の事を「賢しらからは遠く、愚には近い大将」って、ボロクソ評価,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
その間、府内の大老奉行らは大いにこれを悔み、中でも《戸次鑑連》は時々諫言したものだが宗麟は許容せず、近習・外様の輩は、大友家の滅亡は近いと眉を顰めぬ者はなかった。戸次鑑連(べっき あきつら)、後の柳川藩立花氏の藩祖です^-^
大友義鎮に問題がなかったのか?というと暴君説が出る素地はありました。
前出の田原親賢入道紹忍を、大友義鎮は周囲の反感を押し切り、スピード出世させてるんです。
一時期は田原が大友家中最大の所領を保持してたほど。
一時期は田原が大友家中最大の所領を保持してたほど。
情実人事・依怙贔屓と、とられかねない田原の権限集中に対し、戸次鑑連は何度も諫言してたそうですが、義鎮は聞く耳持たずでした。
これには大友義鎮の性格もありますが、何よりも大友家の内部事情も複雑に絡んでるので、ここでは説明しきれません^^
これには大友義鎮の性格もありますが、何よりも大友家の内部事情も複雑に絡んでるので、ここでは説明しきれません^^
名門・大友氏・・・・その最盛期当主である大友義鎮(宗麟)の治世は、同時に大友家内部の矛盾や軋轢がMAXになった時でもありました。
累代蓄積されてた不満や矛盾なので、ニントモカントモ・・・むしろ宗麟は頑張った方じゃないかな~と思います^^;
更に豊臣政権への接触タイミングなど、少なくとも大友義鎮(宗麟)は、外交センスに関しては超一級品だと自分は評価してます。
累代蓄積されてた不満や矛盾なので、ニントモカントモ・・・むしろ宗麟は頑張った方じゃないかな~と思います^^;
更に豊臣政権への接触タイミングなど、少なくとも大友義鎮(宗麟)は、外交センスに関しては超一級品だと自分は評価してます。
北肥戦誌に大友へのボロクソ評価が紛れ込むという事は、この時期から明らかに龍造寺が自立した勢力として歩み始めた事を意味するのだが、それは・またの話 by^-^sio