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龍造寺文書---第六軸・100

http://history.blogmura.com/his_sengoku/にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代
 
古文書入門書を読み始めたばかりのクセに、同時進行で一次史料を読むと言う大胆な?試みです。
間違ってたら、後からコッソリ修正してるかもよ,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
 


千葉胤繁書状

肴給候、賞翫候、毎事勲功之通、悦入候、
肴(さかな)給はり候、賞翫(しやうぐわん)し候、ことごとの勲功の通り、悦び入り候、
 
仍就祇園社役、自大草野弥六左衛門尉所申候慮、承知之由申来候、是又快悦候、恐々謹言
祇園会社役につき、大草野弥六左衛門尉の申す旨を承知した由を受け、これを賞す
?年六月六日                 (千葉)胤繁(花押)

(捻封上書)
「(墨引)龍造寺右衛門大夫(康家)殿    胤繁」
 



語句解説
★千葉胤繁
---(千葉介)1493年~1511年~肥前千葉氏14代目&西千葉氏3代目

★祇園社
---現在の須賀神社(小城市小城町)検索して画像見てみそ、階段の仰角にクラクラするよ!

★大草野弥六左衛門尉
---嬉野市に大草野の地名が残ってるので、その地の国衆と思われる

★捻封(ひねりふう)
---Σ(´Д`;)はぅ!これまだ勉強してないしwww
簡略な封式で、堅紙を奥から巻き上げた後に上部だけを捻ります。
包紙は使用しません。

★上書
---捻封に上書・・・つまり宛名と差出人の名前を書いた。

★墨引
---言葉で説明できない~今でも封書の裏に〆ってやるでしょう。
  あれの本格バージョンで、他の誰かが開封したら印がズレちゃうから覗いたのバレるのね^^
  ここが詳しいです⇒墨引のやり方

★龍造寺右衛門大夫(康家)
---少弐政資に推挙してもらった官位ゲットしたんですね康家さん(*´ー`)フフフ

書状の年号は不明ですが、康家が推挙してもらった報告受けたのが、延徳元年1489年12月30日。
だから書状を貰ったのは、1490年以降の胤繁没年である1511年までの間です。
ただし、1497年に少弐政資が大内に敗れて自害し、巻き添えで西千葉氏も亡命し肥前に戻ったのが1504年だから、その間は除外されます。


超意訳
プレゼント(中身?肴だから食料品?)頂きました。
賞翫=賞味つまり、美味しく頂いてます!(*´pq`)クスッ
つねづねの勲功、悦んでますよ~ゎーィ♪ヽ(*´∀`)ノ

祇園社の役に就いて、大草野弥六左衛門尉の言ってた話を承知してくれるって、
これもまた嬉しい!恐々謹言

考察的な?
語句解説の生没年にあるように、千葉胤繁は二十歳前に亡くなってる(多分だけど戦死)ので、意訳は若い人っぽく(爆
家督を継いだのが亡命から肥前に戻ってからで12歳だか13歳。
相続後しばらくは養母である尼日光(肥前千葉11代目胤朝娘)が後見してた・・・らしい(史料ないので推測)
だから、この書状は1504年以降で、かつ自分の意思で書状を出すなら、若い晩年に近い年代じゃないだろうか。

で、肥前千葉氏の本城である牛頭山城は、1497年少弐没落時のゴタゴタで東千葉氏初代・興常に奪われちゃった。
(千葉興常は、少弐氏累代のライバルにして西国のドン・大内氏の後見を受けてます)
本拠地を奪われた嫡家・西千葉氏は、牛頭山城の数百m近所・晴気城に構え、東千葉氏と敵対してました。
(牛頭山城の西に晴気城があることから、西千葉氏と呼ばれた)

牛頭山城に入った東の千葉興常は、大内の後ろ盾で自分が千葉氏総領の如く振るまったそうで。
てことは、肥前千葉氏が招聘した祇園社の神事に関してもアレコレ介入したのは、想像に難くない。
ただ、ここで迷うのは神事に関しては、両家の関係は敵対しないで、それなりにバランスとれてたのかもなんです。

そういう背景があるところで、神事の役目について大草野から申し入れがあり、それを龍造寺康家が承知しました~
と、西千葉の胤繁へ、進物を届けつつ返事したらしい。
それに対しての千葉胤繁の返信(進物への御礼含む)です。

肥前千葉氏が西と東に分裂したせいで、周辺の国衆は気遣いが大変だったんだろうな~( ̄ω ̄A;アセアセ

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