まずはじめに、ウィキペディアより抜粋
主として当時の王朝に対する反乱勢力や批判勢力によって使用されたものが多く、使用期間は概して短い。
(以下略)
先日の龍造寺文書で千葉興常が龍造寺へ出した安堵状ですが、
元々は永亀弐年と書かれてました。
でもIME日本語にない文字表記だったんで、似た年号だった文亀年間~と、安易に飛びついたわけです。
で、次の龍造寺文書を読み下してて、年号をアレコレ確認してたら ( ゚д゚)アレ?ツジツマ変?
となって アタヽ(´Д`ヽ ミ ノ´Д`)ノフタ 佐賀県データベースを再確認したら。。。。。
誤記じゃなくて、私年号で書かれてた事が判明
文亀2年(シオ解釈)ではなく、永亀弐年(私年号)⇒⇒⇒大永7年デス・・・il||li _| ̄|○ il||l
文亀年間と大永年間じゃ、20年くらい年度がズレるげな! ガ━━━(゚ロ゚;)━━ン!!
東千葉の興常さんが、あえて私年号を使った意図は不明・・・
というか古文書ビギナーのシオの実力では、未だ考察しきれません( ̄ω ̄A;アセアセ
てことで、最初の読み下しで特定できなかった龍造寺当主は、年度推定から胤久になります。
先日の記事を再編集しました・・・( ̄ω ̄A;アセアセ
けど、最後の考察に変化なし。
なぜなら文亀年間も大永年間も、どっちの年度も西千葉当主は肥前から政治亡命してたから(爆
それで状況が似てるんで、余計に間違ったんだよ~~~~~~~~トホホ
今後は摩訶不思議漢字年号が出てたら、私年号もチェックしなきゃなのネー(*´・д・)(・д・`*)ネー