Quantcast
Viewing all articles
Browse latest Browse all 910

【悲劇の姫様】相良史・相良義陽---20

 
島津4兄弟の長兄・16代当主義久の子供は三姉妹でした。
男子がいないために家督相続で揉め(秀吉の介入で更に拗れた)、
薩摩藩2代目藩主・島津家18代光久(義久の曾孫の子)まで尾を引いたことは「薩摩初代藩主編」で触れた。

では島津4兄弟の父・貴久は?

というと、これまた極端で子供は4兄弟ぽっきり。側室も一人だけ(末弟・家久の生母)と淡白?。
まぁ、そのぶん貴久パパンである日新斎ジーさんが、せっせと孕ませ産ませてるから、問題はない。
日新斎の男子は器量にハズレ無し~元就ジーさん級のDNAですな ( ゚Д゚)y─┛~~

当主に子供が少ないのだから、政略結婚は当然~~~~~~~のなずなんだが、
意外や意外。
4兄弟の中で政略結婚をしているのは、長兄・義久と次男・義弘だけなんです( ̄ko ̄)

末弟の家久の正室は樺山家から~重臣とはいえ家来筋。
3男の歳久の正室の実家は詳しく分からないが、やっぱ家来筋で家格もかなり低い。

これはやはり同じ兄弟であっても、

嫡男&万が一のスペア次男>>>>>越えられない壁>>>>>3男以下

と差があるということなのだろう。
いくら政略結婚させたくとも、家格の高い他家の姫様が、3男・4男に嫁ぐのは考えにくい。

逆に嫁ぐ方で言えば、庶子だろうが養女だろうが関係無く「あくまでも実家の格と実力が物を言う」世界だ。
 
島津家紋ロゴ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
長兄・義久の結婚は2度。
初婚は日新斎ジーさんの強い希望で、ジーさんの末娘(義久から見てガチの実叔母)と結婚した。

この最初の妻の記録は恐ろしく少なく、謎の女性といっていいが、
とにかく二人の間に長女・御平を儲けると、実叔母妻は間もなく身罷る(永禄2年11月18日)

義久が再婚したのが種子島家の姫様。(こっちも従妹だから血族婚^^)
政略結婚だが夫婦仲は良好だったらしく、義久は側室を置いていない。
で、種子島の姫様は、次女・国姫&末娘・亀寿を生んだ後に死亡する。

真面目・冗談も云いそうにない超堅物・義久は、どうも子作り止めたっぽい~
正室死亡後も、再婚もしなけりゃ、側室も置かず~~まぁ病弱だったからかもしれない。

で、代わって・・・というには時期が違うが、義弘の結婚が、今回記事のメイン(=^・ω・^=)v ブイ

島津義弘の妻・・・・・といえば「島津編」で微笑ましいラブレター(朝鮮の役の頃)を紹介したが、
実は、それは3度目の正直で、念願かなって迎えた愛しのハニー園田女・実窓夫人のことだ。

最初の妻は前回出た分家の北郷(ほんごう)氏からで9代目当主の姪を妻にした。
戦国時代の分家は何処も宗家の言うことなんて大人しく聞かない。

半独立状態で独自の勢力として行動してるから、義弘の初婚は立派な政略結婚。
で、一度目の妻とは離縁。
そして島津義弘の2度目の妻が「相良義陽の妹・亀徳姫様」です
人気武将・島津義弘が、実は過去に相良義陽の妹と政略結婚してた事を知る人は、かなりの島津通。
 
相良家紋ロゴ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
亀徳姫は庶子、従って義陽の異母妹にあたる。
つまり例の同年・同月・同日生まれの義陽の庶弟の妹ですが、亀徳姫が何年生まれか記録がありません。

それだけでなく島津義弘に嫁いだ年月日も記録が残ってないんです
(だからこそ、亀徳姫を知ってる人は、マニアックってこと^^b)

亀徳姫は記録が少ないために、さまざまな伝承・伝説が数パターンある。
義弘と離縁になったのが、南藤蔓綿録(相良側二次史料)によると永禄11(1568年)。
鹿児島県・加治木町に残る伝説だと「結婚4年目で離縁」とあるので、嫁いだのは1564年?

だが、その頃だと島津と相良の雲行きは既に怪しいので、
「三氏(島津・相良・北郷が)相互に(日向の北原を)支援(しよう)」を結んだ1562年頃が妥当な線だろう。

亀徳姫は、肥後・球磨地方から嫁いだので、島津家中から球磨御前⇒隈(くま)御前と呼ばれた。
随行した相良家臣は田代筑前。


****これは加治木に残る伝説で、恐らく(90%以上の確立で)史実とは異なります。****

加治木には隈媛神社という、隈御前(亀徳姫)を祀った神社がある。
神社によると、嫁いで4年後に離縁となった隈姫(亀徳)は、人吉へ帰らず加治木に残り復縁を願い続けた。

が、聞き入れられず、絶望し川に身を投げた。義弘は哀れに思いここに神社を建てたとなっている。
隈姫の化粧水なんかあって、洗うと美人になるらしい~恋愛成就のパワースポットとかなんとか~

****もう一つは、もっと可哀想で、****

離縁後、よくわからないが隈御前は実家の相良へ戻れず、
帖佐の辺川と言う所に屋敷と堪忍扶持を与えられ「辺川殿」といわれていた。

そのうち辺川殿が島津情報を相良へリークしてるという噂がたち、
怒った義弘が辺川殿一行を騙して屋敷から連れ出し、山中に放置して餓死させた。

わけがわからず餓死した辺川殿が、島津に祟るようになったので隈媛神社を建立した。

****一方、実家である相良家に残る記録では、もっと悲惨でして( ̄ω ̄A;アセアセ ****

島津義弘と離縁後、実家に戻った亀徳姫は再婚するのだが、夫が謀反を起こしたとして殺され、
更に再婚後に儲けた男子は14~15で夭折。

亀徳姫は、当時全ての実権を握っていた相良家老に粗略にされ、貧しい生活の中で餓死した。

当主で兄の義陽が死に、義陽の生母・内城も死に、
家老には遠慮する人物がおらず、妾腹の出戻り姫を邪慳にしたらしい。

家老は人吉藩2万石のうち、8千石を領していて、藩主ですら逆らう術がなかったのだ。
もちろんその後、家老に対する不満が爆発して「御家騒動勃発」したのは言うまでもない。


亀徳姫の不幸は、島津と相良との不和から始まった。
異母とはいえ、妹を犠牲にしてまで義陽は何をしたかったのか・・・それは・またの話 by^-^sio

次回「同盟と結婚はセットな件」

Viewing all articles
Browse latest Browse all 910

Trending Articles