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いくら同じ分家同士とはいえ、現役当主自らが養子に入るのは尋常ではなく、
この時点で{島津家・北郷家・豊州家のトリプル同盟}「飫肥城を守る会」が、
(日向制覇を目論む伊東義祐)
その間にも伊東は着々と勢力を伸ばし、日向・北原家が乗っ取られた(1562年)
こてとで今度は{相良・島津・北郷の三氏相互支援}「北原を援ける会」の話が持ち上がる。
同盟のために亀徳姫との縁組が出て、
亀徳姫のダーリンは島津宗家の男子・・・ズバリ嫡男がベストカップリング。
人気武将・島津義弘が相良義陽の妹(亀徳姫)と政略結婚してた事を知る人は、かなりの島津通
と前回書いたが、
島津義弘が豊州(ほうしゅう)家へ、養子に出されていた事を知る人は、もっと少ない~
島津義弘が豊州(ほうしゅう)家へ、養子に出されていた事を知る人は、もっと少ない~
と思う(普通の武将ファンは、そこまで遡らない^^;)
時期は1560年で、日向の北原家では13代目がポックリ死んで、キナ臭くなってくる年。
豊州家は島津の分家で「第二次飫肥の役(島津VS伊東・1485年)」から飫肥城への守りとして入った。
時期は1560年で、日向の北原家では13代目がポックリ死んで、キナ臭くなってくる年。
豊州家は島津の分家で「第二次飫肥の役(島津VS伊東・1485年)」から飫肥城への守りとして入った。
(理由は長くなるんで省きます~~((((((((((っ´▽`)っ)
豊州家歴代当主の悩みは「ズバリ伊東家からの外圧」
島津宗家や同じ分家の北郷(ほんごう)も、何度か援軍を出して、かろうじて維持してきた。
そして、この豊州家と北郷が一時期(=イコール)だったことがある。
豊州家歴代当主の悩みは「ズバリ伊東家からの外圧」
島津宗家や同じ分家の北郷(ほんごう)も、何度か援軍を出して、かろうじて維持してきた。
そして、この豊州家と北郷が一時期(=イコール)だったことがある。
4代目豊州家当主の養子が死亡したため、北郷家9代目当主が家督を長子に譲り、
自らが豊州家へ養子に入って、5代目当主(島津忠親)となったからです。
いくら同じ分家同士とはいえ、現役当主自らが養子に入るのは尋常ではなく、
伊東家からの圧迫が年々激しさを増していたことが窺える。
そして1560年~~飫肥城を伊東の魔の手(?)から守るテコ入れとして、
武勇優れた島津義弘が豊州家へ養子に入った。
でもって養子に入るにあたって、
でもって養子に入るにあたって、
島津忠親(元・9代目北原当主&今・豊州家現役5代目)の姪と結婚したんです(←つまり婿養子
この時点で{島津家・北郷家・豊州家のトリプル同盟}「飫肥城を守る会」が、
成立したことになります^-^
(日向制覇を目論む伊東義祐)
その間にも伊東は着々と勢力を伸ばし、日向・北原家が乗っ取られた(1562年)
(※肥前戦国史で言うと龍造寺と有馬が激突してる頃)
こてとで今度は{相良・島津・北郷の三氏相互支援}「北原を援ける会」の話が持ち上がる。
同盟のために亀徳姫との縁組が出て、
さぁ困った~御相手となる該当者がいない~~アタヽ(´Д`ヽ ミ ノ´Д`)ノフタ
江戸期・人吉2万石クラスの相良なら、相手は島津の「分家が釣り合い」というものなのだが、
戦国期・八代、球磨、芦北を領し、天草諸島へも支配力が及び、
明との交易でバブリー戦国大名の相良氏となれば、
亀徳姫のダーリンは島津宗家の男子・・・ズバリ嫡男がベストカップリング。
ところが嫡男の義久は既婚で、相手は種子島家からの姫君。
種子島といえば火縄銃だが、それだけでなく独自に琉球と交易ルートを持ち、
種子島といえば火縄銃だが、それだけでなく独自に琉球と交易ルートを持ち、
屋久杉の伐採権益を持ち、その屋久島の領有権を巡って肝属(きもつき)氏と争い、
同じく肝属を敵とする島津と同盟関係にあるのだ。
(同盟の証として義久と姫君が結婚^^b)
堅物の義久は性格的に離縁を承知するタイプではないが、
それ以前に種子島家を怒らせることなど到底出来ない。(離縁不可な件)
ちなみに後年、種子島さんは「九州の役」前に、島津へ臣従し家臣の列に連なります。
ちなみに後年、種子島さんは「九州の役」前に、島津へ臣従し家臣の列に連なります。
「朝鮮の役」にも従軍し、メッチャ揺れる船上で当主自らが火縄銃をブッ放して明船を撃退、
島津義弘のピンチを救う豪快な逸話の持ち主です^-^
(島津家紋ロゴ)
相良家の方も義陽には未だ子供がおらず、適齢期の姫君が亀徳姫しかいなかったのだろう。
まさか島津相手に~家臣の娘をチョイスして養女にして・・・という訳にはいかない^^;
(島津家紋ロゴ)
相良家の方も義陽には未だ子供がおらず、適齢期の姫君が亀徳姫しかいなかったのだろう。
まさか島津相手に~家臣の娘をチョイスして養女にして・・・という訳にはいかない^^;
島津は島津で相良相手に~3男、末弟、従兄弟、甥・・・という訳にはいかない^^;
そこで白羽の矢が当たったのが島津義弘だ。
病弱な義久に万が一~~の時のスペア次男~~~武勇は折り紙付~(=^・ω・^=)v ブイ
病弱な義久に万が一~~の時のスペア次男~~~武勇は折り紙付~(=^・ω・^=)v ブイ
島津忠親(今・豊州家当主&元・9代目北原氏)も
「三氏相互支援」の究極の目的である「伊東の勢力を削ぐ」
そのために「養子縁組解消+姫君(姪)の離縁」という不幸を呑んだのだろう。
ちなみに離縁された北郷の姫君は、同じ一族に再嫁している(出戻り姫によくあるパターン)
1562年~「肝属氏からの圧迫が強くなったから」という(おそらく表向きの)理由で、
島津義弘は豊州家と養子縁組解消し妻とも離縁~実家へ戻り同盟のため亀徳姫と再婚する。
単に援軍・派遣のためなら養子縁組を解消したり、まして妻まで離縁する必要は無いだろう。
単に援軍・派遣のためなら養子縁組を解消したり、まして妻まで離縁する必要は無いだろう。
相良との同盟を優先したからに他ならない・・・と、推測してます。
「三氏相互支援」が成功し、北原が伊東への抑えの一翼を担うことが出来たなら、
「三氏相互支援」が成功し、北原が伊東への抑えの一翼を担うことが出来たなら、
必然的に飫肥城への圧力も軽減されるはずだった。
だが、現実は島津の思惑から外れた・・・
だが、現実は島津の思惑から外れた・・・
なぜなら相良義陽が島津を裏切るからだ!
飫肥城への圧力は変わらないどころか、ますます強くなり猛将・義弘が抜けた穴も大きく、
豊州家単独では飫肥城を支えきれなくなり、
ついに島津宗家も飫肥城を手放す断腸の決意をすることになる。
島津が飫肥城を手放すのは「三氏相互支援」1562年から5年後の1567年の事だ。
島津が飫肥城を手放すのは「三氏相互支援」1562年から5年後の1567年の事だ。
島津忠親は飫肥城を出ると、実家・北郷の故地である都城で没している。
島津は手痛い裏切りをした相良義陽に対し「人として信を置かなくなった」
島津は手痛い裏切りをした相良義陽に対し「人として信を置かなくなった」
そのために前回語ったように、亀徳姫が離縁される。
特に慎重で用心深い16代当主島津義久は、相良義陽の本意を義陽の最後の最期まで疑った。
結局のところ、「三氏相互支援」における相良義陽の行動が、
回り回って彼自身の命運を縮めることになるのだが、それは・またの話 by^-^sio