最近、夏バテ気味でPCに向かう時間が短くなってる虚弱道産子です(爆
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はじめに・・・本業(肥前史研究)とは違い歴史記事の資料等は他力本願で提供受けてます。
(本業の方も入手には、ご協力をいただいてます^^;)
ですから記事にした以上の事は、シオ自身にも判らないので、その辺はお含みおきくださいm(__)m
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出典元:大河平氏家譜(仮称)---非公開のため原典未確認です
参照史料:『えびの市史』『本藩人物志』(その他の参照史料は文中、都度明記します)
参照文献:『物語り 大河平史』『諸県興亡』
※文体からの推測として原典に近いのが『諸県興亡』で、現代語訳した(と思われる)のが『物語り 大河平史』
※『えびの市史』『諸県興亡』『物語り 大河平史』は合戦の日付から大河平氏家譜が出典元と推測される。
傍証として合戦日付だけでなく、その他内容も上記三点は根幹部分において相違はありません。
≪記事内ルール≫
青文字⇒⇒史料&文献参照
緑文字⇒⇒青文字にないが、補足&解説となる部分
白文字⇒⇒分析・推測・・つまりIFバナなので、苦手な方はスルーで^^;
本来であれば論証できないIFバナをダダ漏れするのは、歴史記事においてはNGなんですが、
ここは研究内容とは別の趣味だって事と、
自分が記事にしながらでないと脳内整理出来ないオバカなんで御勘弁下さい。
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今城が伊東勢に降伏せずにだ玉砕を選ん理由は、史料的には判らない。
一族会議したとか記録に書いてないから。
個人的に想像するだけなら、大河平ファンなんで山ほど熱く語れるんだが、そこは自粛でwww
一つだけIFバナ言うなら「伊東義祐が人として信を置けない」の一語に尽きるだろう。
当主が死亡したのをチャンスとばかりに、
全く血縁のない当主未亡人の親族が、財産目当てに乗り込み不埒な悪行三昧。
(次期当主候補を殺したりとか、伊東に反抗しようとした家臣を騙し討ちとかとか)
水戸黄門が「もぅいいでしょ」と印籠を出し、桃太郎侍が「ひとぉーつ」と数えだし、暴れる将軍が「三位入道、ワシの顔を忘れたか」(想像し始めたら楽しくなってきたんだがwww)
と、出てくるようなベタベタの家督乗っ取りにドン引かない人はいないだろう^^;
推測だけするなら、これまた大河平ファンなんで山ほど熱く語れるんだが、キリないんで手短にwww
同じ実力者でも、伊東氏と島津氏・・・
どっちが一族の後事を託せるか・・・となると、やっぱ島津なのです。
自分が、そう思う理由を語り出すと、これまた「いくらでも話し続ける事が出来る」ので、
まぁ、ここは軽く飛ばしてくださいな(笑
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地図・今城
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伊東勢は北の間道ルートより攻撃を開始。
少年当主・大河平隆次は「もはやこれまで(T^T)」
と、叔父の大河平隆堅や同じ菊池氏庶流の八重尾重視らと共に城門を開いて討って出る。
しかし、衆寡敵せず、全員が討死する。
戦死者は「物語り大河平史」によると、
一族6名に家臣94名、援兵8人の計108人とある。
イベントパーティ公式発表では130人・・・(._+ )☆\(-.-メ)出典『本藩人物誌』では130名!
で、「物語り大河平史」は、この戦死者数内訳と共にに戦死者名を列記してるんです。
他と違い「物語り大河平史」だけが、やたら細かい。
もしかして~~ですが、元出典の家譜だけでなく、墓石や菩提寺過去帳とかから、
著者の方が追跡調査した内容を記述してるかもしれません。
あるいは家譜の記述通りで、いわば「大河平側の記録」なのかもです。
このあたり家譜と文献を比較することが出来ないので、何とも言えないです。
それと、内訳で気になる|援兵8人|_ ̄)じぃー
出典より原文引用:
以下は其時援兵として守居、死之士衆
橋口越後坊、春口兵左衛門、二宮兵部左衛門、仝次郎五郎、興松興一兵衛、野添新左衛門、永野仲左衛門、楠田主馬
でもって「どこからの援兵」か書いてないし・・・il||li _| ̄|○ il||l
てか7番目の永野仲左衛門って、あなた永野城の城主じゃなかったんですか,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
裏切ったり討死したり今城で玉砕したり、記録上で忙しい人ですな( ゚Д゚)y─┛~~
要潤に特別な方法で潜入してもらってインタヴューして欲しいwww
この援兵に関しても大河平ファンなんでいくらでも熱く妄想・・・以下略
実は妄想が爆走するのを抑えるために、推敲に時間かかったんです,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
監修様の追跡リサーチでも援兵8名の事は詳細不明でした。
ただ可能性として想像できるのが菊池庶流・八重尾重視って人物が、そもそも純然たる菊池庶流じゃないっぽいんです。
山之神神社(えびの市となりの小林市)由来によると、八重尾氏が土着したのって寿永3年(1184)鎌倉時代より前で、菊池氏ちゃうやんΣ(´Д`;) うあ゙
八重尾重視が養子か婚姻の関係で、大河平一族にカウントされてるかも。
となると八重尾の家臣は純然たる大河平家臣じゃなくなるから、援兵としてカウントもありえます。
(監修様のIFバナ~ゎーィ♪ヽ(*´∀`)ノ)
あと永野仲左衛門が同一人物なら、伊東の攻撃で永野城落城後に脱出して、今城に入ったとか?
いずれにせよ一次史料がないので、これ以上の確認は無理で、名前が判ってるだけでも凄い事です^^;
氏名が伝承されるって事は、大河平の人々がキチンと慰霊・供養してた証ですから(゜゜)(。。)(゜゜)(。。)ウンウン
参照文献より続き
今城の北にある第三の堀は人馬で埋まったと言う。
伊東軍も苦戦しており兵500余人を失うに至っている。
戦は卯の刻(午前五時~七時)に始まり申の刻(夕刻とあるので午後五時前頃か)まで続いた。
残った大河平城士らの妻子 は捕えられ、今城は伊東家臣・米良重方に任された。
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(伊東家・家紋ロゴ)
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米良重方・・・須木城城主。三ツ山地頭。全国的な知名度はアレだが知勇兼備の武将。
この数年後だけど、米良が築城途中だった小林城を島津兄弟(義久・義弘・歳久)が攻撃してるんだが、
米良重方は弟と共に奮戦し、猛将・島津義弘を負傷させて撃退したという経歴の持ち主。
(義弘サァ・・・一軍の将なのに、また最前線で斬り合ってたみたいですネ・・(;´ー`))
米良重方は、更に後年の「木崎原の戦い」で伊東勢の殿軍を務めて討死してます。
その首級は島津義弘自らによる首実検後に米良家菩提寺へと返還された。
義弘「良き敵には礼を尽くすでごわす(`・ω・´)キリッ」
首級の弔われた墓は「米良筑後守の墓」として小林市指定・史跡に、
首が送り届けられた時の首桶は小林市指定・有形文化財です。
緑文字部分はウィキペディア参照です。
あ・・・本筋から離れてゴメン。
だって~~~名前だけしか載せないのは勿体ない武将なんだもん~~~ 川* ̄д ̄*川ポッ萌ッ
伊東義祐・・・やり方はともかく、伊東家も最盛期なんで、伊東家臣も(・∀・)イイ!
一族6名に家臣94名・・・この討死内訳を見ると、
今城による玉砕で大河平氏が滅亡したのがハッキリと判る数字だ。
ここから先は「再興・大河平氏」のための道のりになるのだが、それは・またの話 by^-^sio