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大河平氏_御家再興編_【1・主家崩壊】

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はじめに・・・本業(肥前史研究)とは違い歴史記事の資料等は他力本願で提供受けてます。
(本業の方も入手には、ご協力をいただいてます^^;)
ですから記事にした以上の事は、シオ自身にも判らないので、その辺はお含みおきくださいm(__)m
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出典元:大河平氏家譜(仮称)---非公開のため原典未確認です
参照史料:『えびの市史』『本藩人物志』(その他の参照史料は文中、都度明記します)
参照文献:『物語り 大河平史』『諸県興亡』
※文体からの推測として原典に近いのが『諸県興亡』で、現代語訳した(と思われる)のが『物語り 大河平史』
※『えびの市史』『諸県興亡』『物語り 大河平史』は合戦の日付から大河平氏家譜が出典元と推測される。
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≪記事内ルール≫
青文字⇒⇒史料&文献参照
緑文字⇒⇒青文字にないが、補足&解説となる部分
白文字⇒⇒分析・推測・・つまりIFバナなので、苦手な方はスルーで^^;
本来であれば論証できないIFバナをダダ漏れするのは、歴史記事においてはNGなんですが、
ここは研究内容とは別の趣味だって事と、
自分が記事にしながらでないと脳内整理出来ないオバカなんで御勘弁下さい。
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今城への援兵8人だが、大河平隆次と些細な事で不仲になったという主君・北原兼親(飯野城主)という可能性がないかな~
とも思ったが、やっぱワカラン(´・д・`)

そうなると北原兼親は
「万が一の時は自分が援軍しますから~と言って島津派遣兵を撤兵させておきながら、
その万が一がきたのに、隆次への意趣返しで援軍送らず今城を見殺しにした残念な主君」
という事になる。

実は、検証前の初見の段階でシオは、そう受け取ったのネー(*´・д・)(・д・`*)ネー
残ってる記録(だけ)を読むと、そういう評価づけになっちゃう^^;
ほんとにそうだったのかな・・・(-ω-;)ウーン

(* ̄○ ̄)ゝ「監修さま~北原が援軍送るのが物理的に無理だった可能性ってないですかぁぁ」
監修様「可能性の話ですけど、相良勢が伊東の囲い番してたなら、飯野城からの援軍は阻まれますね」
「囲い番」って聞きなれない言葉で、検索しても将棋や囲碁しか出てこない,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
御当地(南九州?)独特の戦国軍事用語だったみたい^^;
つまり「囲い番」って、城を囲む攻撃側が逆に包囲されて逃げ場がなくなることがないように、支援する軍勢のことなんです。
確かに、それやられたら北原兼親は援軍したくても出来ないです。
今城や周辺の城が落ちたら、飯野城への圧迫がMAXになって、北原はピンチになるんで、不仲がどーのって場合じゃない。
IFバナとしては、物理的に支援できなかった・・・というのが一番自然です。

Image may be NSFW.
Clik here to view.
地図・今城
 地図・今城

さて、1564年5月29日に今城(と、永野城)の落城により、北原家臣が動揺した(((((( ;゚Д゚)))))ガクガクブルブル
同年?月、後難を恐れた踊城主・白坂佐渡介、高原城主・白坂下総介らは北原家より相次いで出奔する

話変わって、今回の地図は監修様提供なんですが、恒例の「シオ(手書きの)ぬくもり戦国地図がないな~」
と思ってくださる奇特なファン様・・・すいませんm(__)m

真幸院(現・宮崎県えびの市)は、シオのキャパを超えました・・・(´・`)トオイメ。。。
なんと真幸院(えびの市)だけで45も城や陣跡があるんです~~ぇえっ!(゚ロ゚屮)屮

それだけ城や陣や砦があるってことは、それだけ家臣に分知できたってことでして、
「真幸院が肥沃な土地」というのは、決して誇張された国自慢ではないのです。

で、踊城は霧島市牧園町・・の何処にあるか詳細不明^^;
高原城も えびの市内じゃなくて西諸県郡高原町・・・・なんだけど、
高原城は砦一部が壊されて現在の宮崎自動車道があるために、やっぱ城の正確な位置は判んなくなっちゃってます。
「後難を恐れて・・」とあったので、真っ先に高原城の位置を調べたらビンゴ。

高原城は えびの市のチト南東に位置してて、伊東氏エリアである小林市の方が近いんです。
なるほど・・・ビビって出奔するはずですな ( ゚Д゚)y─┛~~
で、高原城の白坂下総介という人物は「北原兼親を当主に擁立しよー(・∀・)ピコーン★」と発案した人物でして、
島津家老である樺山善久に保護を求めて、島津の支援をとりつけたいわばパイプ役だった人物です。
高原城の白坂下総介の「その後」は不明です。
『本藩人物誌』に「出奔シテ守護方ニ参シ樺山善久ニ倚テ降ルトイフ」
とあるので、初めに保護を求めた樺山に仕えたものか、「ト言フ」って事は、ハッキリしてないって事の訳で、
つまりところ「出奔した北原家臣ら、その後は不明です(`・ω・´)キリッ」

北原家中が混乱ガタガタぶりは、島津側に傍証があります。
『本藩人物誌』によると
「北原兼親が伊東に寝返るとの風聞が立つ」とあります。
この風聞は「えびの市史にはない」ので、何処まで本当なのかは今となっては判りません。
えっと、やっぱ同年11月に、吉松城の北原左衛門尉(兼親の叔父)が
「秘かに伊東氏と相良氏に通じ飯野から島津氏を追いだそうと画策していた事が露呈したため出奔してる」んです。
で、前述の風聞~という流れです( ̄ω ̄A;アセアセ

とにかく、北原家臣の寝返り&相次ぐ出奔に、島津当主である貴久は
「北原兼親では真幸院を維持するのは無理」と判断を下し、
同年11月、薩摩の伊集院神殿(こどん)村(現・鹿児島県日置市)に30町の領地を与え移住させる。
最盛期は1万の兵力だった北原氏は、この時から独立した領主でなくなり、島津家臣へと転落します。

同年11月7日、北原兼親に代わって、猛将・島津義弘が飯野城に入る
飯野城は、その後23年もの間、島津義弘の居城となり、島津ファンの認識では「飯野=義弘」な件~^^/
なにやら11月が盛りだくさんですが、兼親の移住が義弘の飯野入りの、前なのかor後なのかは不明です。

個人的に北原兼親タンが気の毒だなーーと思うのは、実子がいなかったことです(´・д・`)
で、島津家老だった伊集院氏から、養子を貰いうけたとこまでは、良かったんですが、
その伊集院氏が謀反を起こしまして・・・( ̄ko ̄)<関ヶ原の直前、庄内の乱デス

北原の養子は謀反側じゃないから残ったけど、謀反の一族の出だから出世コースから外れた?みたいな?
次に北原氏が記録に出た時は「諏訪兼安の付衆中」ってことで、島津直参どころか陪臣にまで転落 Σ(´Д`;) はぅ!
あとは記録から消えて、歴史上からはフェイドアウト・・・
もしかしたら膨大な島津史料の何処かに埋もれてるかもですが、陪臣クラスとなると皆目見当も・・・(´・д・`)ハァ・・

リベンジのチャンスを掴めなかった北原氏と明暗を分けたのが、
今城落城で滅亡したはずの大河平氏なのだが、それは・またの話 by^-^sio

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