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はじめに・・・本業(肥前史研究)とは違い歴史記事の資料等は他力本願で提供受けてます。
(本業の方も入手には、ご協力をいただいてます^^;)
ですから記事にした以上の事は、シオ自身にも判らないので、その辺はお含みおきくださいm(__)m
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出典元:大河平氏家譜(仮称)---非公開のため原典未確認です
参照史料:『えびの市史』『本藩人物志』(その他の参照史料は文中、都度明記します)
参照文献:『物語り 大河平史』『諸県興亡』
※文体からの推測として原典に近いのが『諸県興亡』で、現代語訳した(と思われる)のが『物語り 大河平史』
※『えびの市史』『諸県興亡』『物語り 大河平史』は合戦の日付から大河平氏家譜が出典元と推測される。
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≪記事内ルール≫
青文字⇒⇒史料&文献参照
緑文字⇒⇒補足&解説となる部分
白文字⇒⇒分析・推測・・つまりIFバナなので、苦手な方はスルーで^^;
本来であれば論証できないIFバナをダダ漏れするのは、歴史記事においてはNGなんですが、
ここは研究内容とは別の趣味だって事と、
自分が記事にしながらでないと脳内整理出来ないオバカなんで御勘弁下さい。
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1568年8月、ナミの情報リークにより相良と伊東のタッグによる、飯野城挟撃作戦が頓挫。
途中で阻まれた相良勢は引き換えし、伊東勢は止む無く桶平城を築き長期戦に備えた。
真幸院エリア内に伊東が築城したことに対する島津側のリベンジは早かった。
同年11月、遠矢良賢は黒木播磨守と共に夜中に本地原の古溝に伏せ、
翌朝にウズラ狩りを装った少勢を桶平城の前に繰り出し城兵を挑発した。
良賢と黒木は、釣られて本地原に誘い込まれた伊東軍を釣り野伏せで散々に打ち破る。
画像はウィキぺディアより拝借
ウズラ・・・ぷりてぃーで萌える 川* ̄д ̄*川ポッ
現代では野生のウズラはレッドゾーン入りして禁猟です。
てか、南九州にウズラが棲息してたことにビックリしたが、冬期間は南下して越冬するそうな。(@@)シランカッタっ!
ちなみに戦国時代のウズラ狩りは食用じゃなくて愛玩・・・鳴き声が縁起が良いと武家で飼われてたんです。
ゲフゴホっ・・・ウズラに萌えて脱線した・・・え~と
ナミの情報リークに感謝した島津義弘は、
今城玉砕で滅亡した大河平氏御家再興を思い立つ。
ロン様作成・島津十字ロゴ画像
いや、大河平を忘れてたわけじゃないとは思うんですよ。
でも、ネットもテレビも携帯もないんだから、大河平の誰が生き残ってるとかって、大河平側からアプローチしないと情報はワカランでしょう。
大河平は新参の島津家臣で、島津家臣の誰かと縁戚関係って訳じゃないですからネー(*´・д・)(・д・`*)ネー
で、ここで数話前の伏線で恐縮ですが、同じく生き残りで、ナミと隆次の姉弟からみて従弟にあたる隆重(落城時6歳)。
彼の存在を島津側が何時知ったかが、わっかんないのよ~~~
本藩人物志だと大河平隆重は1598年に朝鮮の役で35歳没になってるんです。
没年齢から逆算すると今城落城時点は1歳 ヽ(。_゜)ノ ?
そのくせ落城時は6歳とも書いてる・・・どっちやねん!!!(# ゚Д゚)・;'.
大河平系図も本藩人物志と、えびの市側とは違ってるんです。
ナミが1568年時点で子宝に恵まれなかったのは前回書きましたが、その後も恵まれず(´・д・`)
で、従弟の隆重を養子に迎えてるんです。
が、本藩人物志では隆重の子・隆商が養子になってて、隆重を大河平当主としてカウントしてないの。
つまるところ島津側も戦国期のバタバタで、大河平隆重の事をイマイチ把握してなかったみたいなのネー(*´・д・)(・д・`*)ネー
とにかく、島津義弘はナミの夫・皆越六郎左衛門に大河平の名跡を継がせる事を思い付き、
その説得役として飯野衆・遠矢良賢を派遣したんです。
もしナミの夫が御気楽に妻の利敵行為に気づいてなかったとしたら、
目の前に説得に現れた島津義弘家臣から聞いたことになりますな・・・( ゚Д゚)y─┛~~
で、遠矢良賢が説得に皆越に入った時期も、その時の遣り取りなども記録がなく、
更には決断した皆越六郎左衛門とナミ夫妻が、真幸院・大河平入りした時期も記録がないんです^^;
遠矢良賢は説得役だけでなく、ナミ夫妻の出迎え役も引き受けてました。
(だって知ってる人じゃないと不安で可哀想ダロby義弘)
で、遠矢良賢は1572年5月4日に戦死してるので、ナミ夫妻が大河平に入ったのは1568年8月~1572年6月までの間になります。
ナミ夫妻が皆越村を離れるとき、相良側の追手を危惧した島津義弘は60人もの護衛をつけたそうです。
てことはナミがリークしたのは、もうバレてたって事で、一刻を争う状態だったのでしょう。
以前も書いたけど皆越(熊本県球磨郡あさぎり町)から、真幸院(宮崎県えびの市)に入るのは、
白髪岳と国見山かあるから加久藤トンネル出来るまでは難所コースだったんです。
なので女一人(ナミは大河平という他郷出身)の足で、追手(地元有利で間道知り尽くしてる)を躱すのは至難の業。
島津の出迎えと合流するまでは、夫・皆越六郎左衛門の助力がなければ、相良エリア脱出は難しかったと思います。
それと原典未確認な上にサイトからの孫引きなんで自信ないけど、義弘が付けた護衛60人が再興・大河平家臣の中核になったみたいです。
(だって皆越六郎左衛門自身に数十人も家臣がいたら、そもそも島津からの護衛は必要ないでしょ・(*´pq`)プププ)
大河平ツツジ
大河平領に入った隆次の姉ナミは、弟の無念と城兵の鎮魂のためにツツジを植えた。
それが今も保存会が大切に守る「大河平つつじ(別名・血潮つつじ)画像参照」です。
この赤は大河平つつじ独特のもので、他では出ない色なんだそうです。
大河平城や大河平ツツジで検索かけると、ツツジを植えたのは島津義弘だったり、ナミの夫だったりしてまして、
伝承には数パターンあるようです。
シオ一句・・・伝承は、自分が植えたと みなが言う (-人-)☆彡お粗末でした♪
15歳で玉砕討死した少年当主・隆次の姉ナミ・・・
没年は寛永13年(1636年)10月27日で享年92、法名は「来香妙意大姉」
生前のナミは繰り返し大河平氏や今城の事を語っていたそうで、
「レジェンドOF大河平」その言わば語り部のルーツとなった人物ではないかと、自分は推測してます。
ナミに子供がいなかったのは残念ですが、他家からの養子ではなく男系血縁である従弟が系譜を繋いだ事は、
嫡流が絶える事が多かった戦国期において恵まれていたと思います。
また、女性としてのナミが幸福だったかも、現代の我々の尺度では測れません。
ただし、あえて想像するなら、子のないまま皆越で肩身の狭い思いで暮らすよりは、
生まれ育った大河平の山野に囲まれ、嫡流最後の姉姫様として暮らす方が遥かにストレスフリーだったはずです。
跡取り云々以前に、大河平が旧領に完全復活したのはナミの功績あったればこそです。
一度滅んだ家が御家再興できたとしても、旧領へ完全復活は、そうそうないです。
自分の記憶するところでは、柳川藩立花氏と、この大河平氏くらいですね^-^
さて、戦国大河平氏の紹介は、これにて終幕とします。
参照したデータを後日、年表としてアップしたいと思います。
ちょっと、間を開けて相良義陽編を再開します。では・・・それは・またの話 by^-^sio