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Channel: 九州戦国ブログ~室町末期から江戸初期まで~
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大河2014_裏小説【黒田家の陰謀_3・一揆勃発】

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≪参照データ≫
史料(孫引き)-秋月家譜、高鍋藩史話、南藤曼綿録、
WEBサイト---武家家伝_城井氏、戦国ちょっといい話悪い話まとめ、豊前の伝承あれこれ
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このシリーズは尺や予算と制約のある大河ドラマでは端折られた、様々な逸話と豊前に残る伝承などがベースです。
素人のチラ裏ですので、こんな話にもなるんだ~と大河の裏フィクションをお楽しみ頂ければ幸甚です^-^
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黒田家の汚点は、如水に協力した加藤清正の汚点でもある。
いかに戦国の世とはいえ、武士にあるまじき卑怯な手段をとったことに、
良心が咎めた黒田家&加藤清正は、後日似たような行動をとっている。

城井家を匿ってくれた豊前・小倉6万石の毛利勝信を通じた交渉は、はかばかしくなかった・・。

関白・豊臣秀吉からの回答は以下の通り。

1・恭順の証として累代の家宝の供出・献上
2・豊前・城井郡を出て、四国・今治12万石への移封を承諾すること

家宝を手放すこともだが、鎌倉の御世から支配する城井郡を出るなど、アンビリバボー。
そもそも、それが出来たら、とうに黒田家に人質を出して家臣の地位に甘んじている。
豊臣政権の誕生は「先祖代々住む土地を守りたい」という国人の純粋な願いが叶え難い時代だった。

今治という土地は後に藤堂高虎が大名として入るのだが、
この時期は、まだ誰も入っていなくて豊臣政権の管轄下(蔵入地)にあったのです。

九州征伐で特別な功績があるわけでない城井家に与えるには、大きすぎる封土だが、
そもそも今治が12万石あった?と、言うとかなり怪しい^^;
なにせ長宗我部に与えた土佐一国の公式石高が7万石,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
土佐の実収は19~20万石ってことで、軍役・諸役は、それに応じたものが賦課されています^^;

とまぁこんな感じで超アバウト。
石高と実収が釣り合い、数字が治まるのは江戸期寛永年間(3代将軍のころ)まで待たねばならない。
とはいえ、やはり12万石という数字は大きく、城井家が承諾して引っ越したら、即インネンつけて潰す可能性が高い。

別説で移封先の土地候補として上筑後500町~~てのがある。
上筑後・・というのは筑後国の北部にあたります(京都に近い方を「上」と表現する)。

筑後の南部は九州征伐以後に柳川13万石として立花宗茂が入ります。
でもって立花の与力として、立花宗茂の実弟と縁戚の筑紫家が、それぞれ筑後入り。

九州征伐直後・過渡期の上筑後に「空き地」があったか、やや疑問ですが関白・秀吉にすれば、
城井が豊前・城井郡から出てさえくれれば、後の料理はカンタン~という思いが見え隠れします。

ちなみに1000町で、だいたい1万石でして、500町だと半分の5000石(アバウトです)。
城井郡という一郡を領していた本貫地より大幅減収になるでしょう。
これでは11家ある一族全てを養うことは出来ません。城井家単体の引っ越しが限界です。
ふかした伊予12万石であれ、リアル上筑後500町であれ、とうてい城井家が諾といえる内容ではありませんでした。

秀吉は豊前で最大の国人勢力である城井家の力を警戒していた。
1586年8月・・島津軍の北上により立花城が攻撃された時に、豊前でも高橋元種(竜子の弟)が呼応して豊前で謀反を起こしました。

当時の豊前守護職は大友家でしたが、その反乱は忽ち豊前一帯に広がり、大友家では手におえなくなり、
関白秀吉は、黒田如水・吉川元春・小早川隆景・毛利軍兵3000を援軍に派遣したんです。

これらの援軍は、もともとは立花宗茂のための援軍だったのですが、
援軍来着を聞いた島津軍が撤退したので、フリーになった彼らを豊前鎮圧に向かわせたのです。

因みに、この時毛利兵3000を率いていたのは、仁保(旧姓神田)元忠です^^b
彼らが援軍に入ったのは10月のことで、豊前の鎮圧は12月。なんと二か月もかかってる^^;

豊前での国人たちの力を知った秀吉は、九州征伐後の国分けで豊前国を二つに分けた。
それが小倉6万石・毛利勝信と中津12万石の黒田家です。
でもって扱いの難しい城井家の城井郡を黒田家に押し付け託した。

毛利勝信が城井家を匿ったのは、下手に黒田家に協力して藪蛇になるのを恐れたのもあると思う。
入ったばかりの領地で謀反が起きるのは誰だって避けたい^^;

黒田家は1587年6月の国分け発表後、すぐに家臣団を引き連れて豊前・中津入りをし、
翌月7月25日には新領主として「掟書」を発布している。

時間が経てば経つほど、城井家には不利になっていく・・・ショボーン..._φ(・ω・` )

小倉でジリジリ焦る城井家に朗報?が舞い込んだ。
1587年8月13日・・肥後で大規模な国人一揆が発生したのである
九州征伐で華麗な陣容を見せた上方兵だ、すぐに鎮圧されるかとも思ったが、
一揆は一気に肥後一帯に広がり、肥後の領主・佐々成政だけでは手におえなくなり、大規模な派遣軍が動員された。

いま城井郡に戻って挙兵すればイケる・・・城井家当主・鎮房(竜子の舅)は決断した。

「短い間でしたが、小倉での暮らしは楽しゅうございました」
夫の肩衣に香を焚き染めながら竜子が言った。

小倉の毛利家は引き留めたが、舅の城井鎮房の決意は変わらなかった。
正式に暇乞いの挨拶をする折には、きちんとした正装を整えたいという妻らしい配慮だった。
え?侍女にやらせないのかって?そりゃ新婚ですもの~言うだけ野暮ですよ~ (*´pq`)クスッ

「楽しい?」肩身の狭い仮寓住まいの何処が?と思い、夫の朝房(ともふさ)が問い返した。
「はい、表と奥に離れた城住まいと違い、殿を側近くで拝見できましたもの。市井の夫婦も、このようかと、楽しゅうございました^-^ウフフ」

(何と呑気な・・・)やはり女だ・・・と、言いかけた言葉を朝房は飲み込んだ。
この竜子の伸びやかな明るさに、ともすれば暗くなりがちな気持ちを幾度となく救われたことを思い出したのだ。
(竜子と夫婦の杯を交わして、まだ三月・・・今なら間に合う・・・)

「竜子・・・小倉を出たら、そなたは日向に実家・・」
「まさか実家へ帰れなどと言うおつもりでは、おりますまいな」

無礼を承知で竜子は夫に皆まで云わせず、言葉をかぶせた。
「殿にお尋ねします。此度の城井谷への帰還は、先に絶望し城を枕に討死するためですか?」
「馬鹿を申せ!肥後での一揆は燎原の如く・・・という勢いなのだぞ。関白の仕置きに不満な国人が、それだけおるのだ。城井も立ち上がれば、黒田家も交渉に応じざるを得なくなるはずだ。希みはある!」

「であれば、わたくしを実家に帰す必要など無いはずです。」
「いま、わたくしを実家に帰せば、心無い者どもに「城井は絶望しヤケになっている。勝つ見込みが無い証拠に妻を離縁したぞ」と、いらざる誹謗を受けましょう」
「殿が何というと、行く先が唐天竺であっても何処までも御供します」

顔を上げた竜子は目に一杯の涙を溜めて、それは今にも零れ落ちて頬を伝う寸前だった。

「竜子!・・・ワシが悪かった!そなたも一緒に城井谷に戻ろう、二度と離縁などと心無い仕打ちはせぬゆえ、安心いたせ!」
若い二人の絆は困難に向かって更に強まったが、だからといって、それどうにかなるという明日への保証は無い。
人生に挫折はつきものだ。
問題は、その後を「どう生きるか」なのだが、それは・またの話 by^-^sio

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