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Channel: 九州戦国ブログ~室町末期から江戸初期まで~
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【神代勝利、戦国大名化計画IF2・博多と大友1】龍造寺隆信「覇」の巻16

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大友の北九州支配で豊前なんですが・・・
WEB上ではデータが少ないのと宇佐神宮が手ごわくてリサーチ出来てません(_´Д`)アイーン
どのみち神代と豊前は関わった事ないので、今回も逃げ・・・ゲホゴホ、割愛させて下さい(人´∀`)




さて、西から順番に肥前の次は筑前なんですが・・・筑前の覇権を巡る争いはズバリ複雑!
大友義鎮が筑前守護職になったのは、1559年で割と遅い。
が、大友家では筑前守護職ゲッツの100年以上前から、|筑前|_ ̄)じぃーっと狙い、関わっていました。

目的は大宰府・・・よりも商都・博多、貿易による利権。
「筑前の覇者=博多の支配者であり、交易による利益を甘受する者」です。
もっとも博多には一筋縄で行かない博多商人達がおり、武家の思惑通りにはなかなか・・・( ̄ω ̄A;アセアセ

商都としての博多の歴史は遣唐使の経由地から始まり、平清盛が港を作ったりと錚々たる歴史上の人物が関わり、シオ程度の知識じゃ手に負えません( ̄ω ̄A;アセアセ
それでも当ブログの管理人ですので、浅学ではありますが自分の理解してる範疇で説明させてもらいますね^^;

博多支配に関しても室町中期~末期の頃には、少弐・大友・大内の三つ巴になります。
南蛮交易というと大友(=^・ω・^=)v ブイ。朝鮮交易なら対馬・宗氏(=^・ω・^=)v ブイ日明交易なら大内(=^・ω・^=)v ブイ。
てな漠然としたイメージがあると思いますが、大内の日明貿易独り勝ち状態は最初からではありません。

室町初期の頃、大内義弘は私貿易をヤリ過ぎ&実力あり過ぎを室町幕府(将軍・義満)に疎まれ「応永の乱」の首謀者として討たれて(1400年)しまいます。
室町幕府から交易の独占を許可されたのは、大内義興の代(1516年4月)です。
後を継いだ大内義隆は交易に必須の勘合符を巡って細川京兆家と対立し、結果「寧波の乱(1523年)」が起きます。
一時的に日明貿易が途絶えましたが、再び交易を復活させ大内独占状態に戻したのも大内義隆でした。

http://blog-imgs-49.fc2.com/s/i/o/siori20120901/blog_import_5042c7bcda4c9.jpeg 大内家紋ロゴ

その大内家ですが・・・
九州探題・今川了俊の後任、無難バランス人事で選出された渋谷氏が余りにも実力不足なため、室町幕府から「渋谷の面倒見てあげてね(´・д・`)」と依頼され、公明正大に北九州に介入し始めます。

一方、陰が薄い九州探題につけこむのは大友家も一緒。

渋川満頼が九州探題を辞したのを機に、大友氏は1429年(永享元年)朝鮮に使者を遣わして博多支配を宣言

それを受けて博多商人は大友家の保護下で貿易を行ってました。

つまり博多のうち、交易港のある北東部が大友氏配下。
残る内陸側の南西部が少弐支配下だったんです。
少弐は、美味しいところを大友にとられ・・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ

この状態は長続きしませんでした。

1478年(文明10年)、大内政弘は少弐勢力を筑前(&博多)から追放o( ̄Д ̄θ★ケリッ!

少弐は本貫地・大宰府を失っただけでなく、博多に関する利権も失った(_´Д`)アイーン
肥前に拠点を移した少弐政資が、大貧民アボンにならずにすんだのは、対馬・宗氏がバックアップしてたからです。

で、どういう感じで共存してたかは判りませんが、博多は大友・大内の二大勢力の支配下に入った。
両家が、この状況に満足するはずもなく、博多・・筑前・・ひいては北九州の覇権を巡って争う事になります。

争いに終止符を打つのが、大内家の最盛期を作る男・大内義隆です。
晩年のダメダメ感が流布されすぎて、衆道ネタでは弄られキャラにされたりで、残念な扱いをされがちです。
が・・・往年の輝いてた頃の大内義隆は、本当に凄かったんです。
なかでも北九州における大内義隆の構想を実現させる男、名将・陶興房の功績は計り知れません。

大内義隆は「勢場ヶ原の戦い」で、ついに大友を北九州から撤退させる事に成功するのだが、それは・またの話 by^-^sio

前説が多過ぎて神代に辿りつけない件・・・il||li _| ̄|○ il||lデモコレヤラナイト・・・

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