(-ω-;)ウーン・・・なかなか神代勝利に辿りつかない・・・爆
勢場ヶ原の戦い(1534年・天文3年4月)は、それ単独だけで見ると、
この後は大内・大友間で大きな争いがなかったとか、
この後は実質停戦状態になり後に正式和睦したなど・・・の理由が見えてきません。
この後は大内・大友間で大きな争いがなかったとか、
この後は実質停戦状態になり後に正式和睦したなど・・・の理由が見えてきません。
これには九州全体の情勢・・・筑後と肥後で起きた大友に対する謀反が絡んでました
元々大友家では断続的起きる筑後の謀反に手を焼いてました。(おのれ星野め・・ビキビキ(-ω-#)by大友義長)
それに大友からの自立を目論む肥後の大友傀儡守護職・菊池義宗(大友義鑑実弟)が便乗。
「筑後の謀反を支援してやって♪ヽ(*´∀`)つ」と、大内義隆とタッグを組んで大内軍を誘い入れた。
こうして名将・陶興房が北九州入り~~
それに大友からの自立を目論む肥後の大友傀儡守護職・菊池義宗(大友義鑑実弟)が便乗。
「筑後の謀反を支援してやって♪ヽ(*´∀`)つ」と、大内義隆とタッグを組んで大内軍を誘い入れた。
こうして名将・陶興房が北九州入り~~
「大内が来るなら家(少弐)の出番!大友を支援するぉ(`・ω・´)キリッ」と少弐が便乗。
結果として筑後への援軍はソッチのけ。いつもの如く大内の少弐叩きが始まり、そのまま「大内の肥前平定」へと歴史は流れて行く。
ちなみに名将・陶興房ですが、個人戦では龍造寺軍に無勝,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ
結果として筑後への援軍はソッチのけ。いつもの如く大内の少弐叩きが始まり、そのまま「大内の肥前平定」へと歴史は流れて行く。
ちなみに名将・陶興房ですが、個人戦では龍造寺軍に無勝,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ
で、キッカケの筑後星野氏の謀反ですが、鎮圧に至る過程の年月日が、シオレベルではハッキリと特定出来ませんでした。
(1533年の段階で籠城したまんまだったか、いったん降伏し再び謀反して鎮圧されたのかが???)
(1533年の段階で籠城したまんまだったか、いったん降伏し再び謀反して鎮圧されたのかが???)
というのも1534年2月に肥後・菊池義武が大友に対し挙兵したからで、そっちの動きが大きすぎて筑後情勢が辿れなくなっちゃたんです^^;
大友では肥後鎮圧の為に戸次鑑連(後の道雪)など、生え抜きの精鋭が送り込まれました。
大友では肥後鎮圧の為に戸次鑑連(後の道雪)など、生え抜きの精鋭が送り込まれました。
大友義鑑は相当焦ったと思います。
大内義隆とタッグを組んでる菊池義宗は、水軍を使って豊後・国東半島沿岸で略奪行為をし、大友を翻弄してました。
大内義隆とタッグを組んでる菊池義宗は、水軍を使って豊後・国東半島沿岸で略奪行為をし、大友を翻弄してました。
最終的には筑後・肥後の謀反は鎮圧され、大内勢も撃退し名門・大友家の底力を示した事にはなりました。
が、この1534年の段階では、一時的とはいえ大友軍のほぼ全軍がフル稼働状態となり、もし謀反が長期化していれば、さしもの大友も息切れし躓いて大怪我したかもでした。
これに懲りた大友義鑑は、足元(肥後や筑後)を固める事を優先し、北九州へ大軍を派兵する事を控えたんです。
が、この1534年の段階では、一時的とはいえ大友軍のほぼ全軍がフル稼働状態となり、もし謀反が長期化していれば、さしもの大友も息切れし躓いて大怪我したかもでした。
これに懲りた大友義鑑は、足元(肥後や筑後)を固める事を優先し、北九州へ大軍を派兵する事を控えたんです。
勢場ヶ原の戦いで大友が大内勢を撃退したので、大内義隆の野望頓挫~とする見方もあります。
ですが、その数か月後には陶興房は再び北九州入りし大宰府に駐屯してます。
ですが、その数か月後には陶興房は再び北九州入りし大宰府に駐屯してます。
大友が北九州に対して大きな動きを止めた以上、大内義隆の目的は達したんです
両者は実質停戦(和睦したともある)状態になり、1538年に足利義晴の仲介で条件批准~正式に和睦しました。
で、表題の博多なんですが、、、、和睦の時にどうなったか判りませんでしたil||li _| ̄|○ il||lスイマセン
でも博多の利権を大友が全て手放すとは思えないし、もしそうならWEB上の検索で引っかかると思うんです。
少なくとも博多に絡む事が和睦条件に入っていたら、大友は和睦に首を縦に振らないでしょう。
だから商都・博多に、大内・大友の二大勢力がいる状況には変化はなかったと思います。
(大友寄りの博多商人が大内寄りに靡くとった現象は起きてたでしょう)
でも博多の利権を大友が全て手放すとは思えないし、もしそうならWEB上の検索で引っかかると思うんです。
少なくとも博多に絡む事が和睦条件に入っていたら、大友は和睦に首を縦に振らないでしょう。
だから商都・博多に、大内・大友の二大勢力がいる状況には変化はなかったと思います。
(大友寄りの博多商人が大内寄りに靡くとった現象は起きてたでしょう)
で、和睦の条件批准として、筑前領の一部が大内から大友に割譲されました。
割譲された中に立花山城があった・・・という話もあるんですが、立花山城は元々大友が築城した城です。
だから大内が接収してたのを大友に返還されたのかもしれません。
割譲された中に立花山城があった・・・という話もあるんですが、立花山城は元々大友が築城した城です。
だから大内が接収してたのを大友に返還されたのかもしれません。
てことで大友は割譲された筑前領から、ちょっとずつ勢力を広げる事から再スタートとなりました^^b
北九州へは大内家が選んだ守護代が派遣され、郡代は地元から選ばれ・・・といった感じで統治してます。
ただし陶興房が大宰府に駐屯してる間の軍権は、守護代ではなく陶興房に一任されてました。
肥前にも大内が守護代を任じてますが、この場合は統治の為でなく少弐に敵対する者がチョイスされてます^^;
ただし陶興房が大宰府に駐屯してる間の軍権は、守護代ではなく陶興房に一任されてました。
肥前にも大内が守護代を任じてますが、この場合は統治の為でなく少弐に敵対する者がチョイスされてます^^;
大友が龍造寺が台頭したために、肥前統治まで至らなかったように、
大内も少弐が完全滅亡してないために、肥前だけは統治までは出来てなかったんです。
大内も少弐が完全滅亡してないために、肥前だけは統治までは出来てなかったんです。
で、次は大内滅亡後~具体的な大友の筑前支配についてですが、それは・またの話 by^-^sio
神代は、それからなのネー(*´・д・)(・д・`*)ネー
神代は、それからなのネー(*´・д・)(・д・`*)ネー