前振りが長引いてますが、今話してる事は龍造寺編にも秋月編にも後々必要になる基本ベース知識です。
退屈かもですが「シオさんは記事にしないと脳内整理出来ない不器用さんダカラナー(*´ー`)ヤレヤレ」と笑って御付き合い下さいませ。
退屈かもですが「シオさんは記事にしないと脳内整理出来ない不器用さんダカラナー(*´ー`)ヤレヤレ」と笑って御付き合い下さいませ。
大友が筑前支配の為に要としたのが、筑前大友ファイブ・・ではなくて筑前大友五城です。
(方分:ほうぶんorかたわけ、大友の職制。宿老クラスから選抜され、守護代に相当する地位)
立花山城~~~城主・前立花氏⇒⇒道雪の立花氏 宝満山城~~~城主・一万田系高橋氏⇒⇒岩屋城玉砕で高名な紹運の吉弘系高橋氏 柑子岳城~~~城主・臼杵氏筑前方分は臼杵鑑続(兄)鑑速(弟)、田北鑑生、戸次道雪
(方分:ほうぶんorかたわけ、大友の職制。宿老クラスから選抜され、守護代に相当する地位)
で、大友五城を分けて紹介したのは、これから紹介する二城は、上記三城と特徴が違うんです。
その違いとは「城主」です。
その違いとは「城主」です。
上記三城の城主が常に同紋衆の一族から選ばれたのに対し、残る二城の城主は他姓衆(外様or新参or配下国人)なんです。
(同紋衆:大友家紋使用を許可された事から呼ばれた。大友支族or譜代家臣から構成されるエリート集団)
名門意識が強く身分格差がキツイ大友家での内部人事にしては、かなり珍しいケースだと思います。
(同紋衆:大友家紋使用を許可された事から呼ばれた。大友支族or譜代家臣から構成されるエリート集団)
名門意識が強く身分格差がキツイ大友家での内部人事にしては、かなり珍しいケースだと思います。
筑前大友五城のうち、この二城は場所も近く軍事上セットで機能してたと推測されます。
とういうのも安楽平と鷲ケ岳それぞれの城主は、リアル親子だからです。
とういうのも安楽平と鷲ケ岳それぞれの城主は、リアル親子だからです。
まず安楽平城ですが荒平山にあることから、もともとは荒平城と呼ばれてました。
が、秋月氏の居城が荒平城だったものですから、区別するために何時の頃から安楽の字が当てられました。
が、秋月氏の居城が荒平城だったものですから、区別するために何時の頃から安楽の字が当てられました。
安楽平城は、軍事面だけでなく統治上でも要衝の城でした。
大内氏が早良郡に郡代を定めた時、大内の早良郡代は安楽平城に入ってたからです。
大内氏が早良郡に郡代を定めた時、大内の早良郡代は安楽平城に入ってたからです。
ちなみに大内が早良郡代を決めたのは、少弐氏が肥前に拠点を移す文明10(1478年)より前の事。
1430年~1460年にかけて、既に大内の早良郡代が記録上に残っており、筑前における少弐衰退が顕著になってたのが推測出来ます。
1430年~1460年にかけて、既に大内の早良郡代が記録上に残っており、筑前における少弐衰退が顕著になってたのが推測出来ます。
当時の早良郡代で安楽平城主は大友時代の城主・小田部氏とは別家でして、何時ごろから小田部氏が安楽平城に入ったのか、シオレベルでは辿れませんでした^^;
というのも、どうやら小田部氏は一度断絶したらしいんです。
そこで大友家臣(て、いうより配下の在地国人)で松浦城主隼人佐鎮隆が小田部の名跡を継いで安楽平城に入りました。
年代としては1550~1555年くらい、その頃が鷲ケ岳城築城推定時期なんで、同じくらいかと。。。
そこで大友家臣(て、いうより配下の在地国人)で松浦城主隼人佐鎮隆が小田部の名跡を継いで安楽平城に入りました。
年代としては1550~1555年くらい、その頃が鷲ケ岳城築城推定時期なんで、同じくらいかと。。。
松浦城が何処にあったのか不明でして、早良区内には城跡としては残ってません。
もしかしたら隼人佐鎮隆が安楽平城に入った事で、早々と廃城になったかもです。
もしかしたら隼人佐鎮隆が安楽平城に入った事で、早々と廃城になったかもです。
代わりにあるのが松浦殿塚で、この人物は肥前・平戸からやって来て、筑前・早良郡に土着しました。
隼人佐鎮隆と塚の人物が同じか。もしくは後裔なのかイマイチはっきりとした確証は持てなかったです。
隼人佐鎮隆と塚の人物が同じか。もしくは後裔なのかイマイチはっきりとした確証は持てなかったです。
一方、鷲ケ岳城主が大鶴(大津留)宗秋(宗雲)
長くなったので、それは・またの話 by^-^sio
長くなったので、それは・またの話 by^-^sio