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Channel: 九州戦国ブログ~室町末期から江戸初期まで~
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【安楽平城~神代勝利、戦国大名化計画IF5】龍造寺隆信「覇」の巻19

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鷲ケ岳城主は大鶴(大津留)九郎宗秋(宗雲)。
安楽平城、小田部(こたべ)氏の名跡を継いだ小田部民部少鎮隆(松浦隼人佐鎮隆から改名)の息子。

と、紹介してるサイトがあったんですが、大鶴九郎宗秋の経歴からすると単なる縁戚関係っぽい感じでして、親子関係がコンガラガッテ伝承された史料があるんじゃないでしょうか^^;

大鶴は大津留とも書かれてて、初めは自分も豊後大神系氏族・大津留氏の一族かと早とちりしました。
が、通字の惟を使ってないところを見ると、直接の血族じゃなさそうです。
てか、そもそも大鶴宗秋は、大友家臣でも城持ちになれるほどの家柄じゃなかったとか。

最近、教えて貰い知ったんですが「大鶴」姓は旧日田郡大鶴村が由来だそうです。
となると大鶴九郎宗秋の父祖は、大蔵系日田氏⇒大友系日田氏に仕えてた・・・と思われ・・
大友系日田氏が衰退後に、本家である大友家に仕えた(or寝返り)って流れ・・かな?
城持ちになれる家柄じゃないとなると、大友家臣としては新参だったかもです。




ある時、大友家では「家臣たちに、ちゃんとした礼法・作法を学ばせたいな~(´・д・`)」と思い立ち、身軽な身分の大鶴九郎宗秋が京へと派遣されたそうな。
大鶴九郎宗秋は伊勢さんとこの室町礼法ハウツーを φ(.. ) メモメモ___と会得し大友家へ帰還。
喜んだ大友当主が(たぶん義鎮)褒美として、筑前に領地を与えた。

http://blog-imgs-49.fc2.com/s/i/o/siori20120901/blog_import_5042c81e7a834.jpeg 大友家紋ロゴ

その拝領した領地に築城したのが鷲ケ岳城です。
つまるところ軍功ではなく、文治面での功績で城持ちになったわけで、大鶴九郎宗秋の武勇は未知数^^;
というより、あんまりアテにならない・・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ

その大鶴九郎宗秋の次男が、安楽平城の小田部民部少鎮隆に婿入りし、家督を継いだ。
それが小田部鎮元(後の紹叱)でして、1553年の事だと言われてます。

他姓衆(外様or新参or配下国人)でありながら、名跡と安楽平城を継いだ小田部民部少鎮隆は、おそらく余程の武勇スペック保持者。
その後継者・婿にと望まれただけあり、小田部鎮元(大鶴九郎宗秋の次男)は、かなりの気骨の持ち主だったようです。
小田部鎮元は、後年の龍造寺軍による兵糧攻めに半年間耐え抜いた後に討って出て敗れ、自刃しています。

安楽平城と鷲ケ岳城は、大内滅亡後の大友による筑前支配の要衝の一つとして、1550年~1555年の間に整備されたのでしょう。
で、軍事連携を組みやすいように、双方の城主が縁戚・血縁関係となったんだと思います。
むろん、それは主君である大友義鎮の北九州支配構想の一環だったはずです。

では、何故それほど重要な城を他姓衆(外様or新参or配下国人)に預けたのでしょう。

http://blog-imgs-50.fc2.com/s/i/o/siori20120901/201308041338337d7.jpg
筑前大友五城、配置図(縮尺はテキトー雰囲気だけ戦国地図)

自分は大友の軍編成における発想が、城主の配置に出てると思います。
大友は先陣には他姓衆(外様or新参or配下国人)を選ぶからです。

先陣は武功のチャンスともいえる華やかさがありますが、同時に兵の損耗率も甚大。
一度の出撃で壊滅ってパターンも無いとは言えない、別の意味では社内ブラック部署。

大友家では生え抜きの精鋭である大友本軍(同紋衆)を温存する為、兵の死傷率が高い先陣(or想定激戦区)には、替えや補充のきく他姓衆を使うわけです。
とーぜん、他姓衆は不満でイパーイですが、大友が全盛期の間は我慢して従ってました。

で、筑前大友五城に話は戻りますが、さすがに他姓衆には任せられない城があります。
それが博多の守護である立花城、付近の沿岸に睨みを利かせる柑子岳城、博多から大宰府の防衛ラインを補完する宝満山城です。

この三城だけは、余所者には任せられない。
城主は武勇・忠義、あらゆる面で生え抜きの同紋衆が選抜されます。
にも関わらず、裏切り謀反を起こす城主が出るのが、大友家の絶望的な宿痾(しゅくあ=持病)なんです。

上記三城は博多を中心点とする内城で、安楽平城と鷲ケ岳城は外城という見方も出来ます。
というのは、少弐であれ、龍造寺であれ、島津であれ、

背振山系・・特に三瀬峠を越えてる来る敵が、初めに攻略するのが安楽平城だからです


だから軍事連携としては、安楽平城が「主」で、鷲ケ岳城が「従」。
安楽平城を落とせば、そこを起点に博多へも大宰府へ各城へも、行きたいところを攻略しに行けます。
あ、無視するって話はなしでwww
安楽平城を落とさずに先に進めば、背後を突かれちゃいます^^b
(だから後年になると、小田部氏に調略工作とか入る)

1558年冬が近づく頃、三瀬から安楽平城攻撃に動いた武将がいた。
それが山内の英雄・神代勝利なのだが、それは・またの話 by^-^sio

あ~~やっと前説終わった~~またリサーチに入るんで間があきます~

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