1558年初冬、佐嘉勢を名尾峠で打ち破った神代勝利。
彼は「佐嘉は、この辺で勘弁してやるか~(*´ー`)」と思い「次、反対側へ行ってみよ~イエーイ(*´∀`)ノ」と筑前への勢力拡大を決意。
面白いのは、地名や人名で詳細だった三瀬村誌が、ここら辺りで急に当て字が増えるんです。
昔の呼び方とかじゃないです。だから調べるシオとしては特定するのに凄い時間がかかり、長い前振りになった^^;
彼は「佐嘉は、この辺で勘弁してやるか~(*´ー`)」と思い「次、反対側へ行ってみよ~イエーイ(*´∀`)ノ」と筑前への勢力拡大を決意。
その頃、筑前国荒平(安楽平)の城主・小田辺紹連の所領の者どもが徒党を組んで狼藉を働くと知らせが・・ナンタラカンタラ by三瀬村誌参照小田辺紹連って誰ですか,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!(いろいろ混ざってネ?)
面白いのは、地名や人名で詳細だった三瀬村誌が、ここら辺りで急に当て字が増えるんです。
昔の呼び方とかじゃないです。だから調べるシオとしては特定するのに凄い時間がかかり、長い前振りになった^^;
1558年当時の安楽平城主は小田部鎮元なのネー(*´・д・)(・д・`*)ネー
察するに神代側と小田部側とで国境に関して揉めたようですな( ゚Д゚)y─┛~~
神代は小田部サイドからの狼藉を口実として、小田部討伐のために山内へ合図を送った。
集まった兵らは、山伏の大弓坊&円乗坊に率いさせ、是を先陣とした。
戦国時代は兵農どころか、兵僧分離もしてない件~,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
集まった兵らは、山伏の大弓坊&円乗坊に率いさせ、是を先陣とした。
戦国時代は兵農どころか、兵僧分離もしてない件~,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
荒僧に率いられた先陣は椎原(しいば)峠から押し出し、池田口という所で布陣させた。
池田口が判りませんでした^^;
椎原峠はシオ地図には入りきれません~
鷲ケ岳城より直線距離で4km以上南西で背振山にある峠ですが、あんまり長い距離じゃないらしく、グーグルマップ検索では峠の正確な位置は出て来ません。
福岡県・峠データベースには出てま~す。
池田口が判りませんでした^^;
椎原峠はシオ地図には入りきれません~
鷲ケ岳城より直線距離で4km以上南西で背振山にある峠ですが、あんまり長い距離じゃないらしく、グーグルマップ検索では峠の正確な位置は出て来ません。
福岡県・峠データベースには出てま~す。
というのも実は、椎原峠は交通路としてより、背振山登山口コースとしての方が有名なんです。
背振山は1000m級の霊峰で、椎原峠自体も標高700m以上の位置にあり、ぶっちゃけ峠越えが既に登山,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
慣れない人は気圧の変化で耳キーーン来るぉ(´・д・`)
背振山は1000m級の霊峰で、椎原峠自体も標高700m以上の位置にあり、ぶっちゃけ峠越えが既に登山,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
慣れない人は気圧の変化で耳キーーン来るぉ(´・д・`)
旧暦で10月~11月といえば、もう背振山には初雪が降ってる時期で、当時も山頂は麗しく雪化粧だった事でしょう。
霊峰としての背振山は山岳信仰の聖地としても知られてまして、先陣を率いる二人の荒僧は修験道の為に椎原峠を幾度となく往来してたはずです。
彼等が選ばれたのは、本人の武勇とか、兵士の士気を鼓舞とか以前に「土地勘バリバリ」だったのが最大の理由だと思います。
霊峰としての背振山は山岳信仰の聖地としても知られてまして、先陣を率いる二人の荒僧は修験道の為に椎原峠を幾度となく往来してたはずです。
彼等が選ばれたのは、本人の武勇とか、兵士の士気を鼓舞とか以前に「土地勘バリバリ」だったのが最大の理由だと思います。
小田部鎮元は「神代が来るなら、コッチから討って出るべし(`・ω・´)キリッ」と3000騎(人)率いて出陣。
池田口にいる1000騎(コッチも雑兵を含んだ人数の事だと思う)の方を神代本陣と勘違いして、攻撃したんです。
池田口にいる1000騎(コッチも雑兵を含んだ人数の事だと思う)の方を神代本陣と勘違いして、攻撃したんです。
小田部が神代の旗印を知らないはずは無いので、先陣には神代本陣の旗印を持たせてたんじゃないでしょうか。
こうして神代先陣と小田部が戦いを繰り広げ乱戦~~ころあいを見た神代勝利が小田部勢後方横合いから攻撃した。
思わぬ方向から攻撃を受けた小田部勢は混乱し戦意喪失、あとはもう神代勝利の思うつぼ。
神代勢は退却しようとする小田部勢の退路を断って難所に追い込み、次々と討ち取ったそうです。
こうして神代先陣と小田部が戦いを繰り広げ乱戦~~ころあいを見た神代勝利が小田部勢後方横合いから攻撃した。
思わぬ方向から攻撃を受けた小田部勢は混乱し戦意喪失、あとはもう神代勝利の思うつぼ。
神代勢は退却しようとする小田部勢の退路を断って難所に追い込み、次々と討ち取ったそうです。
これは小田部鎮元に同情する^^;
山内周辺の峠や山間の地形を利用する布陣をさせたら、神代勝利の右に出る者はいません
退路を断たれた小田部勢は安楽平城へ帰還する事が出来ず、博多へ逃げた(早良街道使ったかな?)と三瀬村誌にありました。小田部鎮元は神代勝利に誓紙を差出し本領安堵を願い出たので、これを許した。 神代の勢いに恐れをなした原田、曲渕、大津留(大鶴宗秋の事らしい)が次々と和睦を申し出る。 神代は「和睦するなら強いて討伐する事はないだろう」と筑前退治を先延ばしにし、諸氏と和を結んだ。てな感じに三瀬村誌では記してまして、戦の経過はともかく、最後の三行が話を盛ってるとしか思えないのだが、それは・またの話 by^-^sio