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Channel: 九州戦国ブログ~室町末期から江戸初期まで~
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大河2014_裏小説【黒田家の陰謀_5・和睦の条件】

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豊臣秀吉も嫌いだが、自分は安国寺恵瓊も嫌いだ。
俗世を捨てた僧侶でありながら、俗世の権力に関わり続けた男・・・

政治オンチの毛利輝元を、利用するなんて恵瓊(えけい)が悪・・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ
すいません~~~毛利&吉川ヒイキが嵩じて恵瓊嫌いになっただけです(/▽*\)

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

「追撃しないとは合点がゆきませぬ。何か秘策でもあるのですか?」
吉川次郎五郎(後の広家~この時期は、まだ官位についてない)は黒田官兵衛に尋ねた。

豊臣秀吉の命令で、吉川軍が黒田軍の援軍として豊前入りしたのが、1587年の11月のことだ。
豊前の国人領主・城井鎮房(きのい・しげふさ)が謀反を起こした翌月です。

鬼吉川の異名をとった吉川元春が前年に病死し、嫡男も相次いで病死したため、急きょ三男だった吉川次郎五郎が家督を継いだ。
「武勇」という点では、父の盛名に引き換え地味な次郎五郎だが、決して侮れるレベルではない。

最初、城井軍の地元ならではのゲリラ戦に手を焼き、緒戦では大敗北した黒田軍。
だが吉川軍の助勢により劣勢を挽回しつつあり、この日も形勢不利と見た城井軍が撤退しはじめたので、
さらに戦果を得ようと追撃に行こうとした吉川次郎五郎を、黒田官兵衛がストップをかけたのだ。
尊敬する軍師の言葉に従った吉川次郎五郎だったが、やはり納得できず官兵衛に質問したのです。

人物・黒田如水 (黒田官兵衛~幸麿さん作画^^b)

「秘策などござらぬ」「は?」官兵衛の返答に吉川次郎五郎は混乱した。
「次郎五郎殿、他ならぬ貴殿だから打ち明け、御頼みしたい。」官兵衛は、そう言うと頭を下げた。
「?!い、いったいどうされたのです?頭を上げてくだされ。頼みとは何でござる?」吉川次郎五郎(広家)は訳が判らない。

「貴方が活躍すると、わが息子・吉兵衛(長政のことです)の失態が更に目立ち、関白殿下の不興を買いましょう。どうか、これ以上の攻撃は適当なところで抑えて頂けないか?」

黒田官兵衛は「秀吉の軍師」として活躍しただけに、当の秀吉や徳川家康にも警戒されていたが、
一個人としては面倒見の良い男だった。

家督を継いだばかりで戸惑っていた吉川次郎五郎に、領国経営のイ・ロ・ハ、を伝授したのは黒田官兵衛だったんです。
もちろん当時は政治的な意図はなく、純粋に親切心からだった。
感謝と同時に黒田官兵衛の知謀に感嘆した吉川次郎五郎は、官兵衛に頼み込んで義兄弟の杯を交わしていた。
(衆道関係では無い)
ちなみに官兵衛は、秀吉の命令で吉川広家と後に死別する正室(宇喜多秀家の姉)の婚儀媒酌人もしてます^^b
(だから関ヶ原に備えて今の内に大河に登場させておけと・・・・(._+ )☆\(-.-メ)オイオイ)

援軍に来た武将に対し「手柄を立てるな」など、余人には頼めない。
自分を師父のごとく尊敬している吉川次郎五郎だから言える。
(そのために関白殿下に援軍の人選で次郎五郎殿を指定したのだ)(-人-)☆彡~~タノムタノム

果たして吉川次郎五郎「我ら義兄弟の間柄で水臭い。そのような仔細であれば最初から言ってくだされ。吉兵衛(黒田長政のこと)殿に良きように計らいます^-^」と快諾。
==========史実への道=========
この手加減(-人-)☆彡オネガイの元ネタは黒田家譜・・・らしい^^;
自分は直接確認してないので、細かいニュアンスは違うと思います。
ホントの内容を知りたい人は黒田家譜1巻を読んでください(ちなみに福岡博物館では現在・在庫切れです)
========================
「とはいえ、このままでは戦が長引き、やはり殿下の不興を買いはしませぬか?」
と、吉川次郎五郎は尤もな疑問を官兵衛にぶつけた。

「その気遣いなれば大丈夫です。折を見て城井とは矢止め(停戦)とし、和議を結びましょう」
吉川次郎五郎は、官兵衛の庭へ散歩でも行くような軽々とした返事に、
(やはり、この方の知謀は底知れない)と、ますます尊敬の念を強めた。

一方、安国寺恵瓊(あんこくじ えけい)の生年月日は解らない。
詳細の経歴は省くが、元々は毛利家の外交僧(僧侶だけど外交官として使者・調停・仲裁役などをする)だった。
それが織田家臣時代での中国攻めがキッカケで、豊臣秀吉の知遇を得て引き立てられ、
今では毛利家だけでなく、秀吉の命令で四国や九州へと活躍の場を広げていたのである。

僧侶にしておくには惜しいほど、精悍な面構えで頭が大きく、何やら人格的な迫力オーラがある人物だった。
恵瓊が豊前入りした正確な月日は不明だが、援軍が11月なので、その後の12月ごろではないだろうか。

「では、和議の条件は城井家の本領安堵を約すことと引き換えに、兵を引き上げることと、盟約の証として城井家の姫君・鶴姫を吉兵衛(官兵衛嫡男・黒田長政のこと)殿へ輿入れすること・・・ですな」
恵瓊は黒々とした瞳を向けて官兵衛を見つめた。

「・・・吉兵衛殿は・・・確か異国の教えで「戒を授かった」と記憶してましたが・・」
僧侶の恵瓊はキリシタンの「受洗」という言葉を知らないのか、使いたくなかったのか、
仏教風に「戒を授かった(僧侶が出家するときに行う儀式)」という回りくどい言い回しをした。

黒田官兵衛の嫡男・吉兵衛長政は16歳で既に結婚(蜂須賀小六の娘・糸姫)しているからです。
キリシタンの教えでは側室を持つことは許されないはずなのだ。

「は・・息子は、まだ若いですからな。ここだけの話、、、嫁は女腹なのか娘を産んだだけで未だ男子が授かっておらず・・・」
「蜂須賀家の姫君というだけでなく、嫁入りの時に関白殿下の養女という鳴り物入りで来ましたので、側室を設けるのを遠慮しておりました。」
と、いかにも黒田の内情を話すそぶりで語ると、恵瓊は好奇心が満たされたのか「それは難儀なことでしたな・・・」とだけ答えた。

だが恵瓊は、再び口を開くと「とはいえ、この条件は城井には随分と寛大でござるなぁ」と小首を傾げた。
他に裏でもあるのではないか?という探るような恵瓊の目線に、
(このク○坊主が・・・あれこれ詮索せずに、関白の命令通りに動けば良いのだ)と、官兵衛はイラ立つ心を抑えた。

城井軍は予想以上に強く、謀反の鎮圧は容易では無い。
非常手段をとる決意はしたものの、あまりにも外聞が悪いので出来ることなら世間に知られぬようにしたいのだ。
(そのためには、この詮索好きで智慧誇りの坊主を上手く利用せねばならぬ)

「いかにも、恵瓊殿の言われる通りでござる。関白殿下の許可は頂いたものの、これでは他の国人衆へ示しがつきませぬ」
「そこで、この条件に更にワシの案を追加したいのです」
「ほぉ・・どのような?」恵瓊は面白くなってきた・・・と、言わんばかしりに瞳を輝かせた。

「城井家の嫡男・朝房(ともふさ)殿に肥後の一揆鎮圧のために働いて頂くこと・・・を付け加えたい」
「なるほど・・・ 肥後の一揆も関白殿下の仕置きに不満ある者の仕業・・・その鎮圧に同じ動機で謀反を起こした城井を働かせることで、関白殿下への忠義を押し計ろう、というのでござるな」
「さて、その追加条件の扱いは、どのように?」と恵瓊は情景を想像したのか、ペロリと舌なめずりした。

「それはもう、恵瓊殿に全て一任いたす」と官兵衛が言うと、恵瓊は喜色を浮かべた。
(他人を操り動かすことに快感を覚えるのであろうか・・・この僧侶の智慧が恵瓊本人の身を滅ぼすのではないか・・)

ふと思った官兵衛だが、すぐに打ち消した。
いまは城井を倒すことだけ考えなければならない。
関白殿下の方針は、逆らう国人たちを全て潰すことなのだ。
気の毒だが黒田家と城井家との共存は不可能なのだ。

1587年12月3日~奥州へ惣無事令が発布された。
そして関白・豊臣秀吉は朝廷へ「肥後一揆鎮圧」を言上した。

実際には残党は活動を続けて完全鎮圧にはいたっていないが、
豊臣政権の威信に傷つくのを恐れた秀吉が、「鎮圧報告をしてしまったのだ。
黒田家は、ますます城井家に手こずっていることを世間に知られるわけには行かなくなった。
外部に漏れたら「秀吉の権威」に傷がつき、黒田へどのような処分が下るか解らない。

一方、城井家の方も肥後一揆が鎮圧されてしまえば、単独で戦うことは出来ない。
九州征伐や肥後一揆での大軍が、城井郡に襲来してくれば本当に滅びてしまう。
城井家は恵瓊の申し出を受けて、黒田家と和睦した。
それが城井家抹殺のためのワナになることなど、むろん知る由もないのだが、それは・またの話 by^-^sio

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