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橘朝臣幸麿さま作画・相良義陽イメージ画像
≪はじめに≫
本業(肥前史研究)とは違い歴史記事の資料等は他力本願で提供受けてます。
(本業の方も入手には、ご協力をいただいてます^^;)
ですから記事にした以上の事は、シオ自身にも判らないので、その辺はお含みおきくださいm(__)m
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出典元:
相良サイド---八代日記(一次史料)、南藤曼綿録(二次史料)
島津サイド---本藩人物志(二次史料)
他参照文献があれば、都度明記します。
なお、島津氏の女性については、相互リンクしているサイト『戦国島津の女達』を参照しております。
※サイト管理人は在野で島津氏の女性史の(一門全般を網羅)研究されている方です。
※データスペックは歴史家の某作家が自身のブログで島津女性を記事にする際に参照するほどです。
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≪記事内ルール≫
青文字⇒⇒史料&文献参照
緑文字⇒⇒補足&解説となる部分
他文字⇒⇒分析・推測・・つまりIFバナなので、苦手な方はスルーで^^;
本来であれば論証できないIFバナをダダ漏れするのは、歴史記事においてはNGなんですが、
ここは研究内容とは別の趣味だって事と、
自分が記事にしながらでないと脳内整理出来ないオバカなんで御勘弁下さい。
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1564年という年は、義陽の運命に関わる4つの大きな出来事が、同時進行で交錯している複雑な年です。
1)島津+北郷+相良が支援していた北原家の没落(+今城の落城)
北原だけでは飯野(つまり真幸院)を守れない~ってことで、同年11月7日に島津義弘が飯野城入り。
義弘の御膝元・加治木町の伝承だと、義弘の2度目の正室・熊御前(相良義陽の異母妹・亀徳姫)は、この時身籠っていたという。
不憫に思った義弘が人吉へ返さず加治木に住まわせた・・・というのだ。
最初の正室・北郷氏の姫様が生んだのが「お屋地姫」で、2度目の正室・熊御前が生んだのが「鶴寿丸(10歳前に早逝)」
どちらも3度目の妻・宰相殿が引き取り養育した・・・
無論、そのような記述は相良側にも島津側史料にもなく完全な伝承です。
長女の生母が最初の妻なのはホントだけど宰相殿は養育しなくて生母実家の北郷家で養育されてました。( ̄ko ̄)
ちなみに亀徳姫が熊御前という由来は、球磨(熊)から嫁いだ姫だからだそうな^^;
でも読みから熊の文字をあてるのは褒めてるんだろうか・・・(-ω-;)ウーン
上記参照サイト(元出典:「島津氏正統系図」)によると鶴寿丸の生母は宰相殿で1569年に出産してますので、
亀徳姫はMAXでも1568年には離別され人吉に出戻ってた事になります。
実際の亀徳姫は相良家へ戻った後に再婚しています。
2)義陽が島津から伊東へ寝返ったために、島津との同盟破たん~島津は大口城攻撃を始める
3)宇土名和家の内輪もめに乗じて、相良義陽が豊福城攻略を始める
相良だけでなく名和も普段から名代として阿蘇家を立てていたので、義陽は宇土名和家と交戦するにあたり、仁義切った
(具体的には阿蘇氏筆頭家老・甲斐宗運へ軍事協力)
義陽は阿蘇家筆頭家老の甲斐宗運と初会見し、相互不可侵の盟約を結びます。
4)足利将軍家からの偏諱と官位ゲッツです

今まで義陽・義陽と気安く書いてますが、実は1564年までは「義陽」ではなく「頼房」なんです^^;
便宜上、義陽と呼んでた理由は、
1)義陽の呼称が一番知名度があって読む人が判りやすい
2)義陽の次当主も初名が頼房なので、頼房(息子の方)編に入った時にややこしいから^^;
3)自分は相良氏当主のうち、武断派武将・相良頼房(義陽次男・初代人吉藩主)が一番好き(←マニアック)なので、頼房の諱を父といえど他の人物で呼びたくな・・ピーーー以下自粛。
ちなみに本来なら諱呼びするのも時代考証的にはNGなんですが、いちいち解説する煩雑さがシンドイのと趣味の郷土史紹介なんで御勘弁を^^;
あと史料上で諱しか判んなかったり、逆に通称しか判らない武将がいたりするから、厳密にするのって結構難しいのよネー(*´・д・)(・д・`*)ネー
さらなる蛇足になるけど、義陽の読み方も特定されてません^^;
可能性として「よし_ひ」と「よし_はる」の二通りなんですが、個人的には「よしひ」って呼び方が(・∀・)好き!
アカン、萌えモードになると脱線する~~~話の流れを戻すと
1564年2月~細川藤孝から相良義陽(この時は頼房)へ官途状が発給される
官途状とは室町将軍の大盤振る舞いで「官位や受領名の私称を許す」というものです。
てことで、ここで一時STOP~アタヽ(´Д`ヽ ミ ノ´Д`)ノフタ アタヽ(´Д`ヽ ミ ノ´Д`)ノフタ
ちょっと古文書学知識を仕入れて来ますので、それは・またの話 by^-^sio