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Channel: 九州戦国ブログ~室町末期から江戸初期まで~
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相良義陽_51【相良と菱刈と薩州家と その8】

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≪はじめに≫
自分の本業研究は「肥前史」で、歴史記事は趣味で紹介しております。
肥前史以外の資料は所蔵していないので、記載している出典元は基本として自分では未確認です。
ですから、あくまでも「こういう見方もあるんだ~」という程度の「読み物」としてお楽しみ下さい^-^
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≪記事内ルール≫
年号は旧暦対応表記です
青文字⇒⇒一次or二次史料などの元出典があるもの
緑文字⇒⇒三次史料や補足&解説となる部分
他文字⇒⇒分析・推測・・つまりIFバナなので、苦手な方はスルーで^^;
その他の出典&参照元⇒⇒必要に応じて都度明記
※何処までが確認がとれたデータか、孫引きデータなのかは、極力明記します( ̄ω ̄A;アセアセ
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大正期発刊の三次資料「北伊佐史」によると、
菱刈重時次女・土用松が大口城主・島津忠明に嫁いだのは、相良と菱刈の離間策だと記載しています。

このあたり、どうも編者の主観が入ってるみたいです^^;
だって、北伊佐史の記述に倣うなら、「相良に嫁いだ三女の婚儀」が「次女の婚儀」より先になっちゃいます。

むろん、妹が先に次々嫁いだ淀殿(茶々)や、姉・千姫より先に3歳で前田家に嫁いだ珠姫の例もあるように、政略結婚は必ずしも上の姫からとは限りません。

ただ、「菱刈系図より」と記してるわりに「北伊佐史」には

年度不明---相良氏16代目・義滋の娘~菱刈重任(14代重州の兄弟)に嫁ぐ
年度不明---菱刈重州(14代当主)の妹~~相良長時(16代義滋の従兄弟)に嫁ぐ

このデータが抜けてるので、どうも「編者が自分の好み?でデータの取捨選択してる」ようです。
で、大口城攻略が萌えツボだったらしく、詳しい(*´pq`)

さて、相良氏の内訌が一息ついたのは、享禄2(1529)年の7月
約半年かけて謀反側の城を落としたの^^/

島津忠明妻・土用松の甥にあたる14代目・菱刈重州が動いたのは、同年の9月3日。
忠明の息子・次郎四郎明久が羽月大島という地で鷹狩をしてたところを襲い討ち取った。
この時、明久は16歳だったそうで、北伊佐史では菱刈重州を従兄弟・・・
つまり明久生母を菱刈土用松という解釈で記述してます。

実のところ、文献上では島津次郎四郎明久の生母は不明なんです。
同じく菱刈系図を参照しているサイト「戦国島津の女達」には記載がない
伊佐市文化財には大瑞院跡(島津出羽守忠明墓)と菱刈氏歴代の墓があるんで、編者が墓碑を確認して拾ったデータかもです。

北伊佐史によると宮原十郎兵衛という島津家臣が、討ち取られた明久少年の首を奪い返した際に菱刈兵に追い付かれ戦死したとあります。
忠義の家臣の墓は『島津出羽守忠明の隣にあり』とし、編者が記録した大正期までは宮原家子孫は健在で大口に住していたようです。(取材したらしき大正期当主の名前がバッチリ記載してる)

墓碑や墓石は今も昔も基本として個人情報扱いなんで、研究者であっても他県在住者が文献のみで辿り着くのは困難なデータです。
こればっかりは現地取材でしか掘り起こせないのよネー(*´・д・)(・д・`*)ネー

「北伊佐史」編者は現地における大正期の在野郷土史家でして、他にも通史として「菱刈史」を編纂されています。
「北伊佐史」で端折ったデータは、通史である「菱刈史」には記載するという感じで「データの使い分け」してるんです。
ですから「北伊佐史」で感じた「編者の主観」というのが取材した家臣子孫に伝わってた伝承に基づいてる可能性もあります

享禄3(1530)年の7月27日、相良&菱刈の連合軍が大口城を襲った。
大口城外の諏訪神社祭礼の時に、参拝者にまぎれこんだ敵兵のため城は焼かれ、城主・忠明も自害した。
一族ことごとく戦死したそうですが、その時に菱刈土用松が助け出されたのか、共に自害したかは不明です。
「北伊佐史」によると、鹿児島に急を知らせる為に忠明の弟・播磨守は大口を脱したとあるんですが、弟のその後が書いてなくてワカラン^^;

島津分家・羽州家では、明久16歳を四代目とカウントし、ここで嫡流は断絶するんですが、忠明娘が生んだ男子が島津義久の命で家督と継ぎ「大島家」として家名存続します。
島津貴久は、島津忠明を祭神とし西原八幡神社を建立しています。
天正13年になってから、瑞兆ありとして島津義久が新納忠元に命じて、明久を戦死した羽月大島に若宮神社として祭ったそうです。

くどいようだが、享禄3(1530)は、一息ついたとはいえ相良は内訌で疲弊していたので、菱刈+相良の連合といっても主力は菱刈勢だったはずです。
なぜなら落城したあとの大口城は、菱刈が入ってたから。

ところがです。

20数年後・・・相良義陽の頃には、再び大口城は島津宗家に帰属していたのだが、それは・またの話 by^-^sio

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