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Channel: 九州戦国ブログ~室町末期から江戸初期まで~
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【讒言の報酬・前篇】龍造寺隆信「覇」の巻24

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巻頭を飾るフラッシュは南洲さまから頂きました~ゎーィ♪ヽ(*´∀`)ノ


1558年が濃いです。(-ω-;)ウーン
というのも、いよいよ(今度こそ)少弐氏滅亡のカウントダウンが始まってるからなんです。
(以下、緑枠文字は北肥戦誌より抜粋)

10月16日、名尾峠で神代勝利に敗北した為、山内への手出しが難しくなった龍造寺隆信。
11月上旬、隆信は重臣らを集め、江上・神代の威を挫く為にも少弐を攻め潰すべく、勢福寺城攻めの用意をすべしと述べた。
江上・神代を倒すために少弐を攻めるって、少弐は肴のツマミですか,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
まぁ、彼らに大義名分を与えているのは「少弐の御家再興」ですから、元を断つって意味では正解です。

少弐を倒すって事は「主殺し」になります。
僧侶出身で教養ある肥前の熊は、そのあたりで躊躇してたんじゃないでしょうか。
龍造寺隆信は、後に与賀における少弐の痕跡を消してます。
つまり「後世から、どう見られるか」って事に対し、同時代・同世代人より敏感だったのでしょう。
隆信は少弐を潰すといいつつ、江上武種が守る勢福寺城を先に攻める事にした。

http://blog-imgs-47.fc2.com/s/i/o/siori20120901/2013020919445960e.jpg
隔して隆信は佐嘉の城を出陣、姉川弾正忠の城を本陣とした。
書ききれなかった姉川さんの姉川城は、勢福寺城のちょっぴり下流にある城です。
位置的に勢福寺城からみの戦では「必ず巻き込まれる」運命にあります(-人-)☆彡気の毒・・・
蓮池の小田政光、蒲田・崎村の犬塚鎮家・犬塚左馬大夫も出陣する。
犬塚は直鳥と西と東の三犬塚があるんですが、割愛します(-人-)☆彡チョット区別ガ、、、ゴメンナサイ
蓮池の肥前小田氏・・・龍造寺に散々敵対してたんですが、和睦して今は龍造寺サイド。
サイト武家家伝だと小田政光の妻が、龍造寺隆信の妻と姉妹~~とあったんですが、他では見当たらないので未確認です。
佐嘉勢の動きを知った江上武種は、山内の神代勝利に援軍を乞い、11月9日に神代は手勢を連れて勢福寺城に入ります。
城兵は二手に分かれ、山内・城原勢3000は牟田を、もう一手の2000余騎は神埼口を固める。
そんなに籠れるような規模の城だったか?,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
兵数盛り感はさておき、牟田口と神崎口が何処を指すのかイマイチ判らん。
とにかく現在の神埼市内で姉川~本告牟田の近所っぽい。
11月10日の朝、小田勢3000余騎に神埼の本告頼景が先陣として加わった軍勢は西の牟田口より、
犬塚の一族は蒲田・崎村勢1500余騎で東の神埼口より攻めた。
が、小田の先陣は討ち負け崩れかかる。
政光は隆信へ救援を求め使者を派したが、隆信は姉川城から一切動かない。
隆信本陣の姉川城は、神埼市神埼町姉川下分にあります。
小田政光が進んだ牟田口が、本告牟田方向を指すなら1km弱しか離れてません。
見晴しの良いところなので、先陣の小田がピンチなのは判ってたはずです。
その気になれば、じゅうぶん援軍が間に合う位置にいながら、隆信は動きませんでした。

援軍が来ない事に憤激した小田政光は「討死したるわ!!(# ゚Д゚)・;'.」と死に物狂いで打ちかかった

牟田口の小田と相対するのは神代勝利・山内勢と江上・城原勢。
小田は刀剣・槍の達人で、それが物凄い勢いで大暴れするものだから、さしもの神代と江上も手こずった。
「こりゃアカン、恰好良く討ち取るなんて無理!このままじゃ近づけない~弓だ!遠当てに狙うべし」

小田政光は四方から弓を射かけられ、それが当たり落馬。
政光は首を討ち取られたが、それを小田家臣が奪い返す!

・・・・血まみれで生首の獲り合い・・・怖いよ~(((((( ;゚Д゚)))))ガクガクブルブル
蓮池勢は政光の死を知り、敵陣へ駆け入り政光家臣60余人が討ち死にを遂げる。
犬塚勢も敗戦し退却した。
龍造寺隆信が動いたのは先陣が敗れてからだったのだが、それは・またの話 by^-^sio

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