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Channel: 九州戦国ブログ~室町末期から江戸初期まで~
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【讒言の報酬・後篇】龍造寺隆信「覇」の巻26

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言い方を変えますね。

降伏した元敵将を先陣に使うのは、戦国時代では一般的に行われていたことです

新参者である元敵将は、先陣というハイリスクな持ち場を請け負う事で、新たな主君への忠誠の証とするんです。

その普通の事を龍造寺隆信が行うと、何故か「昔の事を根に持って報復した」とか「神代たちと噛みあわせて互いの勢力減退の為に潰しあいさせた」などと悪い方に解釈されます( ̄ω ̄A;アセアセ
龍造寺隆信の残忍・残酷という刷り込まれたイメージが余りにも先行しています。

今回の場合、重大な失態を犯したのは小田政光の方なんです

元敵将で新参の身でありながら「援軍を求める」とは、一体全体どういうつもりなんでしょうか。
同じ元少弐サイドの武将で先陣として従軍してた者の中で、ピンチでも援軍を~だなんて泣きつく武将は一人もいませんでしたよ。
小田の援軍要請は、配下としてヤル気を疑われるか、寝返りを疑われるレベルの大失態です。

ベテランだった小田は戦況を判断した上での援軍要請だったのかもしれません。
でも、それには余程の信頼関係がなければ受け入れてはもらえないです。
逆切れした小田が討死しましたが、援軍要請だなんて失態してなければ、他の武将のように普通に撤退出来たんです^^;
結果として捨て殺しになっちゃいましたが、その場にいた龍造寺勢は「タイミングの悪い奴や・・・」とか「空気嫁よ(´・д・`)」って感じで「仕方なかった」と感じたはずですよ。

http://blog-imgs-47.fc2.com/s/i/o/siori20120901/2013020919445960e.jpg
(すいません~小田の蓮池を蒲池と書き間違えてます・汗)

先陣が敗れたのを知った隆信は改めて大軍を率い、太鼓を早めながら城へと押し寄せた。
これには敵うまじと、江上は田手の日吉城へ引き籠り、神代は横大路を西へ、川窪へ廻って山内に帰還した。
(緑枠文字は北肥戦誌より引用)

両者とも素晴らしい逃げっぷりですな ( ゚Д゚)y─┛~~

江上がヒッキーした田手の日吉城というのが判りませんでした。
田手川自体は筑後川からの支流で地図には書いてないけど、神埼市内を流れてます。
(地図を作画した時は、田手がチョイチョイ出ると思ってなかった^^;)
田手川流域、現在は吉野ケ里遺跡~弥生人村の方が有名ですね^-^
神代の山内へ帰還した時に廻ったという川窪は、大和町川久保の事だと思います。神埼市の近所ですから。
隆信勢は勢福寺城を取り囲むが、残る城兵らの防戦により、数日城を囲み続けた。
北肥戦誌に記述はないんですが、どうも、この時、少弐冬尚は勢福寺城内に在城してたみたいなんです。
隆信は城を囲みつつ軍勢を分けて、15日に蓮池城を攻めさせた。
冒頭にあげたように、小田政光自身の失態が招いた事とはいえ、結果としては「捨て殺し」になってしまったので、小田氏では絶対に逆恨みするだろ~という見方が働いたからです。
不意を突かれた城兵は取り乱すが、政光家臣・深町入道理忠が防戦に努め、その間に政光の子小田鎮光・小田朝光・小田増光、その他の者達は城を脱出し筑後国は三瀦郡へ逃れる。


作画は橘朝臣幸麿さま、フラッシュ作成は南洲さまです~ゎーィ♪ヽ(*´∀`)ノ

蓮池城に残り防戦した深町理忠は、奮戦の末に討ち死にしました。
深町は、かつて隆信が当主の座を追われ筑後に亡命する羽目になった折、「自分の命と引き換えに・・」と隆信の身柄の安全を保証してくれた信義と忠義に篤い恩人でした。
深町の死を惜しんだ隆信は、深町の遺児に100町を与え「深町理」と名乗らせ取り立ててます。
小田政光の父・覚泒(資光)は蓮池城とは別の場所に居り、軍勢が去った後に政光父子の顛末を聞き、大いに憤激・悔恨したが、主従二人となり力及ばず、城の西にある蔵屋敷にて自害した。
一人従った従者は遺体を隠すと、その屋敷に火を掛けてから自害した。
主従二人となり・・・文学的表現ではなく、リアル実数で二人ボッチになったようです( ̄ω ̄A;アセアセ
戦に負けるって、現実はシュールです・・・( ̄ω ̄A;アセアセ

逃げた政光の子等ですが、後に許され隆信に仕えています。
残酷だ~とか、残忍だ~とか、いっつも言われる肥前の熊さんですが、むやみやたらに攻め滅ぼしてる訳じゃないんです。
そこんとこ認めてあげたって(´・д・`)

しかし、この小田氏とは様々な因縁が重なったために、どうしてもギクシャクしたままだったようです。
小田氏の方では「かつて少弐家臣時代は同格の間柄だった」という意識が抜けなかったんじゃないでしょうか。
また、小田氏自身が「少弐に讒言した過去を龍造寺が根に持ってるはず」という被害者意識があったかも。

小田を見てると国人領主が家臣化する事の難しさを感じます。
同じ国人でも石井氏や鍋島氏のように、龍造寺草創期に配下になったものは家臣化へのスライドが自然の成り行きで出来てます。

タイミングとボタンの掛け違いが、そのまま尾を引いた後味の悪さ・・・
なまじ一定の勢力を持っていたために肥前小田氏は、龍造寺氏の家臣には成りきれなかったのでしょう。
小田氏は嫡流は絶えますが、後に佐賀藩士として傍系が家名を残すのだが、それは・またの話 by^-^sio

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