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相良義陽_44【相良と菱刈と薩州家と その12】

まだ終わってなかったの?
なんて言っちゃ・・・・ダメよ~DAME♪DAME♪
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≪はじめに≫
自分の本業研究は「肥前史」で、歴史記事は趣味で紹介しております。
肥前史以外の資料は所蔵していないので、記載している出典元は基本として自分では未確認です。
ですから、あくまでも「こういう見方もあるんだ~」という程度の「読み物」としてお楽しみ下さい^-^
≪記事内ルール≫
年号は旧暦対応です
青文字⇒⇒一次or二次史料などの元出典があるもの
緑文字⇒⇒三次史料や補足&解説となる部分
他文字⇒⇒分析・推測・・つまりIFバナなので、苦手な方はスルーで^^;
その他の出典&参照元⇒⇒必要に応じて都度明記
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イメージ 1

シリーズ11の最後で「重久死去で縁戚関係といっても縁が薄くなってる」と書いたけど、薩州家も同じことを思ったらしい。
新たに薩州家から姫君が菱刈氏へ嫁いでいます。

祁答院氏に嫁いだ虎姫の姉姫で、島津実久の長女です。
嫁いだ相手は菱刈氏15代目の重猛なんですが、、、年度が・・・これまた不明^^;
ちなみに重猛の父で14代目・重州は、島津実久からみて従兄弟にあたります。

自分が重久死去に伴う関係強化のテコ入れと思う根拠は、重久死去時点で実久が数え25歳なので、長女が誕生していたとしても推定で10歳に満たない幼さだからです。
実久長女が嫡男・重広を生むのは逆算推定で永禄5(1562)なのですが、彼女の生没年は不明です。

嫡男誕生は目出度い・・・・が、菱刈氏にとって薩州家との縁組は既に政治的なメリットは無くなってました。
理由は簡単で、薩州家が島津宗家(=伊作)に降伏帰順したからです。

大隅国衆である蒲生氏を倒し(弘治2・1556年)、西大隅を手中にした島津宗家・貴久ですが、菱刈氏は帰順を拒み尚も抵抗を続けていました。
菱刈氏の抵抗を可能にしたものこそ、相良氏との被官関係です。
ちなみに相良義陽が島津との盟約を裏切り、日向・伊東と組んだのが永禄6年(1563年)で、この間も菱刈氏は島津氏に対し抵抗を続けています。

日向での相良義陽の裏切りがなくとも、相良氏の被官である菱刈氏が島津氏に対し抵抗し続けているので、いずれは大口領の領有問題で相良と島津が対立したでしょう。

本来であれば菱刈氏と薩州家の縁戚関係が、外交ルートとして機能しているべきなのですが、シリーズ11末尾に記したように薩州家との間に潜在的なトラブル要因が起きてしまい「万が一の交渉ルート」として使えなくなったんです( ̄ω ̄A;アセアセ

その潜在的なトラブル・・・・というのが、▲・×・▲彡ワンコが原因で交戦状態になった薩州家と東郷氏です。
東郷家では男子がおらず、菱刈氏から養子を迎えていました。
(※政情から推測するに、養子縁組を通じた同盟だったかも)
薩州家6代目・義虎と揉めたのは東郷氏15代目なのですが、対立は東郷氏16代目・重尚(別名、重綱で菱刈重州三男)まで持ち越されました。

渋谷氏編で紹介したように、東郷エリアを薩州家は|湯田に高城|_ ̄)じぃー 窺ってたことがあり、東郷としては心を許せる状態じゃありません。
いま抵抗を止めて島津宗家に帰順したら、宗家の姫君(御平)を正室に迎えている薩州家・義虎に、東郷エリア領有に関する便宜を図りかねない。
(実際、降伏後の東郷エリアは薩州家に付与された)

東郷氏は同じく島津氏に抵抗を続けている縁戚の菱刈氏・・・ひいては その上位者である相良家との関係強化を思い立った。
弘治2年(1556年)7月、16代目・東郷重尚(重綱)より、相良氏へ婚姻の申し出あったのだが、それは・またの話 by^-^sio

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