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≪はじめに≫
自分の本業研究は「肥前史」で、歴史記事は趣味で紹介しております。
肥前史以外の資料は所蔵していないので、記載している出典元は基本として自分では未確認です。
ですから、あくまでも「こういう見方もあるんだ~」という程度の「読み物」としてお楽しみ下さい^-^
≪記事内ルール≫
年号⇒⇒⇒旧暦対応
青文字⇒⇒一次or二次史料などの元出典があるもの
緑文字⇒⇒三次史料や補足&解説となる部分
他文字⇒⇒分析・推測・・つまりIFバナなので、苦手な方はスルーで^^;
その他の出典&参照元⇒⇒必要に応じて都度明記

弘治2年(1556年)7月、16代目・東郷重尚(重綱)より、相良氏へ婚姻の申し出があり、相良家では了承しました。
球磨郡誌によると、相良義陽と東郷重尚(重綱)な大口城で会見したとあるんですが~~
他の史料で見たことないんで確信ない・・・^^;
だって未だ養父で15代目の東郷重治が健在だった頃だもんネー(*´・д・)(・д・`*)ネー
まぁ、東郷サイドからのアプローチは、菱刈氏が大口城をゲットして相良氏に大口を献上した後って事なんだ~~と思います^^;
で、肝心の結婚が数年後になりました。(正確な時期不明)
多分・・・なんですが相良家が「それどころじゃない」+「東郷重尚(重綱)の実家である菱刈と相良の関係が悪化」したからだと思います。
それが弘治3年(1557年)に起きた叔父の謀反です。
ついでに言うと同年に球磨地方最大の内乱である「獺野原(うそのばる)の戦い」もある
んで、更に合間に「凶星、ほうき星デタァ━━━━ヽ(´Д` ;)ノ━━━━ッ★」ってことで、義陽自身の婚儀も延期してます。
うん、こりゃ、東郷との婚儀が延期も同じ理由でしょうな ( ゚Д゚)y─┛~~
(縁起悪いって当主本人の結婚が延期してるのに、一族の姫様が嫁げるはずがない^^;)
で、相良義陽の実叔父である上村三兄弟の謀反に菱刈重任が加担してたんです。
菱刈重任は、弘治2年(1556年)の大口城ゲットの際にメインで貢献した武将で、16代目・相良義滋娘・千代鶴を妻に迎えていました。
と、言う事で南九州部門エントリ~の、縁戚関係を系図にすると以下の通りです。
はい(*´∀`)ノドン「島津宗家(緑枠)と伊作家(紫枠)と薩州家(茶枠)」
んで、ほい (*´∀`)ノドン「相良(緑)と菱刈(茶)と薩州家(紫)と東郷(二重枠)・四氏縁戚系図」
この二つを一つの系図にまとめる脳はシオにありません^^;
入来院の時に書いたけど、敵よりも昨日までの同盟関係の方が被官化は難しいんです。
大口を相良に献上し幕下に入った菱刈氏。
うまく行ったかのように見えたけれど、菱刈内部では被官化に不服な勢力があったのでしょう。
少なくとも功労者で相良氏16代目当主の姫様が正室の菱刈重任は、代替わりで若年が当主の相良氏にとって『自分は準一門』くらいの大物感覚で、被官になるとは思ってなさそう^^;
ほんと~に、大隅国も薩摩国も国衆の扱いが厄介ですわ~~~ヽ(*´Д`)ノ
謀反は鎮圧され菱刈重任も戦死するんですが、拗れた菱刈との関係が戻らず菱刈氏により水俣城が奪われてしまう(←永禄5・1559年)
ちょっと、このあたり『島津宗家VS渋谷一族(東郷含む)+大隅国衆(菱刈含む)』との闘いが、どこまで相良領を侵した菱刈の動きと連動しているのか判りかねます( ̄ω ̄A;アセアセ
永禄3(1560)年、水俣城は天草衆の仲介で菱刈氏から相良氏の元へ返還され、同年の11月28日に延期になってた義陽の婚儀が行われます。
東郷重尚(重綱)と義陽の先々代・義滋の娘が婚儀をするとしたら、準備もあるし義陽の婚儀の後じゃないでしょうか?^^
東郷氏は既に薩州家・島津義虎と交戦状態にあり、島津宗家に匹敵する戦国大名の後ろ盾を必要としてました。
それは菱刈も同じです。
だんだんと島津宗家に押されてて、宗家に抵抗しつつ大口領を菱刈単独で維持するのは難しかったのでしょう。
始まりは島津との盟約を破った相良義陽の裏切りなのですが、相良と菱刈と薩州家と・・・根底には複雑な背景を抱えていたんです。
更に薩摩国衆・渋谷一族も含み、
歴史は『島津宗家VS相良義陽』と大きく動き始めます。
相良と菱刈と薩州家とシリーズ完~本編に戻ります~それは・またの話 by^-^sio