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相良義陽_46【薩州家・島津義虎の相良エリア・長島侵攻_前編】

多忙で寝不足が続いてます~~訪問・コメントが遅れますが御容赦下さいませm(__)m
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≪はじめに≫
自分の本業研究は「肥前史」で、歴史記事は趣味で紹介しております。
肥前史以外の資料は所蔵していないので、記載している出典元は基本として自分では未確認です。
≪記事内ルール≫
年号は旧暦対応表記
青文字⇒⇒一次or二次史料などの元出典があるもの
緑文字⇒⇒三次史料や補足&解説となる部分

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イメージ 1
「今までは、このための前振りかよ」とか「義虎萌えなのは判ったから!タイトルがくどい」とか言っちゃ・・・
ダメよ~DAME♪DAME♪ 川* ̄д ̄*川ポッ 

これだけアチコチのカテゴリで書いてるのに、記事に盛り込むのを忘れてのが(まだ)有った( ゚д゚)ンマッ!!

島津義虎は生涯で二度、足利将軍家から偏諱(へんき=一文字拝領)を受けています。
一度目の偏諱を受けたのが足利義晴(剣豪将軍のパパ)で、その時の名乗りが義虎の初名(はつな)です。
初名は文字通り初めての諱ですので、元服と共に名乗ります。
年代はハッキリしてませんが、足利義晴が天文19(1550)年5月に亡くなってるので、その前・・・
なんだけど、この将軍様が度々都落ちしてるんで義虎の偏諱時期が特定できません^^;
武家男子の元服だからして、義虎が13歳~15歳の間でしょう。

当然ながら島津宗家(=中身は伊作島津氏)に逆らい降伏した父・島津実久が存命というか現役。
足利将軍家からの偏諱は、パパ実久が京都中央政界にコネクションがあり、様々手配したのでしょう。
偏諱には御礼がつきもの(相場があったらしい)で、将軍本人は無論のこと取次した方々にも金品付け届けを用意しなければなりません。
てことで、島津宗家に帰順以降も将軍家からダイレクトに偏諱を受けるだけの、隠然たる勢力を薩州家は保持してた事になります。

それと薩州家が足利将軍家から偏諱を受けたのは義虎の代だけでして、薩州家が義虎の代で最盛期を迎えたことの証左でもあります^-^
更にいうと、室町期~戦国期(豊臣政権誕生前)にかけて、数ある島津氏分家の中で
足利将軍家から偏諱を受けたのは義虎ただ一人でして、
全盛期の薩州家が島津宗家に匹敵する勢力があったことを窺わせます。
'`ァ'`ァ'`ァ(;´Д`)'`ァ'`ァ'`・・萌えすぎて、息切れが・・ゲフゴホッ
この大物すぎる分家・薩州家との関係強化のために、島津義久の長女・御平が義虎の元へ嫁ぎます^-^
ちなみに年齢差15歳~初々しい10代花盛りの新妻に義虎がウホっ・・・・(._+ )☆\(-.-メ)ヤメンカ!

2度目の偏諱が永禄6(1563)年、27歳の時~上洛して足利義輝に拝謁&偏諱を受けて「義」の文字を拝領し、「義俊」⇒「義虎」へと改名します。(偏諱を受けた意図は不明)
義虎の嫡男誕生は永禄8(1565)年なので、島津宗家との縁組は偏諱後っぽい。

くどいようだが薩摩国衆・渋谷一族は東郷氏とは、交戦状態です。▲・×・▲彡
実は・・・弘治3(1557)年、東郷重治と阿久根大川で戦い島津義虎側が敗れてます^^;
渋谷ファミリア♪は、宗家に帰順した今となっては薩州家と島津宗家、双方にとって共通の敵となったんです。

で、同時進行で
永禄6(1563)年の相良義陽の裏切りで、
永禄7(1564)年から島津氏と相良氏は交戦状態に突入。
四方八方に敵がいる島津宗家は手が回らない~~~~ヒーーアタヽ(´Д`ヽ ミ ノ´Д`)ノフタ
えっと~~~日向は次男の義弘~~ガン( ゜д゜)ガレ

島津義虎の天草地方・長島侵攻は、そんな混沌とした政情の永禄8(1565)年に起きたのだが、それは・またの話 by^-^sio

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