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≪はじめに≫
自分の本業研究は「肥前史」で、歴史記事は趣味で紹介しております。
肥前史以外の資料は所蔵していないので、記載している出典元は基本として自分では未確認です。
≪記事内ルール≫
年号⇒⇒⇒旧暦対応
青系文字⇒⇒一次or二次史料などの元出典があるもの
緑系文字⇒⇒三次史料や補足&解説となる部分
他の文字⇒⇒分析・推測・・つまりIFバナなので、苦手な方はスルーで^^;

島津義弘公は帷幕の中で床几に腰掛ける殿さまタイプではなく、
自ら刀を振るって戦陣を切り開く猛将タイプです。
従って、先鋒とか先陣とかとか、最前線に一軍の大将がウロウロしてる,;.:゙:..:;゙:.:: (゚∀゚ゞ)ブハッ!
敵も大将とまで気づいてなくとも、兜首だから狙う訳でして結果、義弘公は幾つかの戦場で負傷してます^^;
激戦で義弘公が無傷の時は、家臣の誰かが身代わりに・・・(._+ )☆\(-.-メ)ダマリナサイ
永禄9(1566)年10月26日、伊東の小林城攻略に失敗~
敗北した島津勢と負傷兵リスト入りした義弘公。
激戦だったので敗れた島津だけでなく、伊東側も損耗が相当激しかったらしい。
永禄10(1567)年初春に、両軍は一時休戦しています。
ただし休戦は真幸院(えびの市)の方だけでだったらしく、飫肥城では交戦状態が続行してました。
個人的には永禄9年9月にあった霧島山・御鉢の噴火が影響したんじゃないかな~~と推測してました。
んっと~~~文章で説明するより、ここは地図の出番ですな( ゚Д゚)y─┛~~
今回はズル?してフリーソフトの日本地図ダウンロード加工(*´pq`)
見やすさ優先の文字サイズなんで、位置関係は若干違うかも~~御当地の方、御勘弁くださいm(__)m
茶色でグリグリ~っと●してるのが霧島山。
で、前回書いたように真幸院と小林が霧島山の半径20kmちょい圏内に対して、離れてる飫肥は多分だけど安全圏。
ちなみに飫肥は現在の日南市~日南海岸の日南市です^^/
(伊東の本拠地は宮崎市~)
永禄11年(1568)1月12日、伊東義祐が自ら二万の兵を率いて出陣、島津忠親(豊州家)の拠る飫肥城を囲む。
ここから飫肥城は5か月に及ぶ篭城戦突入!
兵糧攻めにあった豊州家は踏ん張り続けたんですが、いかんせん島津宗家の救援が及ばない。
(援軍は撃退された)
ここに至り、遂に島津宗家は飫肥城を放棄する断腸の決断をする。
でないと、豊州家や飫肥城兵が飢え死にしちゃう~~(_´Д`)アイーン
島津に最終決断をさせたのが小林城主・米良筑後守重方です!!
米良筑後守重方は伊東側代表として、島津方代表の北郷忠顕と戦後交渉を行い、
島津軍の撤退と飫肥領の割譲を実現させ『知勇兼備の将』と謳われました 川* ̄д ̄*川ポッ
島津と争ってた念願の飫肥をゲッツした伊東義祐は、相良義陽と共に島津義弘の飯野城挟撃作戦を企んだのです。
が、大河平氏編で紹介したように大河平ナミが軍事情報をリークしたために計画は失敗しました^-^
猛将・島津義弘公が踏ん張り続ける真幸院・飯野方面だけは思うようにならない~~~
が、しょせん、それは真幸院の中の一部のハ・ナ・シ♪
永禄12(1569)年から、伊東義祐 自らが真幸院に対し、領地宛行状の発給を始める。
東の飫肥領は島津からゲットして伊東の支配下。
西の真幸院における公儀権確立。
これらの状況から、日向国の殆どは伊東義祐の手中になったと言える。
(義弘公が飯野で頑張ってるので『全部』じゃないのです)
絶頂期を迎えた日向・伊東氏、、、ここまでなら島津から伊東へと乗り換えた相良義陽の判断は正しかったのだ。
だが、絶頂期の瞬間から伊東家崩壊の序曲が奏でられ始める。
それが、日向戦国史上で名高い『伊東崩れ』です。
島津との闘いで輝かしい功績をたてた米良一族にも、主家崩壊に伴い悲痛な運命が待ち受けて・・・(´;ω;`)ウッ
チーン(鼻かみかみ)・・・ (゜-Å) ・・・待ち受けているのだが、それは・またの話 by^-^sio