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大事萌え♪なので繰り返します小林城主・米良筑後守重方 ですよ 川* ̄д ̄*川ポッ
萌え大事なので繰り返します小林城主の弟は米良美濃守矩重 ですぞ(`・ω・´)キリッ
≪はじめに≫
自分の本業研究は「肥前史」で、歴史記事は趣味で紹介しております。
肥前史以外の資料は所蔵していないので、記載している出典元は基本として自分では未確認です。
ですから、あくまでも「こういう見方もあるんだ~」という程度の「読み物」としてお楽しみ下さい^-^
≪記事内ルール≫
年号⇒⇒⇒旧暦対応です
青文字⇒⇒一次or二次史料などの元出典があるもの
緑文字⇒⇒三次史料や補足&解説となる部分
他の色文字⇒⇒分析・推測・・つまりIFバナなので、苦手な方はスルーで^^;
郷土史の神様からお告げが・・・
「もう皆さん、薩摩はお腹いっぱいですよ・・・
先に日向・大河平編で書いた伏線を回収しなさい(`・ω・´)メッ」
相良義陽の運命の歯車を動かしたのは・・・やはり島津を裏切り、日向・伊東氏と組んだことだろう。
義陽が薩州家から天草地方・長島を押領された一方で、宿題だった豊福城攻略成功と、
すったもんだの永禄8(1565)年・・・・
その翌年、永禄9(1566)年9月に日向・霧島山が噴火
平成になって、新燃岳(霧島山中央部)が噴火したのは記憶に新しいところだが、
永禄9(1566)年の噴火は御鉢の方で、霧島詣での一向宗信者が多数死亡している。
(※御鉢は霧島山の高千穂峰に付随する側火山で新燃岳の約2km東南)
真幸院(現えびの市)からだと20km弱東南、風向きもあるから火山灰が何処まで飛ぶか判らないけど、確実に火山性地震は発生してたはず^^;
ちなみに雰囲気として・・・新燃岳が噴火した時の画像です^^/
真幸院より更に霧島山に近いのが小林市です。(御鉢は小林市から見て西南10~15km)
同年10月26日、噴火翌月で人心が不安定な中、島津軍が伊東氏の小林城を攻撃する
(小林城位置データ:小林市真方下之馬場(城山公園))
小林城は、島津の飯野城に対抗するために築城された城で、実は未だ完成してなかった。
島津軍は築城途中の小林城を、兵2万余を動員して攻撃。
長兄・義久は大手口、次男・義弘は水ノ手口、三男・歳久は窪谷口のある南方から攻めた。
ちなみに歳久公が攻めた方向は、こんな感じ↓
こんな感じでシラス土壌の壁があって、この真上が本丸~~
左に行くと本丸に通じる土の階段があるんだけど、戦国当時からあったかは不明~~
籠城戦は凄まじい激戦となり、小林城の内堀と外堀が死体で埋まったそうだ。
残すは本丸だけとなり、ひぃぃぃ(@@)となりかけの大ピンチになるも、城主とその弟が奮戦。
その小林城の城主というのが、大河平氏の籠城玉砕後に今城を預かってた米良筑後守重方です 川* ̄д ̄*川ポッ
ほら~~、大河平編12「今城_落城」で「名前だけしか載せないのは勿体ない武将」って言ったじゃん~~
肥後守護職、菊池氏の末裔です (人´∀`).☆.。.:*・
高千穂の米良さんの同族です '`ァ'`ァ'`ァ(;´Д`)'`ァ'`ァ'`←米良(めら)萌え
日向は須木米良氏~元々は日向伊東氏の怨霊を払う神社の大宮司職をつとめる家系で、同族である高千穂の米良氏と同じく神社系武家^-^
てことで主君の伊東義祐から『格別の信頼をされてる家系』でして、それもあり小林城を作るよう命じられ、かつその城主にも任命された。
ちなみに、小林城主の前は須木城主でして、主君から両城の城主を兼任するように言われた。
それだけスペックが高く『知勇兼備の将と謳われた』武将です。
ちなみのちなみに米良筑後守重方と共に奮戦した弟は米良美濃守矩重(のりしげ)です。
兄で城主の米良筑後守重方が、城主兼任してた須木城は、小林城から地形無視だと5kmくらいの距離なんですが、峠越えあるんでアップダウンきっつぅ~~( ̄ω ̄A;アセアセ
残すは本丸のみとなった米良兄弟だが、須木城からの援軍・・・間ニアッタ━━━━ヽ(´ω` *)ノ━━━━ッ★
稲荷山に須木城からの援軍が布陣し、小林城兵と共に島津軍を挟撃。
一転、島津側の敗退となり島津四兄弟の次男・義弘は重症負ったのだが、それは・またの話 by^-^sio