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相良義陽_51【三位入道の耳は馬の耳_前編・・・かな?】

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≪記事内ルール≫・・・ちと変えて更に厳密にします。
年号⇒⇒⇒旧暦対応
青文字⇒⇒一次史料出典のみに限定
緑文字⇒⇒二次or三次史料など各種参照データ
他の色文字⇒⇒分析・推測・・つまりIFバナなので、苦手な方はスルーで^^;
自分の本業研究は「肥前史」で、歴史記事は趣味で紹介しております。
肥前史以外の資料は所蔵していないので、記載している出典元は基本として自分では未確認です。
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イメージ・花

実は・・・ワタクシ、伊東氏では祐兵(すけたけ)萌えです♪川* ̄д ̄*川ポッ 
祐兵は初代飫肥藩主にして伊東義祐の三男です。
日向は一次史料が四散してるので、以下の内容はウィキペディア参照です。

日向の覇者(暫定)となった伊東義祐には三人の息子がいました。
嫡男・歓虎丸は、天文18年(1549年)に数え10歳で病死します。
悲嘆に暮れた伊東義祐は出家し「三位入道」と称しました。
(※官位が従三位だったから)
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地図・日向
茶色のグリグリ●印は霧島山

勢い盛んな三位入道(伊東義祐)は、次第に奢侈と京風文化に溺れるようになり、本拠である佐土原(現宮崎県宮崎市佐土原町)は「九州の小京都」とまで呼ばれた。

実のところ、伊東氏のバブル生活を支えた資金の出所って明瞭にはなってません。
相良の場合は具体的な数字の記録はないものの、明と交易し八代に貿易港があったことは判ってます。
でも伊東氏の場合は、ハッキリしてないんです^^;

伊東義祐の傲慢・奢侈な生活は、家臣も眉を顰め領内でも袖を引き合い笑っていたのだが、それでも内部統制はとれてました。
それは家督を継いだ二男・伊東義益の存在があったからです。
伊東義益は、永禄3年(1560年)に家督相続し都於郡城主となって義祐の後見を受けて、伊東氏全盛期への覇道を支えました。
次男は、智勇に優れた人物で、その上温厚な性格であったために、父以上に家臣団・民衆から慕われたそうです。

三位入道さまが贅沢してても、現在は二頭政治で将来的には伊東家の全てを掌握するであろう次男・義益がいたので、領内はバランスがとれてたんです。
永禄12(1569)年7月11日、全日向国『期待の星』伊東義祐の次男・義益(よします)が病のため亡くなる
真幸院も飫肥も手に入れ、あとの目障りは飯野(真幸院の一部)で踏ん張り続ける島津義弘だけ。
(・・・もちろん、だけじゃないんだけど、長くなるんで割愛)
絶頂期を迎えた瞬間に、ジェットコースターの如く失墜の兆しとなったのが、この義益の死でした。

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人物・伊東義祐
橘朝臣幸麿さま作画・伊東義祐(三位入道)イメージ画像

親にとって我が子を失う以上の不幸はないだろう・・・
愛息(嫡男)の早死で出家したほどの三位入道=伊東義祐です・・・
彼の精神(こころ)は二度目の不幸に耐えられなかった・・・

もともと歓虎丸の死後、出家するほど禅宗にハマってたのだが、息子の死で増々のめりこむようになった。
諫言する家臣は遠ざけ、周囲をイエスマンで固めて「裸の王様」になる。
同年8月20日、次男・義益の死で傷心の伊東義祐は、政(まつりごと)への情熱を失い『VS島津義弘公』用の桶平城を撤収してしまう。

一方、親である三位入道と違うベクトルで悲嘆に暮れたのが、伊東義益の領民たちです。
城中のすべての者が剃髪して菩提を弔うという異例の葬儀が行われた。
家臣も領民も暗澹たる心地だっただろう・・・傷心のあまり・・とはいえ、三位入道の暴走を止めるものがいなくなったのだ。
(※三男・祐兵は飫肥城に入ってました)

想定外の事でミリタリーバランスが崩れ、伊東からの圧力が減った分、島津が息を吹き返す。
島津義弘に伊東勢が大敗北する「木崎原の戦い」は、次男・義益の死から三年後の元亀3年(1572年)5月なのだが、それは・またの話 by^-^sio

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