≪記事内ルール≫
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赤・オレンジ文字⇒⇒分析・推測・・つまりIFバナなので、苦手な方はスルーで^^;
自分の本業研究は「肥前史」で、歴史記事は趣味で紹介しております。
肥前史以外の資料は所蔵していないので、記載している出典元は基本として自分では未確認です。
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アイとは、悲哀、哀惜のアイ。
アイとは、愛情のアイ。
伊東氏が主君でなければ、違う運命であったであろう優れた武人・須木米良一族に捧ぐ・・・
最盛期を迎えた伊東氏の失墜・・・一つ目の要因は家中・領民から慕われていた伊東義益の死でした。
二つ目の要因は「木崎原の戦い」で島津義弘に伊東氏が敗れたことです。
木崎原の戦いについては、相良氏が絡んでるので後日たっぷりと・・・(*´ー`)フフフフ・・
で、大河平編でも書いたけど、かつて島津義弘を見事撃退o( ̄Д ̄θ★ケリッ! ってした戦歴を持つ、
知勇兼備の勇将にして小林城主の米良筑後守重方が『木崎原の戦い』討死します ・゜・(つД`q。)・゜・ヒーン←米良一族萌え
その首は、義弘による首実検の後、米良家の菩提寺である一麟寺に送り届けられた。
その首級の弔われた墓は「米良筑後守の墓」として小林市指定・史跡に、首が送り届けられた時の首桶は小林市指定・有形文化財になっている。(ウィキペディより引用)
で、前にも強調文字で書いた米良筑後守重方の弟・米良美濃守矩重が遺領を相続し地頭となりました。
が、息子・義益の死去以来、政(まつりごと)に情熱を失い周囲をイエスマンで固めてた三位入道(伊東義祐)と領地に絡んでトラブルになります。
人間、お金が絡むと人が変わると良く言われるが、武家は領地が絡むと人が変わる(と思う)
伊東氏に遺恨を抱いた米良美濃守矩重は、天正4年(1576年)に島津氏へと寝返ってしまう。
8月23日には高原城が落城し、そのため「VS島津対策用」だった米良の小林城・須木城、&落城した高原城がオセロのように島津エリアにひっくり返る。
これが、直接の引き金となり「伊東崩れ」が始まった。
伊東方の城が一つ、また一つと攻略されていったが、三位入道周辺の佞臣は自分の保身のために島津の領内侵攻を三位入道に伝えなかったそうだ。(と、書いてたサイトを見たが出典元不明^^;)
伊東氏も「伊東崩れ」でド派手に没落するんで、当然一次史料四散~~~
江戸期編纂資料に頼るしかないんで、伝承が何処まで史実に近いか確認しようがない状態です^^;
裸の王様・三位入道こと伊東義祐の晩年は、従者を撒いて「ブラリ一人旅」したりと勝手気ままに過ごしつつ、何だかんだと娘に看取られ堺で亡くなります。
(一人旅中に発病したんで、危うく身元不明者として放置死されるところだった^^;)
伊東氏の御家再興に成功したのは、伊東義祐三男の祐兵 川* ̄д ̄*川ポッ
祐兵が飫肥で復活したと知った米良矩重は、島津家を無断で出奔、祐兵の前にまかり出てこれまでの非を謝罪し切腹を申し出るが、罪を許されて再び伊東氏の家臣となる。
関ヶ原直前に祐兵が亡くなり、伊東祐慶の代になると、清武の地頭に任じられたが、程なく病死したそうです。
清武も入れとくんだった・・il||li _| ̄|○ il||l
えっと---地理的に言うと、米良矩重は島津に安堵されてた小林城を放置して、勝手に飫肥まで行っちゃたんですよ^^;
そのことに関し、島津側から米良に対し追手や、伊東氏へのクレーム等はなかったようです。
そこは、、、その、何というか島津義弘公が、米良の心情を汲んだのかな~と自分は思います。
ちなみに清武は、現在の宮崎市清武町です。
実は米良矩重は没年不詳なんですが、最低でも慶長7年(1602)以降です。
というのは清武は慶長7年までは稲津重政が清武城主だったから^^
てことで懐かしの過去記事ほい(*´∀`)ノドン『飫肥藩初代藩主編』
あぁ~稲津さん~雪江さん~今読み返しても萌え泣ける (゜-Å) ホロリ
何度か書いてるが、須木米良氏は肥後菊池氏の末裔と言われ、日向伊東氏の怨霊を払う神社の大宮司職をつとめる家系。
伊東氏の信頼も厚かったので、その特別な家系である米良氏が、島津に寝返った為に『もうダメなんだ~』っと、他の伊東家臣も雪崩れをうって島津に寝返る・・・「伊東崩れ」が始まったわけです。
このあたり想像するより方法がないんですが、どうも米良矩重は過去の寝返りを悔恨し、
自分を許してくれた伊東祐兵・祐慶親子に対し『特別な思い』があったみたいなんです。
死に臨み米良矩重は嫡男・勘之助に対し、伊東祐慶が亡くなったら殉死するようにと遺言した。
ちなみに伊東祐慶は寛永13(1636)年4月4日没。
米良矩重・・・本当は自分が殉死したかったのだと思います・・・でも病になり先に死ぬんで出来ない。
だから嫡男に主の死出の旅の供を託した・・・・・
おそらく常日頃から息子に覚悟を言い聞かせてたんじゃないでしょうか。
「うちは同じ伊東家臣でも他家とは事情が違う!(`・ω・´)キリッ」←てな感じで。
米良矩重の嫡男・勘之助は、父の遺言に従い主君・伊東祐慶が亡くなると殉死を遂げた。
・゜・(PД`q。)・゜・・゜・(PД`q。)・゜・ 米良さん・・・この親子は・・・
伊東祐慶の跡継ぎに仕えるって選択肢はないんですか・・・・゜・(PД`q。)・゜・・゜・(PД`q。)・゜・
殉死した米良勘之助の墓は、日南市楠原の日南市指定文化財「伊東家累代廟所」に今も残る。
さぁ、時計の針を永禄9(1566)年に戻そう。
相良義陽は、伊東氏没落の歴史を知るよしもなく、島津との闘いへと進ん行くのだが、それは・またの話 by^-^sio