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(補足)117_木庭教心城統勝連著書状

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ようやくデータ整理終わったです ( ̄ω ̄A;アセアセ

城主計助統勝と木庭隠岐入道教心は、熊本県玉名市(旧玉名郡天水町)所縁の武将・・・
という所まで突き止めて、ちょっと自力では確認できず、某氏のご協力を仰いで追加調査してもらいました。

天水町史に上記の人名が記載されてまして、確認してもらったところ出典元が龍造寺家文書だった^^;
町史アルアルですな ( ゚Д゚)y─┛~~

で、某氏様は更に調べて下さり
天水地区は山上三名字(田尻、牛島、内田)という豪族の領地で、
天水地区の中央部分(小天地区)は田尻氏の所領だった模様。
というところまで調査して下さいました (*ノ・ω・)ノオオオオォォォォ

で、自分のデータと某氏さまのデータを総合した結果として、あくまでも推測ですが、

「木庭氏」というのは、田尻氏か内田氏のどちらかが、
城親賢が隈本城主として入った時に臣従or与力として従属した時に拝領した姓っぽい。
てことで田尻家文書や! アタヽ(´Д`ヽ ミ ノ´Д`)ノフタ アタヽ(´Д`ヽ ミ ノ´Д`)ノフタ
肥後田尻氏自体は、筑後田尻氏の庶流と言われてます。
が、系図上で別れたのが何代目からなのかは探せなかった(´・д・`)

で、筑後田尻氏が肥後に領地安堵うけてるかな~
とガーーっと田尻家文書を手繰ってみたが、ザッと見た限りは無さそう。
となると筑後田尻氏と肥後田尻氏は、戦国期の前・・・最低でも南北朝のころ位に分かれて、それぞれに動いてたんじゃないかな~と。
ただ筑後は肥後と連動した動き(特に謀反時)チョイチョイあるんで、記録上で混同されてる可能性もなきにしもあらず^^;

実は・・・肥後田尻氏って、関東に末裔がおられるんです ( ̄ko ̄)
子孫なら系図とか由緒の伝承あるかもだな~伝手がないから聞けないけど^^;
詳細は個人情報なので、ここで書くのは控えさせてもらいます^^

で、山上三名字のうち牛島氏(天水南部から金峰山南麓あたりが領地)が肥前牛島氏庶流です。
てことで、こりは自分が本業なぅ (`・ω・´)キリッ

とはいえ肥前側からでは辿れず、肥後のほうでみっけ。
肥後文献叢書. 第3巻「新撰事蹟通考」近代デジタルライブラリでWEB公開してました^^
系図に書かれた由来よると牛島氏の祖から38代目の孫・三郎左衛門尉俊政の時に、菊池義武(義宗)の謀反に加担して討死したそうです。
で俊政の子・彦五郎公俊は(元亀天正の頃)、城親賢隈本城主の時に城に属し、城親賢から「城姓」を拝領したらしい。

牛島彦五郎公俊は、大友義鎮に「三郎左衛門を所望」しており、どうやらパパ俊政と同じ通称を公式に名乗る事をオネダリしたようです。
年度不明・12月12日に義鎮の花押もらってます。
同日に田尻善左衛門が「駿河守」の呼称を義鎮に許されてる。

どうも牛島彦五郎公俊の三郎左衛門&肥後田尻氏の駿河守の名乗り自体は、天文年間・・19年か20年からのようです。
牛島三郎左衛門や田尻駿河守とある書状の中に、小原鑑元(天文年間の肥後方分(=守護代)の名前があるから。
参照:小原鑑元のウィキペディア http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%8E%9F%E9%91%91%E5%85%83 
てことで、城主計助統勝は、肥前牛島氏の流れを汲む牛島彦五郎公俊の可能性が大です。

某氏様~~お蔭で、かなり判明しました。
忙しい中、調べて頂き本当にありがとうございますm(__)m
裏付けとるのに時間がかかって、記事にするのが遅くなって申し訳ありませんでした。
この場を借りて、改めて御礼申し上げます^-^

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